君主制廃止論

君主制廃止論(くんしゅせいはいしろん)とは、君主制を廃止して、共和制に移行すべきだという考えである。

目次

君主制廃止や反発への動き

反君主制運動の要件を世界的にみると、国内政治の混乱と外国勢力による征服の二つに大別される。また、併合後にアイルランドやインドや朝鮮のようにその支配下から独立した結果として王政が廃止され共和制が導入されている場合もあるが。逆にサウジアラビアのように、オスマントルコ帝国の崩壊の後に新たに王政を敷いた国もある。また、第二次世界大戦後に多くの国が宗主国から独立したが、そのすべてが民主主義に移行したわけでなく、独裁制に移行した国も多い。シリアや北朝鮮など建前上は共和国でありながら世襲が行なわれる場合もある。

人権の平等意識が浸透した先進国の共和制の国では君主が世襲であることが時代錯誤であると認識されるが、王政の先進国では王室の人気は総じて高い。またタイなどでは国の団結および安定の象徴として崇拝に近い地位にある場合もある。

君主制と共和制との関連

共和制は君主制の対立概念であって、民主主義とは必ずしも同義ではないが、現代においては共和国は少なくとも民主主義を標榜している。もっとも、実態として民主的であるかどうかは別の問題で、北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国のように、実態は君主制と見なされる国家も存在する。また、現代においては制限君主制(日本・イギリス・オランダ・ベルギーなど)のように君主は存在するが統治権を付与されていない国家も多い。

なお、君主を廃止した共和国でも、ドイツ連邦共和国、イタリアのように象徴的な大統領を設けている例は多く、共和制がみな米国、第五共和制フランスのような大統領制になるかのような言説は誤りである。

日本

詳細は「天皇制廃止論」を参照

イギリス

2007年に行われた世論調査によれば、75%の国民が王室存続を支持しており、王室への強い愛着がうかがえる[1]。しかし、一方で、王族は民間人と乖離した生活や、頻繁にマスコミに取り上げられプライバシーのない状態などの「人権侵害」から解放すべきだという人道的見地から王制廃止論を主張する者もいる。2007年、ヘンリー・マウントバッテン=ウィンザーのイラク派兵が取りやめになったことに対し戦死者の遺族が不満を表し、王制への批判も出ている(ただし、2008年2月にはアフガニスタンに出兵していたことが判明。現在はイギリス本国に帰国している)。仮に王制が廃止された場合、ドメイン名にもなっている United Kingdom (連合王国)の略語のUKがUR(United Republic=連合共和国)に変わることも考えられる(en:Republicanism in the United Kingdom「イギリスにおける共和主義」に詳細あり)。

オーストラリア

イギリス連邦の一員であるオーストラリアでは、オーストラリアの国王でもあるイギリス女王の統治による立憲君主制から共和制への移行の是非を問う国民投票が実施されたものの、結果は現状維持が多数だった。なお、オーストラリアの共和制移行はイギリス王室の廃止にはつながらない(イギリス連邦傘下であり、国王に相当するのは総督。なお、君主制廃止は連邦からの独立を必ずしも意味しない)[要出典]

ベルギー

ベルギーでは、王制は安定しているが、フランス語圏とドイツ語圏の対立があり、フランデレン人の右翼政党フランデレン・ブロックが、「外国人」である国王を拒否して共和制を唱えている[2]

スウェーデン

スウェーデンの主要政党のひとつ社会民主労働党は、1911年以来、共和制導入を党是の一つに掲げている[3]

君主制を廃止した革命

君主制が廃止された国

イタリア

第二次世界大戦後の1946年に、サヴォイア家ムッソリーニ独裁を許した責任を問われ、僅差であったが、国民投票で王政廃止が決まり、ウンベルト2世はポルトガルへ亡命した。その後、イタリア共和国憲法でサヴォイア王家直系男子のイタリア再入国禁止が決まり、2002年の憲法改正を経て、2003年までウンベルト2世の息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアはイタリアへ帰国することができなかった。

ギリシャ

かつて、軍事政権期は政情が不安定であったが、1973年に王制が廃止されて国王コンスタンティノス2世が亡命してからは政情が安定している。国王が亡命中の1973年、王制廃止の是非を問う国民投票が行われた結果、共和制派が多数を占めた。

イラク

イラクハーシム家の王制であったが、バアス党のクーデターによって王族が虐殺され、王制が廃止された。

イラン

イラン1978年イラン革命が起こりパフラヴィー朝が廃され、イスラム共和制になった。

エジプト

エジプトではガマール・アブドゥン=ナーセルら青年将校によるクーデターが起こり、王制が廃止となった。

アフガニスタン

アフガニスタン国王ザーヒル・シャーが外病気療養のためローマに滞在中に軍部のクーデターが起こり、王制が廃止となった。1996年、ターリバーン首長(アミール・アル=ムウミニーン)ムハンマド・オマルを元首とする君主制を目指し「アフガニスタン・イスラム首長国」と国名を変更したが、2002年にターリバーン政権崩壊、2004年に正式に共和制を取り戻した。

リビア

リビア国王イドリース1世が病気療養でトルコに滞在中に、カッザーフィーと同志の将校たちによるクーデターが起こり、王制が廃止となった。

モルディブ

モルディブは、1965年、イギリスの植民地から独立し、1968年、国民投票によりスルタン制を廃止し共和制に移行した。

エチオピア

エチオピアでは、1973年に政情不安から陸軍の反乱が起こり、1974年9月12日には革命が勃発して、ハイレ・セラシエ1世は軍部によって逮捕・廃位させられた。軍部は翌1975年に帝政の廃止を正式宣言し、社会主義国家の建設を宣言して戒厳令を敷き、1987年には労働者党一党独裁のエチオピア人民民主共和国を樹立した。

ネパール

ネパールでは2001年に王族殺害事件が起こり、新たに国王に就任したギャネンドラ国王議会を解散し、自分に忠誠を誓う者のみを主要閣僚に任命し、専制政治を行った。そのため、ネパールの主要各政党は国王に反発し、各地で抗議行動を行ったほか、ネパール共産党毛沢東主義派(中国政府は一切の関わりはないと否定している)が各地でテロを行うなど、政情が混乱した。このため、ギャネンドラ国王は議会の復活と新憲法制定を約束し、事態を収拾させた。

2008年5月28日、ネパール制憲議会が招集され、連邦共和制に移行することを宣言し、王制が廃止されることになった。

君主制支持の動き

タイ

タイ王国では政治家同士の対立によって流血騒動が起きたとき、プミポン国王の鶴の一声によって騒動が一気に鎮静化したため、タイ国民の国王に対する信頼は以前にも増して高まっており、タイでは王制廃止はほとんど唱えられていない。ただし、タイで王政廃止の主張が展開されない理由として、タイでは王制廃止を目指す共産主義政党が最近まで非合法政党とされていたことや、不敬罪規定により王室批判は事実上不可能であることも指摘されている。2007年3月には、YouTubeに投稿された、プミポン国王の顔への落書き映像が“不敬である”として、政府が削除要請を拒否したYouTubeへの接続を遮断した[4]

リヒテンシュタイン

リヒテンシュタイン公国はヨーロッパ最後の絶対君主制国家といわれている。ナチズムの台頭を君主大権の発動によって封じ、その結果、中立を保つことができたためであるとされているが、同国は永世中立国のスイスと関税同盟をむすんでいたため、いたずらに刺激するのを枢軸国側が回避したという面もある。[要出典]

君主制が復活した国

カンボジア

カンボジア内戦が激しく、そのため、政情が極めて不安定になったため、国民を統合する象徴として、ノロドム・シハヌーク(いわゆるシハヌーク(シアヌーク)殿下)の人気が高く、シハヌークを国王とするため、新たに立憲君主制国家としてスタートした。しかし、与党人民党内には王制廃止論者も多い。[要出典]

スペイン

独裁政治を行っていたスペイン総統フランシスコ・フランコの死後、フアン・カルロス1世が国王の座に就任したが、カルロス1世は国内の民主化を進め、1978年に立憲君主制国家に移行させた。立憲君主制が民主主義の側面を打ち出しているケースの一例。ただし、共和制を目指すカタルーニャ共和党も存在する。[要出典]

脚注

  1. ^ “次期国王にウィリアム王子を=王室には愛着…英世論調査”. 時事通信社. (2007-12-29). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007122900060 2007-12-29 閲覧。 
  2. ^ 「統合の最後の砦」 三竹直哉 1999.3
  3. ^ スウェーデン君主制憲法における王位継承制度 : 選挙君主制か, 世襲君主制か 下條芳明(九州産業大学商学部)2004.12
  4. ^ “タイ「国王に落書き動画 許さん」 ユーチューブ遮断”. 朝日新聞. (2007-04-06). http://www.asahi.com/international/update/0406/TKY200704050439.html 2009-08-23 閲覧。 

関連項目

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