ラモス瑠偉
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| ラモス 瑠偉 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | カリオカ | |
| カタカナ | ラモス ルイ | |
| ラテン文字 | RAMOS Ruy | |
| 帰化前 | Ruy Gonçalves Ramos Sobrinho | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1957年2月9日(53歳) | |
| 出身地 | ||
| 身長 | 181cm | |
| 体重 | 71kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1977-1996 1996-1997 1997-1998 | 読売クラブ/ヴェルディ川崎 京都パープルサンガ ヴェルディ川崎 | 302 (83) 20 (0) 39 (0) |
| 代表歴 2 | ||
| 1989-1995 | 32 (1) | |
| 監督歴 | ||
| 2006-2007 | 東京ヴェルディ1969 | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2007年1月27日現在。 2. 2007年1月27日現在。 ■Template(Template‐ノート:サッカー選手ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
ラモス 瑠偉(ラモス ルイ、Ramos Ruy、1957年2月9日 - )は、ブラジル出身の日本の元サッカー選手、サッカー指導者。元Jリーグ監督。フットサルの元日本代表選手。現在は日本サッカー協会傘下にあるビーチサッカー日本代表監督。ブラジル名はRuy Gonçalves Ramos Sobrinho(ルイ(フイ)・ゴンサゥヴェス・ラモス(ハモス)・ソブリニョ)。
目次 |
プロフィール
生い立ち
ブラジルのリオデジャネイロから山側に70-80キロほど入る、メンデスという小さな町でサッカー好きな税理士の父の元、5人兄弟の4番目の子として生まれる。愛称の「カリオカ」は「リオっ子」という意味で出身地に由来する。
なお、「カリオカ」とは厳密にいえばリオ市中心部出身者を意味するが、実はリオ中心部出身でない。そのためフルミネンセ(リオ市郊外)もしくは、本当は「パウリスタ」(サンパウロ出身者)ではないかという噂もある。
現役時代
少年時代リオからサンパウロに移り、19歳の時に当時読売FC(現東京ヴェルディ)でプレーしていたジョージ与那城にスカウトされる。1977年4月に来日し入団。当時のニックネームはラモスの細い肉体に着目して名づけられた「エンピツ」。その後「カリオカ」の愛称で親しまれる。
MFとして有名だが、本人によればブラジル時代はDFとしてプレイしていたという。そして来日からしばらくはFWとしてプレイした。初めは若さと日本語もわからなかったためトラブルを起こし、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた事もあった(後述)。国内唯一の"クラブチーム"、ブラジルスタイルの"プロの集団"である読売クラブに対しては、日本サッカー協会や実業団チームからの妬みや反発が強く、クラブを代表してラモスが被害を受けた側面もある。しかし1年間の出場停止が解け復帰した1979年はいきなり、"得点王"と"アシスト王"の二冠を獲得。この偉業は日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか成し遂げた者はいない(Jリーグではアシストの個人表彰を行っていない)。
サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招いた1985年キリンカップでは、日本代表と並んで読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明し、海外クラブに勝てないどころか、対読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であると言えた(当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身)。国の代表として全く良いところ無く終わった日本代表に対して、読売クラブの、そしてラモスのテクニックが「世界基準」であることを改めて証明した大会であった。
このころより日系ブラジル人の元選手であるセルジオ越後らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。
日本サッカーが低迷する時代、読売FC(現在の東京ヴェルディ)対日産自動車(現在の横浜F・マリノス)だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。敵チームながら木村和司らと不遇の日本リーグ時代を支え、Jリーグ開幕、W杯出場へと日本サッカー発展させた功労者の一人。当時のラモスを木村和司は「非常に汚い選手だった…うまいけどね」と振り返る。
1989年に日本に帰化しサッカー日本代表に加わり、中心選手として活躍。1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア予選の日本代表に選出されるが、ブラジル流サッカーを信奉するラモスは、規律と組織を重視するハンス・オフト監督批判をマスコミ上で展開したため、一時期代表を外されかねない危機もあった。オフトとの和解後は代表のキーマンとして活躍するも、「ドーハの悲劇」を経験し念願のワールドカップ出場はならなかった。
Jリーグの発足で、読売FCからヴェルディ川崎になっても中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続けていたが、1996年夏にヴェルディの監督に就任したエメルソン・レオンとは以前から確執があったことから、レオンの下でプレーする事に対して拒絶反応をあからさまに示し京都パープルサンガへ移籍する。しかし翌1997年夏にレオンが退任するとすぐさま古巣のヴェルディ川崎に復帰。京都入団時に「関西のサッカーを盛り上げるために来た」「京都で現役を終える」と発言しながら、結果的には腰掛けにされた形の京都のサポーターの中には、このためにラモスに対して反感を持つ者も少なくない。(さらに当時ヴェルディで背番号10をつけて活躍していた若手FW石塚啓次をラモスがヴェルディに復帰する前に札幌にレンタル移籍させて、10番を欠番にした後、ヴェルディに復帰したラモスがそれを付けるといった動きもあり、ヴェルディのサポーターでも反感をもつ者もいた。)
1998年11月14日の対柏レイソル戦(日立柏サッカー場)で現役を退く。41歳9ヶ月5日という最年長出場記録は2009年に中山雅史に抜かれるまではJリーグ記録だった。1999年8月には三浦知良や武田修宏、北澤豪などのヴェルディ・オールスターズとJリーグ選抜軍によるJリーグ初の公認引退試合が国立霞ヶ丘競技場で開催された。この試合の最後の挨拶でファンに向けて「生まれかわっても、日本に来てワールドカップへ出たい」と涙ながらに語った。
フットサル日本代表に
サッカー引退直後の1999年2月、フットサル日本代表に招集された。同年3月、マレーシアで開かれた第1回AFCフットサル選手権に主将として出場、4位となった。[1]
引退後
評論家
引退後は評論家として活動。一時、解説業も行っていたが、乱暴な言葉遣いになってしまうことから、テレビ局側から敬遠されてしまう。2000年にブラジル政府より「リオ・ブランコ勲章」を受勲した。
沖縄かりゆしFC監督・FC琉球アドバイザー時代
2001年に、沖縄かりゆしFC(九州サッカーリーグ所属)のテクニカルアドバイザー兼任の形で現役復帰を果たすが、2002年シーズン終了後の経営陣との対立からの退団でチーム内選手の集団退団騒動にまで発展した。またこの年、連続テレビ小説さくらに居酒屋の主人役で出演した。かりゆしFC退団後は、退団選手が中心で、恩人・与那城ジョージが監督を務めるFC琉球(JFL)のテクニカルアドバイザーを務める。
柏レイソルコーチ時代
2004年10月にJリーグの監督を務めるために必要な公認S級コーチの資格を取得。2005年にビーチサッカー日本代表の監督に就任し、ビーチサッカーワールドカップではベスト4の躍進に貢献。同年9月13日、J1リーグで残留争いの真っ只中にあった柏レイソルのコーチに就任。古巣ヴェルディのJ2降格を決定させる試合の対戦相手として引導を渡す役目になるという皮肉な巡り合わせもあった。柏では監督の早野宏史よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、チームはヴェルディともどもJ2降格となりコーチを辞任。
東京ヴェルディ1969監督時代
2006年からはJ2落ちした古巣の東京ヴェルディ1969の監督に就任。前年度のレギュラーの殆どを失うチーム状況の中、「1年でJ1復帰」を掲げ、J2に加えACL出場のため登録メンバーを大幅に増やして臨んだが日程は過密となり、前年からの課題であったディフェンス面での不安を解消することが出来ず、J2初年度は7位で終了したが、2007年も指揮を執ることが早々と決定。
この年、チームは名波浩や服部年宏など実績あるベテランを獲得。在籍メンバー大半を入れ替える大型補強を行い、開幕前にはJ1昇格候補の筆頭に挙げられた。体制発表の際にクラブの萩原代表からは、圧倒的な強さを見せられなかった場合は早期解任の可能性まで示唆されており、背水の陣で臨むシーズンとなった。開幕5試合で4勝1分とスタートダッシュに成功したが、その後課題のディフェンス面の不安が露呈し連敗を重ね、第7節(対アビスパ福岡戦)から第12節(対サガン鳥栖戦)まで6連敗を喫してしまい、「(この先)2連敗なら解任」などといった厳しい状況に追い込まれた。
そのような状況の中、第13節(対水戸ホーリーホック戦)も大敗を喫しクラブワーストタイの7連敗となり、しかも不調の水戸に大量得点での今期初白星を献上するという失態に、次節の結果に関係なく解任濃厚(後任はコーチの柱谷哲二の昇格が有力)と報道された。しかし、続く第14節(対京都サンガF.C.戦)で4-1と大勝し、一転続投が決まった。
その後こだわり続けた4-4-2から3-5-2へとシステムを変更、守備の立て直しを図り、以後は安定して勝ち点を得られるようになった。9月頃からはフッキを1トップに据えた4-5-1へとシステムを変更したがこれが功を奏し、8連勝を記録するなど追い上げを見せ、2位でシーズンを終了。J1復帰を成し遂げた。なお、J1昇格を決めたセレッソ大阪戦は、監督に就任してちょうど100試合目(リーグ、ACL、天皇杯を含め)であった。シーズン終了後に監督を勇退。
同年9月15日に母がリオデジャネイロの病院で心臓発作のため82歳で死去した。だがこの事を選手にも伝えず、帰国もしないで指揮を執り続けた。
監督勇退後
エグゼクティブディレクター(マスコミ等では「常務」の肩書)として東京Vのフロント入り。2009年4月に退任すると、5月には東京Vスーパーバイザーに就任した。7月には再びビーチサッカーの日本代表監督に就任。元サッカー日本代表の前園真聖らを代表に加え、10月にアラブ首長国連邦・ドバイで開催されたワールドカップでは予選リーグを1位で通過するもポルトガルに破れベスト8となった。
特徴・評価
技術・攻撃的能力が高く、FW、攻撃的MF、ボランチと中盤から前ではどのポジションでも一流の実績を残した。日本リーグ時代のプレー振りからドリブラーの印象も根強くもたれているが、本質的にはパサーであり、当時の同僚たちは「ラモスのように正確でやわらかいパスを出せる選手はその後現れていない」との言葉を残している。
元々DFだったため守備的能力も高い。最も印象的な(得意な?)プレイは、中盤で相手のパスを奪ってそのままダイレクトに素早く縦パスを出すもので、93年のドーハの悲劇の時、韓国戦で取ったカズの得点は、ラモスのこのカウンター気味のパスから生まれた。また、スライディングタックルの名手でもあり、ドリブルする相手選手の斜め後方からトップスピードでスライディングタックルを仕掛けてもファウルを犯さずボールを奪える技術を持っていた。
ただし来日当初はうまい選手とは思われていなかった。その後、悪質な反則(本人曰くブラジルではあたりまえのプレー)で1年間の出場停止を食らい、試合に出られず練習しかできない日々の中で技術的に向上したと思われる。当時を知る者は「下手な選手だったけど、日本に来てからうまくなった珍しい選手だ」と評価する。本人は兄の方が上手いと語っている。
現役引退後でも、親交のある選手(いわゆる「ドーハ組」など)の引退試合等に招待出場する機会があると、現役選手に混ざっていても色あせないプレーを見せ周囲を驚かせる。生田智子(中山雅史の妻)はテレビ番組で「ラモスさんは技術があったから40歳まで(現役を)続けた」とコメントしている。
2007年にTBSスーパーサッカーの企画にて、現役バリバリのサッカー女子日本代表を揃えた「なでしこオールスターズ」を相手に、元日本代表で固めた「スーパーサッカーオールスターズ」の一員として参加。年下の小倉隆史や福田正博をさしおいて当時49歳とは思えないプレーでチームの挙げた得点の半分である5得点を叩き出し衰えない技術を披露。この活躍ぶりに加藤浩次から賞賛の意味で「今季は(ヴェルディで)プレイングマネージャーでいけるんじゃない?」とコメントをもらった。
人物
1977年に来日。1989年に日本に帰化。1984年に結婚した初音夫人との間に1男1女。
ブラジルのサンバが好きで、外苑前にあった「コパ東京」(後に成増へ移転)というシュハスカリア(シュハスコ料理店)では、月1回程度のペースでパゴーヂ(サンバの一種)を自ら演奏し歌っていた。楽器はタンタンを担当。
またラモスが出演するパゴーヂは俗にラモパゴと呼ばれる。なお2008年1月に、念願であった自身がオーナーであるブラジルレストラン、「Restaurante Carioca by R.Ramos」をオープンさせた。別の店ではあるがラモパゴも今後不定期で行う予定。
エピソード
- 子供のころ、体格的に細身だったので「ジッコ(Zico・やせっぽち)」とも呼ばれていた。これは前・日本代表監督であるジーコとおなじ理由である。
- 食事面でも日本にも慣れ親しんだが、本人曰く海産物は苦手。フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王」出演の際には、豆腐も「味がしない」という理由で食べられないとコメントしており、酒も生ビールしか飲まない。
- 左肩に妻の名前とハートマークに弓矢の刺さったタトゥーを施しており、Jリーグ開幕前後に多数あったスポーツニュース系番組での密着取材の際に愛情の証として度々披露していた。
- ディスコ好きで有名。また私服時は靴下は履かず、常に裸足で靴を履くこだわりを持つ。
- 「もっとも卑怯なフェイント」(一部のファンが良い意味で言っていることだが)こと「審判が笛を吹いた」フェイントの考案者として知られている。これは、相手選手とボールを奪い合っている真っ最中に、突如動きを止めて両手を広げ「おい、今のプレイのどこがファウルだって言うんだ!」と叫ぶというもの。相手選手は、審判がラモスのファウルを取ったと勘違いしてボールを奪う動作を中断するが、実際はオンプレイなのでその隙にラモスがボールを奪ってしまうのである。試合場はサポーターの歓声や鳴り物が響いているので相手選手が笛を聞き逃したと思ってしまう可能性は高く、面白いほど効果を挙げたそうだが、相手チームから「あのフェイントは止めろ」と言われ封印したという。
- 来日して間もない78年1月14日、ファウルをしてしまい退場処分を受けてしまったがファウルをされた相手選手が笑っているのを見て激怒し、その相手選手をグラウンドで追い掛け回し、1年間の出場停止処分を受けてしまった。
- 「喧嘩サッカー」を信条としており、指導者になってからも「組織力や技術が優れていても、裏づけとなる精神力・闘争心がなければそれは無駄になる。どちらも必要だ」という発言をしばしばしている。ピッチ上でもピッチ外でもラモスは闘争心を剥き出しにしており、その気性の荒さゆえにチームで浮いたり和を乱す存在と目されることもあった。1993年7月10日には当時ガンバ大阪に在籍していた賈秀全からファウルを受けた際、報復行為として賈秀全の顔面にボールを投げつけ大乱闘となった(ちなみにこのとき賈秀全は退場処分となったが、ラモスはイエローカードを受けるにとどまった)。
- 1996年のアトランタ五輪日本代表がオーバーエイジ枠を使わない方針を示したことに対し「勝ちに行ってない」と監督の西野朗を厳しく批判し「オレが監督だったらカズ(三浦知良)、井原正巳、柱谷哲二をオーバーエイジ枠で五輪代表に入れる」と発言した。それゆえ五輪日本代表がブラジル代表に勝利した(いわゆるマイアミの奇跡)時は大きなショックを受け、試合に関するコメントを一切拒否している。
- 1998年のフランスワールドカップ時にNHKの番組にて、惨敗した日本代表チームのプレーについて「こんなサッカーじゃ××しているのと一緒だよ」と発言し、その後同局での解説はなくなってしまった。また、同大会中に「(試合中に)ガム食ってニヤニヤするなよ」「彼らを日本代表と認めたくない」とも発言している。
- いわゆる「ブラジルサッカー」の信奉者であること、また先に挙げたように精神面を重視する発言がよく取り上げられるが、選手時代に代表監督だったオフトをはじめ、引退後はヨーロッパサッカーにかかわる指導者の元でコーチ修行をするなどその思想の影響も受けており、指導者としてはイメージと裏腹の現実的な視点も持つ。東京中日スポーツでサッカー評論を担当した際には理論的・冷静な分析を披露し、驚くサッカーファンも少なくなかった。
- 元DFだった影響かディフェンスには厳しく、ドイツW杯前に、日本代表の三都主アレサンドロの守備が雑なため、サイドバックとしては使うべきではないと名指しで批判した。
- 2006年J2終盤、「J1復帰できたら丸刈りしヒゲも剃る」旨の発言があったが、同年のJ1復帰はならなかった。
- 2007年に公開された日本映画「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」に本人役(1990年時)で出演した(広末涼子演ずる主人公に「ドーハでのロスタイム、コーナーキックに気をつけて!」と忠告される)。
- 日本代表ユニフォームに日の丸をつけるよう提案したのはラモスである。ラモスが始めて代表招集された当時の代表ユニフォームには日の丸がどこにもなく、左胸にJFAのシンボルマークである「カラス(八咫烏)エンブレム」だけだったため、ラモスが「俺たちはカラスのために戦っているわけじゃない」と発言したことが発端となり、1992年から代表ユニフォームにはどこかに必ず日の丸が入るようになった。
- サッカーの社会的地位が非常に高いブラジル出身の帰化人であることからか、代表選手に強く愛国心を求めている。先述のように、プロ意識と国民の期待を背負っているという責任感に欠けている(ようにラモスが感じた)選手を強く批判しており、ドイツワールドカップでも「やる気がない。自分のためだけに戦っている」と発言した。
- 時折関西弁を喋る事もある。
- 2001年9月には横綱曙の断髪式で曙の髷に鋏を入れた。
語録
- 「俺のポジションを取ろうとする奴は足の骨を折ってやる」
- 「日の丸の付いたユニフォームを着るなんて本当に夢のようだった。嬉しくて涙がこぼれたよ」
- 「カミサマ…。」(ドーハの悲劇で同点ゴールを決められた瞬間に天を仰ぎ)
- 「みんなタレントだよ。笑い顔で。タレントばっかり」(大事な試合で負けた日本代表を解説でこう表現した)
- 「シュート外して笑うなよ!」「ガム食うなよ!」「戦争なんだよ! ワールドカップは!」(フランスW杯での日本敗戦直後にNHKアナウンサー有働由美子の「でも、みんな頑張りましたよね」などのフォローを一切無視して、熱く叱咤した)
- 「冗談じゃないヨ!」
- 「残念でたまりませんですよ。ゼロからのスタートじゃないと、このチーム、ホントに立ち直んない」(東京Vの降格決定後、TBS系列のサッカー情報番組「スーパーサッカー」の記者に対して)
- 「コラコラコラ、日本人ならお茶漬けやろ!」(永谷園「お茶づけ海苔」のCMより。小学生男児2人組を叱咤する。次のバージョンでは若い女性に小学生男児が同様の台詞を言い「俺の台詞言うなよ…」とボヤく)
所属クラブ
- 1975年-1977年 サージFC(ブラジル)
- 1977年-1996年 読売クラブ/ヴェルディ川崎(日本)
- 1996年-1997年 京都パープルサンガ(日本)
- 1997年-1998年 ヴェルディ川崎(日本)
個人タイトル
- 日本年間最優秀選手賞 2回(1990年、1991年)
- JSL得点王 2回(1979年、1983年)
- JSLアシスト王 3回(1979年、1991年、1992年)
- JSLベストイレブン 6回(1979年、1983年、1987年、1990年、1991年、1992年)
- Jリーグベストイレブン 2回(1993年、1994年)
- 功労選手賞 (1998年)
個人成績
利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 th |- |1975||サージ|||||||||||||||||||| |- |1976||サージ|||||||||||||||||||| |- |1977||サージ|||||||||||||||||||| |- !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1977||読売||8||JSL2部||4||5|||||||||||| |- |1978||読売||||JSL1部||0||0|||||||||||| |- |1979||読売||8||JSL1部||15||14|||||||||||| |- |1980||読売||8||JSL1部||15||7|||||||||||| |- |1981||読売||8||JSL1部||9||1|||||||||||| |- |1982||読売||8||JSL1部||13||1|||||||||||| |- |1983||読売||8||JSL1部||14||10|||||||||||| |- |1984||読売||8||JSL1部||16||9|||||||||||| |- |1985||読売||8||JSL1部||18||7|||||||||||| |- |1986-87||読売||8||JSL1部||15||4|||||||||||| |- |1987-88||読売||8||JSL1部||17||4|||||||||||| |- |1988-89||読売||8||JSL1部||17||3|||||||||||| |- |1989-90||読売||10||JSL1部||22||5|||||||||||| |- |1990-91||読売||10||JSL1部||21||2||2||0|||||||| |- |1991-92||読売||10||JSL1部||18||2||5||0|||||||| |- |1992||V川崎||-||J||colspan="2"|-||8||1|||||||| |- |1993||V川崎||-||J||30||4||1||0||1||0||32||4 |- |1994||V川崎||-||J||26||3||3||0||0||0||29||3 |- |1995||V川崎||-||J||23||2||colspan="2"|-||0||0||23||2 |- |rowspan="2"|1996||V川崎||-||J||9||0||0||0||colspan="2"|-||9||0 |- |京都||-||J||10||0||9||0||2||2||21||2 |- |rowspan="2"|1997||京都||10||J||10||0||2||0||colspan="2"|-||12||0 |- |V川崎||10||J||10||0||0||0||2||0||12||0 |- |1998||V川崎||10||J||29||0||1||0||0||0||30||0 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始|||||||||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行147||9||24||1|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行210||69|||||||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行4||5|||||||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終|||||||||||||| |}
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 32試合 1得点(1990-1995)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1990 | 3 | 0 |
| 1991 | 2 | 0 |
| 1992 | 10 | 0 |
| 1993 | 14 | 1 |
| 1994 | 0 | 0 |
| 1995 | 3 | 0 |
| 通算 | 32 | 1 |
指導歴
- 2002年 沖縄かりゆしFC:テクニカルディレクター
- 2005年 ビーチサッカー日本代表:監督
- 2005年9-月12月 柏レイソル:コーチ
- 2006年-2007年 東京ヴェルディ1969:監督
- 2009年- ビーチサッカー日本代表:監督
監督成績
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
| 2006 | J2 | 東京V | 7位 | 48 | 71 | 21 | 8 | 19 | - | 3回戦敗退 |
| 2007 | J2 | 東京V | 2位 | 48 | 89 | 26 | 11 | 11 | - | 3回戦敗退 |
| J2通算 | - | 96 | - | 47 | 19 | 30 | ||||
CM出演
- 永谷園「Jリーグカレー」
- カレーを食べた少年がラモスに変身する。
- 永谷園「お茶漬け海苔」
- 東芝「BAZOOKA」
- 興和「バンテリン」
- 「こっちにはバンテリンがあるよ。これは有利です」(2002 FIFAワールドカップ直前)
- 久光製薬「エアーサロンパス」
- ダスキン「ミスタードーナツ」
- ダイハツ・テリオスキッド
- ホンダ・バモス
- 『バモス×ラモス篇』栗山かほりと共演(2007年2月 - )
- パチンコ・ABC(静岡県内のみの放映)
- ミロク情報サービス
映画出演
- シュート!
- バブルへGO!! タイムマシンはドラム式
- 両作品とも本人役(カメオ出演)
関連項目
外部リンク
| 日本代表 - 出場大会 | ||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
<noinclude>
| ||||||||||||
| 東京ヴェルディ及びその前身チーム歴代監督 |
|---|
| 読売サッカークラブ |
| n/a 1969-1971 | 成田十次郎 1972 | フランス・ファン・バルコム 1973-1975 | 西邑昌一 1976-1980 | 相川亮一 1981-1983 | 千葉進 1983 | ルディ・グーテンドルフ 1984-1986 | 与那城ジョージ 1986-1989 | シルバ 1989-1991 | ペペ 1991-1992 |
| ヴェルディ川崎 |
| ペペ 1992 | 松木安太郎 1993-1994 | ネルシーニョ 1995-1996.3 | 岸野靖之(代行) 1996.4 | エメルソン・レオン 1996.5-1997.1 | 加藤久 1997.1-1997.6 | バウディール・エスピノーザ 1997.6-1997.12 | 川勝良一 1997.12 | ニカノール 1998-1998.9 | 川勝良一 1998.9-1998.12 | 李国秀(総監督) 1999-2000 | 松永英機 1999 | 張外龍 2000 |
| 東京ヴェルディ1969 |
| 松木安太郎 2001-2001.7 | 小見幸隆 2001.7-2002.4 | ロリ 2002.4-2003.5 | レアンドロ・アウタイール・マシャード(代行) 2003.5 | オズワルド・アルディレス 2003.6-2005.7 | 石崎信弘 2005.7 | バドン 2005.8-2005.12 | ラモス瑠偉 2006-2007 |
| 東京ヴェルディ |
| 柱谷哲二 2008 | 高木琢也 2009-2009.10 | 松田岳夫 2009.10-2009.12 | 川勝良一 2010- |
| 京都サンガF.C.歴代主将 |
|---|
| 京都パープルサンガ |
| 美濃部直彦1994 | 杉山誠1995 | 望月聡1996 | ラモス瑠偉1997 | 大熊裕司1997 | 森保一1998 | 黒崎比差支1999 | 三浦知良2000 | 大嶽直人2001 | 野口裕司2002 | 石丸清隆2003・2004 | 中払大介2005・2006 |
| 京都サンガF.C. |
| 斉藤大介2007 | 佐藤勇人2008・2009 | 柳沢敦2010 |
カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2007年12月 | サッカー日本代表のテンプレート | 日本のサッカー選手 | サッカー日本代表選手 | 帰化日本人のサッカー選手 | ブラジル系日本人 | 読売サッカークラブの選手 | ヴェルディ川崎の選手 | 京都パープルサンガの選手 | 日本のサッカー指導者 | 日本のフットサル選手 | 1957年生 | 存命人物 | ビーチサッカー | リオデジャネイロ出身の人物
