伊藤博文
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| 伊藤博文 | |
| 在任期間 | 第1次:1885年12月22日 - 1888年4月30日 第2次:1892年8月8日 |
|---|---|
| 生年月日 | 1841年10月16日(天保12年9月2日) 周防国熊毛郡束荷村(現・山口県光市) |
| 没年月日 | 1909年(明治42年)10月26日 |
| 出身校 | 松下村塾 |
| 称号等 | 従一位・大勲位・公爵 名誉博士(エール大学) |
| 党派 | 立憲政友会 |
| 配偶者 | 伊藤すみ子 伊藤梅子 |
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の幕末の長州藩士、明治時代の政治家。初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣。元老。
目次 |
概観
大日本帝国憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府初代統監・初代貴族院議長・初代兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。最終爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。
諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。(諱の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある)
アジア最初の立憲体制[1]の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として評価され、「明治の元勲」と呼ばれる[2]。
生涯
幼年期 - 挙兵
周防国熊毛郡束荷村字野尻[3]の農家、林(はやし)十蔵の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女、琴子。家が貧しかったため利助(のちの伊藤博文)は12歳ころから奉公に出されたという。父・十蔵が長州藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防国佐波郡相畑の足軽伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文の父子も足軽となった。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上聞多らと倒幕運動に加わった。
文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活動した。また、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺した。
文久3年(1863年)には井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航するが、留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)、四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走するもかなわず、下関戦争(馬関戦争)が勃発する。戦後は和平交渉に通訳として参加した。
長州藩が第一次長州征伐(幕長戦争)で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。後に奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。
明治維新 - 初代首相
維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事(当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年(1872年)5月に品川―横浜間で仮営業を始め、同年9月、新橋までの全線が開通した[4]。
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、征韓論争では「内地優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。
大阪会議を斡旋し、大久保が暗殺された後に内務卿を継承し、維新の三傑なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。明治14年(1881年)、政府は明治23年(1890年)に国会開設を約束し、伊藤は憲法制定や先進国の政治の調査のためにヨーロッパへ渡り、オーストリアのウィーンで憲法学者のローレンツ・フォン・シュタイン博士の講義を受け帰国後、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たす。明治18年(1885年)に近代的な内閣制度を創設。
内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報 (外国電報) が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となった。
のちに枢密院議長、貴族院議長などに就任。4度にわたって内閣総理大臣を務めた。
明治33年(1900年)には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。政友会はその後、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。
日露戦争では、日露協商論・満韓交換論を主張し、ロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対した。講和後は、戦後処理に奔走する。伊藤は後に、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている[5]。
韓国統監府初代統監就任 - 暗殺
明治37年(1905年)11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。
伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した[6]。また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取り、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお「本格併合は将来的な課題」として早期併合に反対していた伊藤だが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。
明治42年(1909年)、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)[7]。 11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
ただし、日本では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、李氏朝鮮および当時の韓国国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった一進会(自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている(韓国併合#歴史認識の比較も参照)。
また、暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある[8]。
伊藤の死に際しては、
日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国(韓国)の慈父である。
韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。
我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき輿論の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして自由民権の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である。
– 宮武外骨, 『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号
などの評価がある。宮武の評価は、当時としては異例のものであった。これまで伊藤を攻撃していたマスメディアまでも、その死に際して「伊藤公の死は日本の大損失である、否世界の大損失であると叫び、明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した。
死後
埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、桜に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に日本銀行券C千円券(1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。
韓国では、2009年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。
人物・業績
明治天皇との関係と苦悩
4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は常に順風満帆であったわけではない。明治10年代、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でない事もあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う面があり、機務六条を天皇に提示して認めてもらっている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないこと[10]を知った明治天皇は、明治31年(1898年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。 日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し、「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた[11]。
女子教育
明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立の計画への協力を求められ、これに協力した。
女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。梅子は1885年に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、梅子とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の梅子と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば梅子は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという[12]。
芸者好き
女好きは当時から非常に有名であり、女性とよく遊ぶことから、「箒」(女が掃いて捨てる程いたため)というあだ名がついた。また、宮武外骨の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた松方正義である)。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱でうなされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員松本剛明は子孫の一人。
民族衣装
扶桑社刊の『新しい歴史教科書』には、伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。韓国統監として韓国人の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。
操り人形
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が有栖川宮熾仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。
通称の変遷
当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。
栄典・爵位
- 明治10年(1877年)11月2日:勲一等旭日大綬章
- 明治17年(1884年)7月7日:伯爵授爵
- 明治18年(1885年)5月25日:スウェーデン王国 ヴァーサ勲章一等
- 明治22年(1889年)2月11日:勲一等旭日桐花大綬章
- 明治28年(1895年)8月5日:大勲位菊花大綬章 侯爵陞爵
- 明治29年(1896年)3月19日:ロシア帝国 アレクサンドル・ネフスキー勲章一等
- 明治30年(1897年)10月4日:ベルギー王国 レオポルト勲章一等
- 明治31年(1898年)4月29日:フランス共和国 レジョン・ド・ヌールグランクロワ章
- 明治39年(1906年)4月1日:大勲位菊花章頸飾
- 明治40年(1907年)9月21日:公爵陞爵
系譜
博文自身の語るところ[13]によれば、「先祖は河野通有の裔で、淡路ヶ峠城主の林淡路守通起である」という。また「実家は周防国熊毛郡束荷村の農家で、博文の祖父林助左衛門は、林家の本家林利八郎の養子となり本家を継いだ。林助左衛門の子、十蔵は萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した[14]」という。伊藤十蔵の長男が、伊藤博文公爵である。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の甥)が継いだ[15]。
系図
∴林通起(淡路守) ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃林通元 林通代 林通重(孫右衛門) 林通好 林通定 林通形 林通永 林通季 ┃ ┃ ┃ 林信勝(孫三郎) ┃ ┃ ┃ 林信吉(孫右衛門) ┃ ┏━━━┳━━━┻━┳━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃林信顕 林作左衛門 林惣十郎 林又左衛門 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃林信久(半六) 林源蔵 ┃ ┃ ┣━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃林惣左衛門 林平治兵衛 林与一右衛門 ┃ ┃ ┏━━━━━┻━━┓ ┣━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃林利八郎(半六) 林利右衛門 林増蔵 林助左衛門 ┃本家林利八郎為養子 ┏━━━━┳━━━━━━━━┫ ┃ ┃ ┃ 伊藤十蔵 女子(林新兵衛妻) 女子(守田直吉妻) ┃ ┃ ┃ 伊藤博文 ┃ ┏━━━━╋━━━━┳━━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃伊藤博邦 木田文吉 伊藤眞一 生子 朝子 ┃ ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃伊藤博精 清水博春 伊藤博通 伊藤博約 伊藤博忠 伊藤博臣 林博則 伊藤博経 伊藤博孝 伊藤博英 琴子 愛子 十四子 ┃ ┣━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃伊藤博雅 邦子 雪子 文子 典子 久子 ┃ ┣━━━━┓ ┃ ┃伊藤智明 八重子
- 伊藤氏 本姓藤原氏を称する。
∴伊藤弥右衛門 ┃伊藤直右衛門(水井武兵衛) ┃伊藤十蔵(林十蔵) ┃伊藤博文(林利助)
家族・親族
- 先妻:すみ子 内相大臣野村靖子爵の妹。
- 継妻:梅子 木田久兵衛長女(木田幾三郎の姉)。(芸者時代はお梅と名乗る)
- 養子:伊藤博邦 井上光遠の四男。妻は、易聖・高島嘉右衛門の長女たま子。高島嘉右衛門は伊藤博文と親交深く伊藤博文暗殺を易占し、本人に忠告した。
- 養子:伊藤文吉 (妾腹の子で庶子)木田幾三郎の長男として育てられる。農商務省参事官。軍需省顧問。日本鉱業社長。後に独立して男爵。妻は元首相桂太郎の五女、寿満子。
- 長男:伊藤眞一(妾腹の子で庶子)
- 長女:生子 内務大臣末松謙澄子爵の妻。
- 二女:朝子 ルーマニア公使西源四郎の妻。
- 孫:伊藤満洲雄(特定非営利活動法人国際福祉環境推進機構代表)
- 孫:伊藤博精(妻は元首相高橋是清の孫娘)
- 孫:清子 チェコスロヴァキア公使藤井啓之助の妻。
- 曾孫:文子 出雲国造家の千家達彦の妻。
- 曾孫:美代子 デンマーク大使田付景一の妻。
- 曾孫:芙佐子 最高裁判所裁判官藤﨑万里の妻。
- 曾孫:蔦子 ジュネーブ国際機関日本政府代表部大使鶴見清彦の妻
- 曾孫:悦子 防衛庁長官松本十郎の妻
- 玄孫:藤﨑一郎(駐アメリカ大使、元外務審議官)
- 玄孫:松本剛明(民主党所属衆議院議員)
- 玄孫:令子 財務省大臣官房参事官寺内肇の妻
邸宅
登場作品
- テレビドラマ
- 三姉妹(1967年、NHK大河ドラマ、役者:福田善之)
- 竜馬がゆく(1968年、NHK大河ドラマ、役者:中村敦夫)
- 花神(1977年、NHK大河ドラマ、役者:尾藤イサオ)
- 風が燃えた(1978年、TBS、役者:青年期 三浦友和 壮年期 平幹二朗)
- 獅子の時代(1980年、NHK大河ドラマ、役者:根津甚八)
- 二百三高地(1981年、TBS、役者:小沢栄太郎)
- 竜馬がゆく(1982年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、役者山口芳満)
- 春の波涛(1985年、NHK大河ドラマ、役者:伊丹十三)
- 新選組 第二部(1987年、テレビ朝日TV時代劇スペシャル、役者:ASKA)
- 奇兵隊(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、役者:堤大二郎)
- 翔ぶが如く(1990年、NHK大河ドラマ、役者:小倉久寛)
- 夜会の果て(1997年、NHK、役者:なべおさみ)
- 走向共和(2003年、中国、役者:平田康之)
- 竜馬がゆく(2004年、テレビ東京新春ワイド時代劇、役者:丹羽貞仁)
- 鹿鳴館(2008年、テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル、役者:風間杜夫)
- 篤姫(2008年、NHK大河ドラマ、役者:岡本高英)
- 坂の上の雲(2009年、NHK、役者:加藤剛)
- 映画
- わが恋は燃えぬ(1949年、日本、役者:東野英治郎)
- 明治天皇と日露大戦争(1957年、日本、役者:阿部九洲男)
- 天皇・皇后と日清戦争(1958年、日本、役者:阿部九洲男)
- 日本海大海戦(1969年、日本、役者:柳永二郎)
- 安重根と伊藤博文(1979年、北朝鮮、役者:ファン・ヨンイル)
- 二百三高地(1980年、日本、役者:森繁久弥)
- ロスト・メモリーズ(2002年、韓国、役者:ウ・サンジョン)
- 草の乱(2004年、日本、役者:山本圭)
- 長州ファイブ -CHOSHU Five-(2006年、日本、役者:三浦アキフミ)
脚註
関連項目
参考文献
- 『伊藤博文伝(上,中,下巻)』春畝公追頌会 編 、1940年
- 『伊藤博文文書(全30巻)』 ゆまに書房、2007-09年
- 『日本の上流社会と閨閥』早川隆、角川書店、1983年、211-215頁
- 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』別冊歴史読本57、第28巻26号、新人物往来社、2003年、226-227頁
- 『伊藤博文 近代日本を作った男』 伊藤之雄 (講談社、2009年)
- 『帝国日本の植民地法制―法域統合と帝国秩序』浅野豊美(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7)
外部リンク
- 伊藤博文
- 伊藤博文 | 近代日本人の肖像(国立国会図書館)
- 伊藤博文の千円紙幣(日本銀行)
- 日本の墓 伊藤博文
- 墓所:伊藤博文
- 伊藤博文と明治前期政治史に関する基礎的書誌
- 伊藤公資料館電脳頁
- 伊藤博文旧宅
- 歴代総理の写真と経歴 第1・5・7・10代 首相官邸サイト
- 伊藤博文 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
- 著者=“伊藤博文”で検索(近代デジタルライブラリー)
- 国立国会図書館 憲政資料室 伊藤博文関係文書(その1)
- 国立国会図書館 憲政資料室 伊藤博文関係文書(その2)
- 国立国会図書館 憲政資料室 伊藤博文関係文書(MF:個人蔵)
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| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| - - | 第1代 1885年-1888年 | 第2代 黑田清隆 | ||||||
| 第4代 松方正義 | 第5代 1892年-1896年 | 第6代 松方正義 | ||||||
| 第6代 松方正義 | 第7代 1898年 | 第8代 大隈重信 | ||||||
| 第9代 山縣有朋 | 第10代 1900年-1901年 | 第11代 桂太郎 | ||||||
| 貴族院議長(帝国議会) | 伊藤博文 - 蜂須賀茂韶 - 近衛篤麿 - 徳川家達 - 近衛文麿 - 松平頼寿 - 徳川圀順 - 徳川家正 |
|---|---|
| 参議院議長(国会) | 松平恒雄 - 佐藤尚武 - 河井彌八 - 松野鶴平 - 重宗雄三 - 河野謙三 - 安井謙 - 徳永正利 - 木村睦男 - 藤田正明 - 土屋義彦 - 長田裕二 - 原文兵衛 - 斎藤十朗 - 井上裕 - 倉田寛之 - 扇千景 - 江田五月 |
| 議院 | 貴族院 - 参議院 |
| 元老 | |||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1889 | 1891 | 1892? | 1898 | 1900 | 1902 | 1904 | 1909 | 1912 | 1913 | 1915 | 1916 | 1922 | 1924 | 1934 | 1940 |
| 伊藤博文 | |||||||||||||||
| 黒田清隆 | |||||||||||||||
| 山縣有朋 | |||||||||||||||
| 西郷従道 | |||||||||||||||
| 松方正義 | |||||||||||||||
| 井上馨 | |||||||||||||||
| 大山巌 | |||||||||||||||
| 桂太郎 | |||||||||||||||
| 西園寺公望 | |||||||||||||||
| 重臣会議 | |||||||||||||||
| 帯の始めは受命年(重臣会議は制度創設年)、終わりは終任年(死去年)。西郷従道は正式な受命を経ていない。 | |||||||||||||||
| 内務卿(第4,6代:1874年,1878年-1880年) | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 内務卿 | 大久保利通 - 木戸孝允 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 松方正義 - 山田顕義 - 山縣有朋 | ||||||||||
| 内務大臣 | 山縣有朋 - 西郷従道 - 品川弥二郎 - 副島種臣 - 松方正義 - 河野敏鎌 - 井上馨 - 野村靖 - 芳川顕正 - 板垣退助 - 樺山資紀 - 芳川顕正 - 板垣退助 - 西郷従道 - 末松謙澄 - 大隈重信 - 内海忠勝 - 児玉源太郎 - 桂太郎 - 芳川顕正 - 清浦奎吾 - 原敬 - 平田東助 - 原敬 - 大浦兼武 - 原敬 - 大隈重信 - 大浦兼武 - 大隈重信 - 一木喜徳郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 床次竹二郎 - 水野錬太郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 若槻禮次郎 - 濱口雄幸 - 鈴木喜三郎 - 田中義一 - 望月圭介 - 安達謙蔵 - 中橋徳五郎 - 犬養毅 - 鈴木喜三郎 - 山本達雄 - 後藤文夫 - 潮恵之輔 - 河原田稼吉 - 馬場鍈一 - 末次信正 - 木戸幸一 - 小原直 - 兒玉秀雄- 安井英二 - 平沼騏一郎 - 田辺治通 - 東條英機 - 湯沢三千男 - 安藤紀三郎 - 大達茂雄 - 安倍源基 - 山崎巌 - 堀切善次郎 - 三土忠造 - 大村清一 - 植原悦二郎 - 片山哲 - 木村小左衛門 - <廃止> | ||||||||||
| 後継職一覧 |
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| 外務大臣 (太政官達第69号) | 井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西徳二郎 |
|---|---|
| 外務大臣 (外務省官制(明治31年勅令第258号)) | 大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 -松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -田中義一 - 幣原喜重郎 -犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衛文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豊田貞次郎 - 東郷茂徳 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂徳 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂 |
| 外務大臣 (外務省設置法(昭和24年法律第135号)) | 吉田茂 |
| 外務大臣 (外務省設置法(昭和26年法律第283号)) | 吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 -大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平 |
| 外務大臣 (外務省設置法(平成11年法律第94号)) | 河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦 - 中曽根弘文 - 岡田克也 |
| 韓国統監(初代:1906年 - 1909年) | |
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| 韓国統監 | 伊藤博文 - 曾禰荒助 - 寺内正毅 |
| 朝鮮総督 | 寺内正毅 - 長谷川好道 - 斎藤実 - 宇垣一成 - 山梨半造 - 斎藤実 - 宇垣一成 - 南次郎 - 小磯國昭 - 阿部信行 |
