ハインリヒ・ヒムラー
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画像:Flag of Germany 1933.svg ドイツの政治家 ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Luitpold Himmler | |
|---|---|
| 生年月日 | 1900年10月7日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1945年5月23日(満44歳没) |
| 死没地 | 画像:Flag of Germany 1933.svg ドイツ |
| 出身校 | ミュンヘン工科大学 |
| 所属政党 | |
| 称号 | 1923年11月9日記念メダル[1] 黄金ナチ党員バッジ パイロット兼観測員章(de){{#tag:ref|空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングより個人的に贈られた[2]|group=#}} ドイツ鷲勲章(de) |
| 配偶者 | マルガレーテ・ヒムラ-(旧姓ボーデン) |
| サイン | |
| 任期 | 1929年1月6日 - 1945年4月28日 |
| 退任理由 | 総統による全官位剥奪 |
| 選挙区 | オーバーバイエルン チューリンゲン |
| 当選回数 | 4回 |
| 任期 | 1930年9月14日 - 1945年4月28日 |
| 退任理由 | 総統による全官位剥奪 |
画像:Flag of Germany 1933.svg 全ドイツ警察長官 | |
| 任期 | 1936年6月17日 - 1945年4月28日 |
| 退任理由 | 総統による全官位剥奪 |
| 任期 | 1942年6月4日 - 1943年1月31日 |
| 退任理由 | エルンスト・カルテンブルンナーを後任に任命 |
画像:Flag of Germany 1933.svg 内務大臣 | |
| 内閣 | ヒトラー内閣 |
| 任期 | 1943年8月24日 - 1945年4月28日 |
| 退任理由 | 総統による全官位剥奪 |
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler,
発音,1900年10月7日 - 1945年5月23日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)の第4代親衛隊全国指導者。ナチ党の政権掌握後、全ドイツ警察長官やヒトラー内閣内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握した。第二次世界大戦中にはヨーロッパのユダヤ人に対してホロコーストを組織的に実行した。ホロコーストで殺害されたとされる600万人のユダヤ人をはじめとして、ロマ・ポーランド人・カトリック聖職者・ロシア人捕虜・エホバの証人・障害者・同性愛者等、諸々の虐殺に対し責任を負う。第二次世界大戦終戦時にアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗し、捕虜になった後に自殺している。
目次 |
経歴
生い立ち
ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国の首都ミュンヘンのヒルデガルト通り(Hildegardstraße)二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた[3][4]。
父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー(Joseph Gebhard Himmler)は、税関職員の非嫡出子として生まれ、貧しくも苦学して名門のルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンを卒業しギムナジウムの教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室のハインリヒ王子の家庭教師を務めていた[5][3][4]。母アンナ・マリア・ヒムラー(Anna Maria Himmler)(旧姓ハイダー(Heyder))は、裕福な貿易商人の娘で、1897年にゲープハルトと結婚していた[6]。
ハインリヒが生まれる二年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルートヴィヒ(Gebhard Ludwig)を儲けている[7][8]。さらに1905年12月23日には三男エルンスト・ヘルマン(Ernst Hermann)が生まれている[9][10]。
ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」もバイエルン王族から名付けた名前であった。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの代父となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものだった[9][11]。当時、王室の人間から名前をもらうことは大変な愛顧であり、名誉なことであった[3][4]。こうした王室との関わりとカトリックへの厚い信仰心によってヒムラー家は大変に保守的な家風であり、ハインリヒもカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。ただし父ゲプハルトは反ユダヤ主義者ではなかった[4]。
父ゲプハルトの遺したメモによるとハインリヒは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れは取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという[4]。1910年9月にミュンヘンの名門ギムナジウムのヴィルヘルムギムナジウム(Wilhelmsgymnasium München)に入学したが[12]、1913年に父ゲプハルトがミュンヘン北東のランツフートにあるギムナジウムの共同校長に任じられたため、ヒムラー一家はランツフートへ移住した[13]。ハインリヒも父が校長を務めるギムナジウムへ入学している。ハインリヒは歴史学、古典学、宗教学で最優秀の成績をとり[14]、他の主要科目も優秀な成績であったが、体育だけは苦手だったという[15]。第一次世界大戦をはさんで1919年7月に同校を卒業した。卒業証書には「常に品行方正で、性格は几帳面な勤勉さを持っていた」と記された[14]。
第一次世界大戦中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr)の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった[16]。さらに1915年7月29日、17歳になった兄ゲプハルトが予備軍(Landsturm)に入隊し、1918年4月に西部戦線へ送られた[17]。
ハインリヒも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまずハインリヒがギムナジウムを卒業することを希望していたが、ハインリヒの熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使ってハインリヒの入隊の可能性を探った。はじめ海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず[18]、1917年末にバイエルン王国の第11歩兵連隊「フォン・デア・タン」に入隊した。レーゲンスブルクで6カ月の歩兵訓練を受け、1918年6月15日から9月15日まで士官候補生としてのコースを修め、9月15日から10月1日までバイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた[19][20]。
しかしハインリヒが前線へ配属される前に1918年11月初めにドイツ革命が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、ハインリヒが実戦経験を持つことはなかった{{#tag:ref|しかしハインリヒは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している[21]。|group=#}}。
なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で塹壕戦を経験し、兵長まで昇進して一級鉄十字章と二級鉄十字章を受章している[22]。また代父ハインリヒ王子は大戦中に戦死した。ハインリヒ王子の遺産のうち1000ライヒスマルクの戦時国債がハインリヒに遺贈された[4]。
第一次世界大戦後
第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしハインリヒはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には反革命義勇軍(フライコール)の一部隊であるラウターバッハ義勇軍に加わって社会主義者が立ち上げたミュンヘン・レーテ共和国の打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ハインリヒの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでもハインリヒは後方支援の任務に留まっている[20]。
その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトはハインリヒに農場で働くことを求めた[20]。ハインリヒは父の求めに応じてミュンヘン北方インゴルシュタットの農場で働いていたが、まもなくチフスに罹病し寝込み、医者から1年間療養してその間は大学で農学を勉強するよう薦められた。1919年10月18日、ハインリヒはミュンヘン工科大学に入学して農学を学ぶこととなった[23]。1919年11月9日、ハインリヒは大学内のある学生倶楽部に入会した。決闘で顔に傷を入れてもらいたいと願っていたためだった。当時のドイツの大学では男が決闘をして顔に傷を付けることは大きなステータスであったが[24]{{#tag:ref|同様に決闘で顔に傷を入れている人物にオットー・スコルツェニー親衛隊大佐やルドルフ・ディールス親衛隊大佐がいる|group=#}}、ハインリヒは胃弱でビールを飲むことが出来なかったため、「決闘に参加する資格なし」と認定されてしまった[14]。焦ったハインリヒは直ちに医者から胃腸過敏症の証明書をもらい、ようやく決闘への参加が認められた[14]。しかし誰も弱々しいハインリヒを決闘相手として認めてくれなかった。ハインリヒがようやく決闘して顔に傷を入れることができたのは、卒業間近の1922年6月22日のことであった[24]。
しかし大学時代のハインリヒは弱々しくも心優しい人物であったことがハインリヒの日記から窺える{{#tag:ref|ハインリヒの日記は、戦後ハインリヒの別荘からアメリカ軍兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けた。日記はハインリヒの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、スケートリンクの切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある[25]。|group=#}}。1919年には盲目の人物の家に何度も通って本を読み聞かせ[24]、1921年には貧しい老女の所へ通って食料などをそっと置いていった{{#tag:ref|1921年の日記にケルンベルガーなる老女の家にパンを置いていったことの記述がある。詳しくは語録の項目を参照|group=#}}。友人が病気になるとこまめに見舞いにいって、本人や家族に代わってお使いをした[26]。ウィーンの恵まれない子供のための慈善芝居にも出演している[26]。
またハインリヒの日記から、1921年頃からハインリヒが外国への移住を計画していたことが分かる{{#tag:ref|1921年11月23日付けのハインリヒの日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは語録の項目を参照|group=#}}。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年にソ連大使館にウクライナに移住できないかを問い合わせている[27]。
1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった[27]。卒業後すぐにオーバーシュライシュハイム(Oberschleißheim)で農薬や肥料を扱う会社の研究員となる[27]。しかし1923年8月末にはハインリヒはオーバーシュライシュハイムでの仕事を退職して、ミュンヘンに戻り、政治活動に専念するようになる[28][14]。
政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、バイエルン人民党に入党している(1923年に離党)[14]。1920年5月、ミュンヘン市民自衛軍に入隊し、ヴァイマル共和国第21ライフル連隊からライフルと鉄兜を受け取った[23]。第21ライフル連隊はエルンスト・レームが兵器担当将校を務めていた[29]。大学卒業に際して、ハインリヒはレームの組織した准軍事組織「帝国軍旗団」(Reichsbanner)に入団した[28][29]。1923年、国粋主義団体「アルタマーネン」(Artamanen)に入団している[14]。ここでリヒャルト・ヴァルター・ダレの独特な農本主義「血と土」思想に影響された。ハインリヒは、親衛隊全国指導者となったのちにダレを親衛隊に招き入れている[30]。
こうした政治活動や軍事活動を通じてハインリヒは、国粋主義に加えて反ユダヤ主義、生存圏、後のナチ党時代に連なる思想基盤を形成することとなった。
ナチ党黎明期の活動
1923年8月、党員番号14303で国家社会主義ドイツ労働者党に入党したが、ハインリヒはあくまで帝国軍旗団のメンバーとしてレームに従った。ミュンヘン一揆の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国軍旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている[31]。
ハインリヒがいつヒトラーと初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかしハインリヒがヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである[32]。
当時のハインリヒはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかしハインリヒの尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、ハインリヒの失望は深かった[33]。
党の活動が禁止された間、ハインリヒはエーリヒ・ルーデンドルフが興した偽装政党国家社会主義自由党(NSFP)に入党した[34]。同党にはナチス左派グレゴール・シュトラッサーがおり、ハインリヒは120ライヒスマルクで彼の下で働くこととなった。シュトラッサーは1924年5月と12月の国会議員選挙に出馬することとなり、ハインリヒはニーダーバイエルン(Niederbayern)の宣伝担当に任命された。これがハインリヒの最初の大抜擢となった[35]。オートバイに乗って走り回るハインリヒの姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している[36]。シュトラッサーはハインリヒについて「彼(ハインリヒ)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=ベルリン)へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている[37]。
1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されるとシュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年にシュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者となるとハインリヒはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとハインリヒもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった[33]。
ハインリヒは1925年から突撃隊に参加していたが、1925年8月8日には親衛隊へ移籍した(隊員番号168)。そして1927年には第3代親衛隊全国指導者エアハルト・ハイデンの代理に任じられた。しかしハイデンは1929年1月5日に「制服の仕立てにユダヤ人の店を利用していた」というスキャンダルを暴露され、ヒトラーによって親衛隊全国指導者を解雇された。これが転機となり、自他共に認めるハイデンの片腕であったハインリヒはハイデンの後任として、翌日付けで第4代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった。また、ハインリヒ自身も突撃隊上級大佐の肩書だった。
1928年にはリッペ自由州(Freistaat Lippe)ブロンベルク(Blomberg)の地主の娘で看護婦のマルガレーテ・ボーデンと結婚しているが、党からハインリヒに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ[38][39]。しかし経営不振で後に倒産、結婚後一年足らずで別居状態と化した[40]。
親衛隊全国指導者
ナチ党政権掌握前
ハインリヒは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1000人、1930年12月には2700人、1932年4月には2万5000人、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。この背景にはニューヨークで起こった世界恐慌があった。恐慌の影響でドイツに多くの失業者が発生し、彼らは「にわか国家社会主義者」となり、なだれを打ってナチスの突撃隊に入隊し、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働くようになっていた。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れていた[41]。親衛隊は突撃隊に対抗する道具としてヒトラーの興味を惹き、その規模の拡大が認められたのであった。後にヒトラー個人に忠誠を誓う親衛部隊という性格が強められていく。
1930年11月、ヒトラーは「党内の警察業務の遂行が親衛隊の基本任務である」と明確に定め、ハインリヒはこの任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校ラインハルト・ハイドリヒにハインリヒは目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌年に同課をSDに改組した。長官にハイドリヒを任命した。
1931年4月初め、ベルリンの突撃隊将校ヴァルター・シュテンネス(Walther Stennes)がミュンヘンのナチ党中央に対して起こした反乱ではベルリン大管区親衛隊指導者クルト・ダリューゲが鎮圧に活躍している。この功績で親衛隊はヒトラーから高く評価されるようになり、党内警察として突撃隊からの独立性を強めた[42]。1932年1月25日にはハインリヒは党本部建物である褐色の家(Braunes Haus)の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた[43]。
ハインリヒは親衛隊をヒトラー個人の護衛以外にも人種政策の推進の中核として位置づけるようになり、新規隊員には「支配民族であるアーリア民族」の血統証明が厳しく求められるようになった。1931年12月31日にはリヒャルト・ヴァルター・ダレを長官として親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を新設し、親衛隊員たちに対してRuSHAの調査と許可を経ずに結婚することを禁じた。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された。また婚姻が許可された親衛隊員は子供を持つことが義務として定められており、子供のない親衛隊員は給料の一部を受給できなかった。「ゲルマン人種を純粋培養するつもりだ」とハインリヒはことあるごとにスピーチするようになった[44]。
1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために親衛隊の制服を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた[42]。この黒服はよくファシスト党の黒シャツ隊を模したものと言われるが、実際にモデルとなったのはプロイセン王国近衛兵の軍服であるため正しくない。
ナチス党政権掌握後
ヒトラーが大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクから首相に任命されて政権を掌握した1933年1月30日、多くの党幹部が中央政府や各州の閣僚に就任したが、ハインリヒには当初何のポストも与えられなかった[45]。3月9日、ハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府がフランツ・フォン・エップ率いる突撃隊と親衛隊部隊に制圧されると、ようやくハインリヒはミュンヘン警察長官に任命された[45]。閣僚にこそ任命されなかったもののハインリヒは不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。ハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と狩らせた。バイエルン州法相ハンス・フランクの提唱で政治的敵対者を収容するダッハウ強制収容所が建設されると、ハインリヒはその運営の管轄を任せられた。1933年4月1日、ハインリヒはバイエルン州警察長官に任命された[46]。
1933年9月にはヒトラーをボディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭を集めて親衛隊兼儀仗兵部隊(ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー、略号:LAH)を創設させた。その司令官にはヨーゼフ・ディートリヒを任命した。この部隊は後に第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」に成長する。しかしディートリヒはこの部隊をヒトラーだけに責任を負い、ハインリヒから独立した存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってハインリヒとディートリヒの間で争いがあった[47]。
ヒトラー内閣内相ヴィルヘルム・フリックによる強制同一化政策(Gleichschaltung)によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までにプロイセン州とシャウムブルク=リッペ州(Schaumburg-Lippe)を除く全ドイツの警察権はハインリヒに任せられることとなった[48]。一方プロイセン州は首都ベルリンを含んでドイツ国土の半分以上を占めた巨大州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ハインリヒに警察権力を明け渡そうとしなかった。ハインリヒやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察ゲシュタポやその局長ルドルフ・ディールスの無法行為を讒言するなどして[49]、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。
ゲーリングはハインリヒに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)を新設し、ハインリヒをこれに任じたのであった。ハインリヒは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し[50]、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官の座に留任したが既に形式的な存在であり、実質的にゲシュタポ指揮権はゲーリングからハインリヒに引き渡されていた[51][52][53]。この後も警察権力は次々とハインリヒの下に集められていき、最終的に1936年にハインリヒが全ドイツ警察長官に任命されたことでハインリヒの警察掌握は完成を見た[54]。
一方ハインリヒがゲシュタポを掌握した頃、突撃隊は貴族やユンカーが牛耳る国防軍に取って替わる第二革命を唱え、合法的な政権奪取を目指して既存政治勢力と妥協を図る党指導部との緊張を益々高めていた。ヒトラーは突撃隊の粛清を企図しつつも、相手が長年の同志エルンスト・レームであることもあり、優柔不断になっていた。ハインリヒも恩人であったレームの粛清に思い悩んだが、ハイドリヒに「親衛隊の未来のためにも粛清に参加すべきだ」とつき上げられ、レーム粛清を決意した。ハインリヒも一度決意したのちはためらったり、手心を加えることはなかった[55][56]。ハインリヒとハイドリヒはゲーリングの指揮の下、暗殺対象者リストの作成にあたり、レームら突撃隊幹部の謀反の証拠を捏造し、とうとうヒトラーに粛清を決意させた。1934年6月30日の長いナイフの夜事件において親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた[57][58]。またこの事件の後、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクも親衛隊の「功績」を高く評価し、親衛隊が三連隊の軍隊を保有することを承認した。ハインリヒが欲しがっていた親衛隊の戦闘部隊親衛隊特務部隊が創設される運びとなった。この部隊が後に武装親衛隊となる[59]。親衛隊の党内権力は着々と拡大された。
レーム死後、すべての強制収容所は親衛隊の管轄となり、ハインリヒは、ダッハウ強制収容所の所長だったテオドール・アイケを全強制収容所監視監、親衛隊髑髏部隊(強制収容所看守部隊)総監に任命した[60]。
ヒトラー内閣発足以降、親衛隊はノルトラント出版社、ドイツ土石製造有限会社(DEST)、ドイツ装備製造有限会社(DAW)など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校だったオズヴァルト・ポールを親衛隊本部の経済部門の部長に任じて、彼にこれらの企業の経営を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位もポールの下に置かれていた。ハインリヒは親衛隊企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社はハインリヒが経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた[61]。
1936年6月17日、ハインリヒはフリックから全ドイツ警察長官に任じられた。ハインリヒはこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として秩序警察を発足させ、親衛隊大将クルト・ダリューゲを長官に任じた。一方政治警察のゲシュタポと刑事警察は保安警察として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた。さらに1937年11月13日には「親衛隊及び警察高級指導者」(Höhere SS und Polizeiführer、略称HSSPF)の職を新設してドイツの各地域に配置した。この職はハインリヒの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位をその地域において代行する者であった。
1939年9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安警察を統合させて、国家保安本部を設置させた[62]。
こうした警察権力掌握の過程の中で、親衛隊は国内外の様々な政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的だった陸軍元帥ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防大臣と陸軍上級大将ヴェルナー・フォン・フリッチュ陸軍総司令官をスキャンダルで失脚させたり、海外でもソヴィエト連邦陸軍元帥ミハイル・トゥハチェフスキーを初めとする赤軍首脳部が粛清されるよう謀略工作を行った。またオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースの暗殺にも関与し、オーストリア・ナチス党によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。
戦時中
1939年8月、ヒトラーからポーランド侵攻の口実を作るよう命じられたハインリヒは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのがグライヴィッツ事件であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員アルフレート・ナウヨックスがポーランド軍人に成りすましてポーランドのグライヴィッツ放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった[63]。
しかし大戦前期にヒトラーの信用を損なう事件もいくつか存在した。1939年11月8日、ヒトラーはビュルガーブロイケラー(Bürgerbräukeller)でミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜にスイスへ不法越境しようとしたゲオルク・エルザーが容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ハインリヒは背後関係の捜査を命じた。ハインリヒはヒトラーの期待にこたえるべく、自らがエルザーの所へ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ハインリヒはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった[64]。
またハインリヒやSDのハイドリヒは、ルーマニアの「鉄の護衛隊」を支持していたが、「鉄の護衛隊」は1941年1月にイオン・アントネスクに対して反乱を起こす。ヒトラーや外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップはアントネスクを支持したが、SDはなおも「鉄の護衛隊」を擁護し、ホリア・シマ以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD将校は処分された[65]。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大をとめる好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続々と任命するようになった。しかしながら戦争が進むにつれ、外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった[66]。
1942年6月4日、国家保安本部長官兼ベーメン・メーレン保護領副総督を務めていたハイドリヒが、イギリスが送りこんできたチェコ人暗殺部隊に暗殺された。しばらくはハインリヒが国家保安本部長官職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊少将を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはヒトラーの同意も得て親衛隊大将エルンスト・カルテンブルンナーを後任に任じた。1943年8月、ハインリヒはフリックに代わって内相に就任、名実ともにドイツ警察の支配者となった。
ヒムラーとホロコースト
開戦前から戦争初期にかけてハインリヒ以下親衛隊はユダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になったSDユダヤ人課のアドルフ・アイヒマンが注目され、1939年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはハインリヒはドイツ民族性強化国家委員(Reichskommisar fürdie Festigung des deutschen Volkstums)に任命された[67]。この権限に基づき、ハインリヒは親衛隊の本部の一つとして「ドイツ民族性強化国家委員本部」(RKFDV)を設置し、親衛隊大将ウルリヒ・グライフェルトを本部長に任じた。アーリア人の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策を推し進めた。
1939年9月のポーランド侵攻後、国家保安本部は占領下ポーランドやソ連占領地域にアインザッツグルッペン(特別行動部隊)を派遣してユダヤ人を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ハインリヒも1940年5月に「ユダヤ人根絶のボルシェヴィキ的方法は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている[68]。ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)の決定はハインリヒではなくアドルフ・ヒトラーと考えられている。ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏であるといわれる[68]。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはハインリヒと親衛隊である。
1941年6月にバルバロッサ作戦(独ソ戦)が発動された後、国家保安本部はアインザッツグルッペンをソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ハインリヒはポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスをベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウシュヴィッツを絶滅収容所と改築することを命じた。これを受けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた[69][70]。さらにこの後、ポーランドにユダヤ人の殺戮だけを目的としたベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所が建設された。ユダヤ人はヨーロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人課課長になっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。
正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒがベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行ったヴァンゼー会議であるとされる。この会議でユダヤ人問題の最終的解決について各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺は1941年代にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがハインリヒのユダヤ人問題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある[71]。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分の権限を誇示するための意味があったことを主張している[72]。
一般的にハインリヒや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。親衛隊経済管理本部長官であり、強制収容所運営の責任者であるオズヴァルト・ポールは一貫して強制収容所へぶち込んだユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指した。労働のできる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強制労働に従事させられた。1942年4月にハインリヒは「ユダヤ人といえども、労働に耐えうる者は労働させて消耗死せよ」との命令を出している[73][74]。
ハインリヒやポールの命令を受けてアウシュヴィッツやマイダネク強制収容所でもガス室送りにする者と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、ヨーゼフ・メンゲレはその典型として悪名高い[75]。
ただし、飽くまでもハインリヒはナチズムの信奉者であり、ヒトラーのユダヤ人絶滅の意思は完遂するつもりであった。したがって労働に従事させる者もいずれは殺すつもりであった。1942年秋にはハインリヒがオットー・ゲオルク・ティーラック法相との会談で「労働を介した絶滅」という言葉を口にしたことはそれが端的に表していると言えよう[76]。
軍司令官として
ナチ党の政権掌握後、ハインリヒは親衛隊の軍隊を持ちたいと考えていた。アドルフ・ヒトラーも軍の枠組みにとらわれずに自由に動かせる「私軍」をほしがっていた。ナチ党の私兵部隊の突撃隊には反ヒトラー派も多く、ヒトラーの「私軍」になりうる余地はなかった。1934年6月末、国軍(Reichswehr)と争っていた突撃隊幹部は長いナイフの夜事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはハインリヒら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高い評価を得ることとなった。ヒトラーは軍部からの信任も厚い親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。1934年9月24日、ヒトラーは三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ武装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが親衛隊特務部隊であった。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはハインリヒが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。
特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年以降国防軍(Wehrmacht)と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州バート・トェルツに親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年にはブラウンシュヴァイクにも親衛隊士官学校が開設された[59]。特務部隊の軍事教練にはパウル・ハウサー(1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ハインリヒの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた。
1936年10月1日、ハインリヒはパウル・ハウサーを特務部隊の総監に任じた。1939年5月、ヒトラーは2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。ハインリヒは師団創設のため砲兵連隊の設立を急いだが、1939年9月のポーランド侵攻までに間に合わず、親衛隊特務部隊はこの戦争を連隊編成で参加した。ポーランド戦後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。特務部隊は1940年4月22日の親衛隊作戦本部の司令により親衛隊特務部隊は武装親衛隊(Waffen-SS)と名を変えた。武装親衛隊はどんどん拡張され、大戦を通じて38個師団90万の兵力を数えるまでに成長した。国防軍に比べると損害率や戦死者・負傷者が多かったが、ハインリヒはこの理由について「国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるため」と説明していた。
武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である親衛隊大将ゴットロープ・ベルガーが主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層やドイツ系外国人なども盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装SSに勧誘した。ハインリヒは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れにはアレルギーがあったがベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。武装親衛隊の中にはインド人で構成された部隊やボスニアのイスラム教徒を中心に構成された師団まで存在した(第13SS武装山岳師団)。
ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒトラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月には国防軍情報部(アプヴェーア)部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が失脚。ヒトラーはアプヴェーアの機能を国家保安本部第6局(国外諜報Ausland-SD、局長ヴァルター・シェレンベルク)の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた。
さらに1944年7月20日、ヒトラー暗殺計画の鎮圧に際してハインリヒは国内予備軍司令官の地位を授かった(実務は親衛隊大将ハンス・ユットナーが代行した)。この時から陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用も陸軍から親衛隊経済管理本部の手に移っている。親衛隊は国防軍に対して完全なる優位を確立した。
さらに1944年12月2日にハインリヒはヴァイクセル軍集団司令官に任じられた。ドイツ本土に迫る赤軍を迎え撃つが、部隊指揮経験を持たないハインリヒはまともな作戦指揮が出来なかった。結局、1945年3月20日、同軍集団の司令官職を陸軍大将ゴットハルト・ハインリツィに引き継いでいる。
ヒトラー暗殺計画
1944年7月20日、陸軍大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルクら国防軍将校がヒトラー暗殺を実行した。ハインリヒは一連の謀反の最大の鎮圧者となったのだが、ハインリヒ自身もヒトラー暗殺計画に関与していた可能性がある[77]。
暗殺計画実行直前の1944年7月17日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画を立てている者としてカール・ゲルデラーと陸軍上級大将ルートヴィヒ・ベックの逮捕状を発給するようハインリヒに求めているが、ハインリヒは何故か拒否している。SDの某将校は「ハインリヒは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともハインリヒがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となってはわからないが、いずれにしてもこの暗殺計画は失敗におわり、その後のハインリヒはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった[77]。
1944年7月20日、爆弾事件の報告を受けたハインリヒはベルリンへ直行してヒトラーと面会し、「総統、後のことは私にお任せください」と述べている[78]。ハインリヒは国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーに大々的な捜査・逮捕を命じた。カルテンブルンナーの指揮の下に捜査が進められ、最終的に5000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった[79]。
国防軍の将校たちが暗殺事件に関与していたことは国防軍の地位を下げることにつながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがハインリヒを国内予備軍司令官に任じたこともこのことのだめ押しとなった[80]。
戦争末期
講和交渉
1945年春、ハインリヒはドイツの最終勝利の確信を失っていた。これは専属マッサージ師フェリックス・ケルステンやSD第Ⅵ局(対外諜報)局長ヴァルター・シェレンベルクらとの会話から窺い知れる。ヒトラー政権が存続するためには、ソ連を除いた英米との講和が必要であると認識していた。
同年3月、ハインリヒはヒトラーの後継者を名乗り、デンマーク国境付近でスウェーデン赤十字社のフォルケ・ベルナドッテ伯爵の仲介で英米連合軍と和平交渉を始めようとする。ハインリヒはアメリカとイギリスがドイツ軍の残存兵力と共にソ連と戦うことを望み、西部戦線における講和を策動する。このハインリヒの活動は1945年4月28日、BBCの放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、ベルリンの総統地下壕に居住していたヒトラーの知るところとなる。また、29日にはアメリカのハリー・S・トルーマン大統領が正式にハインリヒとの交渉拒絶を発表している。
解任
かねてからヒムラーとの間の連絡将校ヘルマン・フェーゲラインが亡命を企てて逮捕されたことや、ベルリンの戦いにおける武装親衛隊の不活発さが原因でハインリヒに不信感を持っていたヒトラーは上記の報道を知って激怒した。ヒトラーはハインリヒの全官職を剥奪し、逮捕命令を出した。当時ハインリヒの官職は親衛隊全国指導者、ヒトラー内閣内務大臣、全ドイツ警察長官、国民突撃隊総司令官であった。
しかし当時の伝達機能の混乱により、ハインリヒの逮捕命令が伝達されたのはドイツ北部の指揮権を持っていた海軍総司令官カール・デーニッツの元に届いたものに限られた。デーニッツは逮捕命令を受領するが、命令にはドイツ北部の全反逆者の処置命令も附属していたために実行が困難なこと、またハインリヒが依然として警察や親衛隊を掌握しており、その兵力が多かったために命令を無視している。
5月1日午前0時頃にハインリヒは親衛隊員たちを引き連れてフレンスブルクのデーニッツの元を訪れた。デーニッツは不測の事態に備えてUボートの水兵で周りを固めた。自身も銃を書類の下に隠し持っていたという。デーニッツはここでヒトラーの電報をハインリヒに見せ、総統が死んだこと、みずからが後継者に指名されたこと、そしてハインリヒは解任されたことを告げた。電報を読んだハインリヒの顔は青ざめ、しばらく考えこんだ様子であったという。しかしすぐにデーニッツに祝福の言葉を述べ、みずからが次席としてデーニッツを支えたいと述べた。デーニッツはこれを拒否したが、親衛隊や警察勢力の離反を警戒して結局シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の行政長官の地位を与えた[81][82]。
しかしかねてから連合軍諸国に評判の悪いハインリヒは邪魔者扱いされ、5月6日17時頃にデーニッツは東方占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルクらとともに解任を申し渡した。ハインリヒは、デーニッツ政権の首相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵(ヒトラー内閣蔵相)と会談したが、結局デーニッツ政権との交渉を諦めた。
逃亡と死
デーニッツ政権を放逐されたハインリヒは5月20日に「野戦憲兵曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って眼帯を装着、ルドルフ・ブラント、カール・ゲプハルトなどの側近たちと共にホルシュタインからエルベ川を超えて逃亡していった。5月22日、ブレーマーフェルデ(Bremervörde)とハンブルクの間にあるバルンシュテット村のはずれでイギリス軍に拘束された。捕虜としてイギリス軍のリューネブルク捕虜収容所に送られた。
ハインリヒは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最期の命令となった。
ハインリヒは、イギリス軍の一兵卒の捕虜への粗末な扱いに耐えられなくなり、収容所所長に対して「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗った。さらに連合軍上層部との政治的交渉を求めた。所長は上層部に取り計らってみると回答したが、結局交渉は拒否された。翌5月23日、ハインリヒの身体検査が行われた。全裸にされ軍医が口の中を調べようとした際にハインリヒは奥歯に隠し持っていたシアン化カリウムのカプセルを噛み砕いて自殺した。自殺を防げなかった軍医は直後に「やられた」と口にしたという。遺体は一日放置され、イギリス軍の報告を受けて到着した米軍と赤軍の士官の検死を受けた後、リューネブルクの森に埋められた[83][84]。
家族
1928年7月3日、ハインリヒはブロンベルクの地主の娘マルガレーテ・ボーデンと結婚している。マルガレーテは金髪碧眼の長身であり、ハインリヒが理想とする「ドイツ女性」であった。彼女は第一次世界大戦中に看護婦をしており、ベルリンで短い結婚生活をした後、父の資金で診療所をやっていた。しかしハインリヒより7歳も年上であり、しかもプロテスタントの女性であったので、カトリックの両親は結婚に大反対した。しかしハインリヒは譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている[38][85]。
1929年8月にマルガレーテとの間に一人娘グドルーン・ブルヴィッツ(Gudrun)を儲けた。ハインリヒはグドルーンを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。ハインリヒはグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。強制収容所視察の日の夜、グドルーンは日記にそのことを書いている[86]。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ハインリヒはこの養子のことにはほとんど関心をもたなかった。グドルーンが生まれた後、ハインリヒは、妻マルガレーテに関心をなくし別居するようになった。
ハインリヒは1937年からヘトヴィヒ・ポトハスト(Hedwig Potthast)と愛人関係となっていた。ヘドヴィヒは1930年代半ばからハインリヒの個人スタッフの秘書となっていた女性だった。この女性との間に長男ヘルゲ(1942年誕生)と次女ナネッテ(1944年誕生)を儲けている[87]。ヘドヴィヒとの愛人関係が深まるとマルガレーテと離婚しようとしたが、グドルーンのことがあって結局中止した。
ヘトヴィヒの両親はハインリヒがヘドヴィヒに子供を身ごもらせながら結婚しようとせず、家すら用意しないことに憤慨していたが、私的生活は極めて質素であったハインリヒに愛人用の家を用意できる金はなかった。結局、党の金庫を握っているマルティン・ボルマンに頼んで党の費用から8000マルクを借り、ケーニヒス湖のベルヒスガーデン=シェーナウ(Berchtesgaden-Schönau)にヘドヴィヒ用の住居を建てることにした。ここはボルマン夫人ゲルダ・ボルマンの家に近いため、ハインリヒとボルマンの友好を深める場ともなった[87]。なお愛人やその子供2人に関することは一般国民には秘匿されていた[88]。
兄のゲプハルトは1939年から文部省に勤務して、工学出版物に関する課の課長となった。1944年には部長クラスに昇進。またゲプハルトは武装親衛隊にも入隊しており、親衛隊大佐まで昇進している。1945年には武装親衛隊監督官のポストに就任している。ミュンヘンにある欧州アフガニスタン協会にも勤務した。
弟のエルンストはベルリン放送局の主任技師を務めていたが、ベルリン攻防戦で戦死した。エルンストの孫、カトリン(Katrin Himmler)はユダヤ人と結婚し、祖父兄弟に関する著書がある。
ハインリヒの父ゲープハルトの異母兄であるコンラート・ヒムラー(Konrad Himmler)の孫にハンス・ヒムラー(Hans HImmler)がいる。彼はSS中尉であったが、酔って職務上の機密を漏らしたのを知ったハインリヒは彼に死刑判決を下させている。その後減刑されてハンスは前線送りとなったが、親衛隊について否定的な発言があったとされて再度逮捕され、結局ダッハウ強制収容所で「同性愛者」として銃殺刑に処せられている。この件は親族であっても親衛隊の規律を乱す者は容赦しないことをハインリヒが示したかったのではないかと考えられている[89]。
戦後、邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負ったグドルーンは戦後のドイツ社会から差別的な扱いを受け、彼女はナチス擁護の歴史修正主義者になった。戦後結婚してブルヴィッツと改名したが、グドルーンは「嘘をついて新しい人生を始めることなどできません。私はずっとグドルーン・ヒムラ-であることに変わりはありません」と述べている。彼女はナチス戦犯の逃亡生活や捕まった後の弁護を支援する団体「静かなる助力」の活動に貢献した[90]。
人物
- アドルフ・ヒトラーからは「忠臣ハインリヒ」と呼ばれていた。エルンスト・レームからは「アンヒムラー(Anhimmler、熱狂的崇拝者の意)」と揶揄されていた[91]。また「お国のハイニ(ライヒス・ハイニ)」というあだ名もあった[92]。これらが美称にせよ蔑称にせよヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ハインリヒの共通した風評だった。
- ハインリヒには、ラインハルト・ハイドリヒの操り人形であるとの風評があり、「4つのH」(Himmlers Hirn heißt Heydrich、ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ)というジョークが流れた[93]。
- 自らの地味な容姿のせいか「見た目より中身は濃い」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。
- ハインリヒは、華奢な生活を嫌い、権力を握っても私生活は極めて質素であった。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である。」という言葉を残している[94]。
- ハインリヒは、動物には優しい人物であり、動物の保護やドイツの子供たちに動物への愛を教える教育を熱く論じていた。「何も知らずに森の端で草を食む、何の罪もない動物に銃を向ける」ことを批判していた。特に狩猟長官であるゲーリングの鹿狩り好きについては「あんなかわいい目をした鹿を殺すなんて異常だ」と愚痴をこぼしている。このハインリヒの動物への優しさは彼が「下等人種」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ハインリヒは「下等人種」については「破壊への意志、原始的な欲望、露骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である。」と述べており、事実上、動物より下に位置づける世界観を持っていた[95]。
- ハインリヒの歴史観で一番大事な物は特定の人物でも社会階級でもなく「ゲルマン民族の血」であった。個人は所詮すぐに死ぬ存在であるが、祖先から子孫へという民族の血の流れは悠久であり、不滅の物と考えていた。そのため祖先・家系の名誉のためには自決さえもいとわないという日本の武士道には深く共鳴していた。ハインリヒは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、日本を見習えとよく演説した[96]。サムライのほかにもローマ帝国のプラエトリアニ、インドのカースト制のクシャトリア階級にも強い感銘を受けていた[97]。
- 生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたハインリヒは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師フェリックス・ケルステンを寵愛した。そのためケルステンはハインリヒを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によるとエルンスト・カルテンブルンナーはケルステンを警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を図ろうとしたことがあるという。これを聞いたハインリヒは激怒し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルシュテンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と叱責したという[98]。
- 運動神経は鈍く、ヴァルター・シェレンベルクSS少将の回顧録によると1939年9月にポーゼンでハインリヒが列車を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという[99]。また1936年にバート・テルツのSS士官学校で国家体力検定を受けたハインリヒは、SS全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、結局銅賞の受賞で終わった。ハインリヒはどうしても銀章が欲しくて銀章の受賞者であるカール・ヴォルフ(ヒムラーの副官)から彼を昇進させる代わりに銀章を譲り受けたという[100]。
- 部下たちの残虐な処刑を視察してハインリヒの気分が悪くなったという証言が複数ある。
- 1941年8月、ハインリヒはミンスクで親衛隊中将アルトゥール・ネーベの指揮するアインザッツグルッペンB隊の銃殺を視察し、ネーベに100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていたハインリヒは気分を悪くしてよろけ、危うく地面に手をつきそうになってしまったという(親衛隊大将エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーの証言による)[101]。アインザッツグルッペンの殺人活動が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのはこのためではないかといわれている[101]。
- 1941年12月15日、ハイドリヒがベーメン・メーレン保護領副総督として統治していたプラハを視察したハインリヒは、プラハ聖堂横の広場で行われた大規模な公開処刑を見学した。ところが掃射された直後にハインリヒは気を失って椅子にどさりと座り込んだという。ハイドリヒが警察長官とともにハインリヒの肩を掴んで助け起こしメルセデス・ベンツまで運んだが、ハイドリヒの顔には軽蔑の色が浮かんでいたという(親衛隊大将クルト・シャハト=イッサーリスの証言による)[102]。
- 強制収容所の視察中にハインリヒは、ユダヤ人のガス室処刑の様子を覗き穴から見たが、彼は気分を悪くしてガス室の裏へまわり嘔吐したという。この様子を見た二人の親衛隊員は最前線に送られることになったという(強制収容所の囚人ハンス・フランケンタールの証言による)[97]。
ヒムラーとオカルト
ハインリヒは、善く言えばロマンチスト、悪く言えば現実逃避的な性格だった。そのためファンタジックな話やオカルトによくのめりこんでいた。『インディ・ジョーンズ』などオカルトを題材とした映画でよくナチスが登場するのはハインリヒの影響といえる。
ヒムラーは1933年にオーストリアから来たオカルト的人物カール・マリア・ヴィリグートと知り合った。「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前までにさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた。」「イルミニズムがゲルマン民族の本来の民族宗教であり、キリスト教がそれを盗用した。」「聖書はドイツ人が書いた」などと主張していた。ハインリヒは彼のオカルトに大変のめりこみ、ヴィリグートを親衛隊に招きいれ、親衛隊人種及び移住本部に配属させた。ヴィリグートはいつでもハインリヒのオフィスに入ることを許され、ハインリヒに「過去の記憶」を披露して彼を満足させた。ヒムラーが功績を認めた親衛隊員に授与する親衛隊名誉リングのデザインもヴィリグートに任せている[103]。
ハインリヒは、ドイツの古代史研究機関として「アーネンエルベ」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検した。チベットやシュヴァルツヴァルトなど神秘的な場所で先史時代のアーリア人古代文明の存在を探そうとした。古城の廃墟にスパイを送り、キリストの聖杯を探させたこともあった[89]。
東方から攻めよせたフン族の突撃を防いだ砦といわれる古城ヴェーヴェルスブルク城(Wewelsburg)にハインリヒは興味引かれた。1934年7月にハインリヒはこの城を手に入れた。1500年の時を超えて東方から攻めよせようとするソ連からヨーロッパを守る城であると現在と過去を生きる男ハインリヒは期待していた。早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。第二次世界大戦のドイツの敗戦までにこの城にハインリヒがつぎ込んだ資金は1300万ライヒスマルクにも及ぶ{{#tag:ref|1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという[104]。したがって1300万ライヒスマルクとは273億ほどであろうか。|group=#}}。大食堂にはオーク製の巨大テーブルが置かれ、この城の「騎士」と認められた親衛隊幹部のネーム入りの椅子が並んでいた。ここでハインリヒや親衛隊幹部達は数時間も瞑想にふけっていた。地下室には石造りの台が12台置かれていて、親衛隊大将が死亡した際には遺骨がここに安置された。親衛隊名誉リングは、持主が親衛隊を離れるか死亡した場合にはハインリヒの手元に返され、ヴェーヴェルスブルク城に永久に保存されることとなっていた。他にも1万2000冊に及ぶ図書室、応接間、ヒムラーの客室、SS最高法廷もこの城に設置された。ヒトラーのヴェーヴェルスブルク城来訪を心待ちにしていたハインリヒは、ヒトラーの部屋も作らせていたが、結局ヒトラーがヴェーヴェルスブルク城に来訪してくれることはなかった[105][106]。
またハインリヒはスラブ民族の征服者であるザクセン王ハインリヒ1世を深く尊敬していた。スラブ民族(=現在のソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には必ずクヴェトリンブルク大聖堂の墓を詣でた。冷え切った真夜中の納骨堂でハインリヒは毎年敬虔にひざまづいていた。フェリックス・ケルステンによるとハインリヒは、7月2日の夜12時から瞑想を行い、ハインリヒ1世との霊的交信を始めたという。半睡状態のハインリヒが「ハインリヒ王の霊が重大なお告げを持って現れる」と述べ、続いて「このたびの王のおぼしめしは…」とお告げを語るのが恒例であった。ついには自身がハインリヒ1世の化身と信じるまでになったという[107]。
ハインリヒは、熱心なカトリックの家にうまれ、本人も若かりし頃には熱心なカトリックであったが、ナチ党の党活動をするうちに徐々にキリスト教とは距離を置くようになっていた。そのため、親衛隊の隊員たちもキリスト教から切り離し、彼の異教的な思想に取り込むことをはかるようになった。婚姻内部規則で親衛隊隊員の結婚式はキリスト教会で行うことを禁止した。またクリスマスを祝う習慣をやめさせるため、冬至祭を親衛隊の祭典とした。キリスト教ではなくSSを通じて神を信ずる者をハインリヒは求めていた。しかしながら結局隊員達をキリスト教から切り離すことはなかなかできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されるなどしていった。一般SSの三分の二は相変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装SSや髑髏部隊では比較的多く、武装SSの53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属していた。武装親衛隊の将軍の中にはヴィルヘルム・ビットリッヒSS大将のように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた[108]。
語録
ハインリヒ自身の発言
青年期の日記の記述
- 「8時になって父さんと教会へ行って聖体拝領。それから勉強。机に向かって祈る。今日は防衛演習があった。僕も一緒にやりたい」(1914年10月11日付け)[109]
- 「東部戦線でもう一度戦争があれば絶対に行く。我々ドイツ人にとって東方が一番大事である。西側はだめだ。すぐに死滅する。東方で戦い、そこを植民地にしなければならない。」(1919年11月22日付け)[110]
- 「僕はまた心の中で戦っている状態だ。命がけの状態がまだあって、それを乗り切って戦うことができたならどれだけ心の慰めになるだろう。」(1919年11月)[111]
- 「なんて哀れな創造物だ。人間は」(1919年11月7日付け)[112]
- 「フラウ・ケルンベルガーを見舞う。可哀そうな老女なり。惨めの一言に尽きる。飢えと消耗で体が弱り、歩くこともままならない。水のようなスープをすすり、お茶ばかり飲んでいる。哀れなり。家に戻りロールパンをとってくる。それに小さなケーキを添え、老女に気付かれないようにそっと置いておく。もっといろいろなことをやってあげられるといいのだが、我々だって貧乏だから。」(1921年の日記)[26]
- 「今日僕は、ペルー移住について書かれた記事を切り抜いた。僕はどこへ辿り着くのだろう。スペイン、トルコ、バルト諸国、ロシア、ペルー? 僕はよくこのことについて考える。二年後には、僕はドイツにはいないだろう。」(1921年11月23日付け)[27]
- 「私はおしゃべりの広目屋だ。駄弁家だ。空元気でよくしゃべる。そして何もできない。」(1922年1月29日付け)[110]
親衛隊について
- 「我々はどこへ行っても好かれる訳ではない。時には成し遂げた行いの故に片隅に追いやられることもあろう。感謝を期待してはならない。だが総統はSSの真価をよく御存じだ。我らは総統に最も愛される、最も価値のある組織である。我らは絶対に総統の期待を裏切らないからだ。」(1931年6月13日、親衛隊幹部会での発言)[113]
- 「我々に課せられた目下の急務は総統と国家社会主義の公然、隠然たる敵を暴き、これと闘い、撲滅することである。この任務を遂行するために我々は自らの血のみならず、他人の血をも流すことを覚悟せねばならない。」(1934年1月1日、親衛隊員に向けて)[114]
- 「親衛隊員は己に対しても他人に対しても常に非情であれ。義務以上の物を果たせ。」(ハインリヒが各地でよく行っていた演説)[115]
- 「この黒いユニフォームを見ると気分が悪くなるという人がドイツに大勢いるのを私は知っている。我々はそれを分かっているし、愛されることを期待していない」(1936年)[116]
- 「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」(親衛隊の入隊基準について)[117]
- 「私は常にこの男(親衛隊入隊希望者)にどこか外国人の血が混じってはいないか、ということを考える。たとえば張り出した頬骨はモンゴル民族か、少なくともスラブ民族の特徴といえないかなと。1918年と1919年の兵士委員会(Soldaten Rat。ドイツ革命の際に左翼兵士たちが創設した組織)の連中の特徴を思い出してほしい。当時将校だった者は今確信をもって言えるだろう。彼らが我々ドイツ人の眼に奇異に映る特徴を持ち、外国人の血をどこかに持っていたことを。」[118]
- 「可能な限り世界からゲルマンの血を結集するのが私の真の目標である。連隊『ゲルマニア』(親衛隊特務部隊第二連隊『ゲルマニア』のこと)は、いわれなくその名を冠しているわけではない。遅くとも二年後には『ゲルマニア』は非ドイツ人ゲルマン人によって構成される部隊にしたいと私は考えている。」(1938年11月8日)[119]
ヒトラーについて
- 「ヒトラーが命じれば、私はたとえ実の母親でも撃ち殺すだろう。そしてそんな命令を下すほど信頼してくれたことを誇らしく思うだろう。」(1925年、オットー・シュトラッサーに対して語った言葉)[37]
- 「ドイツ民族が本当にどうしようもなくなった時、ヒトラーは我らの最も深い苦しみの中から生まれ出た。ゲルマン精神が危機に陥った時、ドイツには常に偉大な光の人物が現れるが、彼はその一人である。精神の分野ではゲーテが、政治の分野ではビスマルクがそのような人物であった。だが総統は、政治・文化・軍事すべてにおいて偉大な光の人物である。」(1940年)[120]
- 「ケルステン!お前は誰と口をきいたと思っているんだ?総統のお声を聞いたのだぞ!なんという運のいいやつだ。すぐ奥さんに手紙を書きたまえ。奥さんは君がそんな好運に会ったことを喜ぶだろう。」(ヒムラーのマッサージ師フェリックス・ケルステンがヒトラーからハインリヒへ電話を取り次いだ際、ケルステンに言った言葉)[121]
ユダヤ人について
- 「ユダヤ人は投機や市場操作によって、生産価格を下げたまま消費者価格を釣り上げ、その結果、常に農民の所得は少なく、都市生活者の出費が増え、その中間の莫大な利益はユダヤ人とそれを巡る業者が吸い上げている」(1924年)[122]
- 「(反ユダヤ主義とは)人類と下等人種の戦いである。これはあたかも人々が病気と戦ったり、健康体がペスト菌と戦うようなものであり、自然の法則である。」[123]
- 「総統はユダヤ人問題の最終的解決を命令なさった。我々親衛隊はこの命令を完遂しなければならない。東部に今ある絶滅施設は、予定される大作戦を遂行できる状態にはない。よって私はアウシュヴィッツをこの作戦遂行施設に指定した。困難な仕事だが直ちに実行しなければ、我々がユダヤ人を絶滅させる代わりに、いずれユダヤ人が我々を絶滅させるだろう。」(1941年夏。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスに対して言った言葉。ヘスの証言)[70][124]
- 「我々を殺そうとしたこの民族を、我々には殺す道徳的権利があり、また我々の民族に対してそうする義務を負った。しかし毛皮一着、時計一つ、一マルク、煙草一本、その他何一つ着服する権利はない。」(一部の親衛隊員が没収したユダヤ人財産を横領していることについての言葉)[95]
- 「ああ、私はユダヤ人虐殺などしたくなかったのだ。私の考えはまったく違っていた。それなのにゲッベルスの奴がいっさいがっさいをしでかしたのだ」(1942年9月、フェリックス・ケルステンに語った言葉)[125]
- 「ここだけの話として極めてオープンに話す。ユダヤ人移送、ユダヤ民族絶滅のことである。口にするだけなら簡単なことだ。『ユダヤ民族は絶滅される』。党員なら誰でもそういう。あたりまえだ。党綱領にそう書いてある。すると8000万人の立派なドイツ人がやって来てその一人一人がお気に入りのユダヤ人を連れてくる。他のユダヤ人は豚だが、この人は素晴らしい人だという。こんなことをいう連中に努力をした者はいないし、実行した者もいない。100人、500人、1000人と死骸が積み上げられれば、それがどういうことなのか、諸君のほとんどが知ることになろう。これを耐え抜いたこと、そしてその際も、若干の人間的弱さは例外だが、品格を保っていられたこと。それによって我々は強くなるのである。」(1943年、ポーゼンで親衛隊中将達にむけて)[126]
- 「反ユダヤ主義はシラミの駆除と同じことだ。シラミを駆除することは何ら世界観の問題ではない。それは清潔さの問題である。まもなくシラミはいなくなる」(1943年、ハリコフでの演説)[127]
東方諸民族について
- 「東方の非ドイツ人は、小学校四年までの教育で十分である。算数は500以上の数字を使わない簡単な計算だけ、国語は自分の名前さえ書ければよい。そして、ドイツ人に従うことが神によって定められた法であるという原則を教えることだ。」 [128]
- 「ポーランド人がどういう暮らしをしようと我々の知ったことではない。連中は奴隷として必要なのであり、我々の役に立ちさえすればいいのだ。」[128]
- 「この戦いは国家社会主義の戦いであり、我がゲルマンの、北方人種の高貴な血に基づいた世界観のための戦いである。我々が考える世界とは美しく、気高く、平等で、優れた文化を持つ幸せな美しい世界である。それこそドイツにふさわしい世界である。だが我々と別に1億8000万人もの雑多な人種がいる。発音しにくい名前を持つ体格の悪い連中だ。そんな連中は憐れみをかけずに撃ち殺せばよい。こうした人間どもは、ユダヤという一つの宗教と共産主義という一つのイデオロギーの下に統合されている。諸君らが東方で戦っている相手はこうした人間以下の劣等人種なのである。ある時はフン族、またある時はマジャール、さらにはタタール、チンギス・ハン、モンゴルと。名前を変えても劣等人種に変わりはない。」 [129]
キリスト教について
- 「キリスト教と最終的な決着をつけるべき時代に我々は生きている。これからの50年、ドイツ民族が生存し、生殖するための世界観的根本思想をキリスト教の外に求められるかどうかは親衛隊の双肩にかかっている」(1937年)[130]
同性愛者について
- 「ドイツは先の大戦で200万人の男性を失い、さらに同性愛者200万人を抱えている。ドイツ民族の出生力には400万人のロスが生じている。このままではドイツは50年先、100年先には列強たる地位を失い、スイス化してしまっているだろう。同性愛者たちは自分たちのしていることは私的なことだから構わないでくれというが、ことは個人の問題では済まされず、民族の生死にかかわる問題である」[131]
強制収容所について
- 「強制収容所は確かに苛酷な措置である。新たな価値を作り出すための不屈の作業。きちんとした経歴。住居と身体を極めて清潔に保つこと。文句なしの食事。厳しいが公正な待遇。改めて仕事を習得し、手仕事の能力を得るための指導。これらは教育の方法論である。これら収容所を統轄するスローガンを次のように定める。すなわち、自由へ至る道が一つある。その道の里程標は、服従・勤勉・誠実・秩序・清潔・真面目・正直・献身、そして祖国への愛である」[132]。
- 「この手のキリスト教的医者どもは若いドイツ人パイロットの生命は危険にさらされても当然だが、犯罪者の生命は神聖なので、自らの手を彼らの血で汚したくないと、そう考えているわけだ。」(強制収容所で行われる空軍のための人体実験を批判する医学者に対する反論)[133]
- 「我々はその必要がないところでは決して粗暴であったり無情であったりするつもりはない。我々ドイツ人は世界で唯一動物に品格ある態度を取るのであるから、強制収容所の動物人間どもに対しても品格ある態度を取るであろう。」[134]
- 「ドイツがもはや崩壊するというのであれば、現在収容所にいる犯罪者どもの群れに勝者として解放されるという勝利の体験をさせるわけにはいかない。奴ら諸共破滅させよ。これは総統の確たる命令である。私はこの命令をきわめて精確に徹底的に遂行せねばならない」(1945年)[135]
敗戦直前
- 「おそらくヒトラーはすでに死んでいるだろう。まだだとしても数日中に死にます。今日まで私は自分の誓いに縛られてきた。だが今は違う。状況はすっかり変わった。ドイツの敗北を認めます。これからどうすべきでしょうか。」(1945年4月24日、アメリカへの仲介役を頼んだスウェーデン外交官フォルケ・ベルナドッテ伯爵に。)[136]
- 「単に頭を下げるだけにするか、それとも握手を求めて手を差し出すべきか・・・。」(1945年4月後半。アメリカ軍のドワイト・アイゼンハワーと会見する日を想像してヴァルター・シェレンベルクSS少将に聞いた言葉。しかしアメリカ側がハインリヒの会見の提案に応じることはなかった。)[136]
- 「みなは私に犯罪の責任をすべてなすりつけようとするだろう。ヒトラーが一人で犯し、私がいつも阻止しようとしていた犯罪の。」(1945年4月後半。フェリックス・ケルステンに語った言葉)[137]
人物評
他のナチ党幹部・政府閣僚から
- 「彼は小柄で好ましい男だ。温厚だが、おそらく優柔不断でもあろう。」 (ヒトラー内閣宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの1929年の日記の記述)[138]
- 「ヒムラーはとりたてて賢いとは言えないが、勤勉で実直である。」 (1930年4月28日のゲッベルスの日記の記述)[139]
- 「ローゼンベルクとヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式をやめるべきだ。ばかばかしいドイツ崇拝は全部やめさせねばならない。このようなサボタージュをする連中には武器だけを持たせよう。」 (1935年8月21日のゲッベルスの日記の記述)[140]
- 「彼は半分は学校教師。半分はつむじ曲がりの道化だった。」 (1953年、ヒトラー内閣軍需相アルベルト・シュペーア)[139]
- 「ヒムラーは見たところちっぽけな男に見えた。しかし実は『ちっぽけ』などではなかった。彼には特筆すべき才能があった。人の話に耳を傾ける才能。決定を下す前に長い間考慮する能力。自分の指揮に従う人間を選び出す手腕。これらをすべて併せ持つとどれほど効果的であるか、彼を見るとわかった。」 (1979年、シュペーア)[141]
- 「ヒムラーは特性のない男でした。彼から深い印象を受けたことはありません。同席した時はいつも親切でした。いつも優しくて愛想のいい感じでした。」 (マルティン・ボルマンの息子マルティン・ボルマン・ジュニア)[142]
- 「父とヒムラーはこんな理念を話していました。戦争が終わったらドイツ民族が被った犠牲を速やかに埋め合わせるために人種的に価値のあるドイツ人男性は、複数の妻を持てるようにするべきだ、という理念です。もっとも父もヒムラーも金髪碧眼の輝かしいゲルマン人のようにはとても思えませんでしたが…。」 (マルティン・ボルマン・ジュニア)[143]
- 「ヒトラーが政治的廃棄物処理を任せるのに彼(ハインリヒ)ほどふさわしい男はいなかった。あの男は恐怖組織を事細かに作り上げ、慈悲も後悔も知らなかった。」 (ヒトラー内閣蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵)[144]
- 「ヒムラーは好感を持てるとか、魅力的だとかいう特性のある人物ではなかった。その点で彼はヒトラーやゲッベルスとは全く異なる。この二人は必要とあれば実に愛想よく魅力的にふるまったものだったが。それに対してヒムラーはことさらつっけんどんでストレートな態度をとり、傭兵のような素振りと反ブルジョワ感情を誇示した。どうやらそれで生来の情緒不安定と不器用さを隠そうとしただけだったようだが。だがそれだけならまだ我慢できる。あの旅の途中、ヒムラーが同行者としてほとんど耐え難いまでになったのは、彼が私にひっきりなしに浴びせかけたあの根本的に空しい馬鹿げたおしゃべりのせいだった。こう言っても過言ではないと私はいまも尚信じるが、あれほど大量の政治的たわごとを、あれほど集中的な形で、高等教育を受けた人間がしゃべりまくるのを私は見たことがない。好戦的な大ぼら吹き、行きつけの居酒屋でくだを巻く小市民、目を血走らせて予言するさすらいの伝道者。それらが奇怪に混ざり合ったもの、それがヒムラーのあの延々たるおしゃべりだった。」(1929年にハインリヒと6時間列車に同乗したナチ党ハンブルク大管区指導者アルベルト・クレープスのその時についての戦後の回想)[145]
部下の親衛隊員・親衛隊関係者から
- 「ヒムラーはサディスティックというのではなく、けちでつまらない人間だった。彼は元学校教師で{{#tag:ref|カルテンブルンナーはなぜかハインリヒを「元学校教師」と言っているが、ハインリヒが学校教師だったことはない。ハインリヒの父ゲプハルトが学校教師であった。|group=#}}、いつまでも教師根性が抜けなかった。他人を罰するのに快感を覚えていたのだ。教師が子供に必要以上に鞭を打ち、そこから快感を得るのと同じように。これは真の意味でのサディズムとは異なる。つまり、ヒムラーは他人を教育して向上させることが自分の義務と思っていたのだ。このことと強制収容所でのユダヤ人虐殺とは無関係だ。虐殺が行ったのは、ヒムラーが奴隷のようにヒトラーに服従したためだと私は思う。」(国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナー親衛隊大将。ニュルンベルク裁判で拘禁されていた際にアメリカの精神分析医からの「ヒムラーはどのぐらいサディスティックだったか」という質問に対して)[146]
- 「ヒムラーは優しい父親にも公正な上司にも親しみのもてる人物になることもできた。しかし同時に彼はとりつかれたような狂信者でもあり、ゆがんだ夢想家でもあり、ヒトラーに操られる意志なき人形でもあった。彼はますます強くなっていく愛とも憎しみともつかぬ思いでヒトラーと結ばれていた。」 (親衛隊大将カール・ヴォルフ)[147]
- 「外見上は教師のようで、彼の外交政策もその程度のものだった。だから、外交問題では簡単に彼を説得できた。他の分野ではヒムラーは計り知れない人物であり、理解しがたかった。彼は臆病者であり、勇敢な人間ではなかった。あらゆる困難を回避しようとした。私がリッベントロップと対立している時も、ヒムラーは私を擁護しようとはしなかった。その臆病さゆえに、強力で挑発的なヒトラーの言うことすべてにヒムラーは同意したのだ。(ユダヤ人虐殺は)ヒトラーが考え出したに違いない。ヒムラーには軍人の勇敢さはなく、勇ましい決断をする能力はなかったからだ。」 (SD対外局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将、ニュルンベルク裁判に証人として出頭した際にアメリカ人の精神分析医に)[148]
- 「ほとんど小柄といっていい男で東洋人を連想させる顔つきだった。彼はスポーツマン・タイプではなかった。リラックスしたり、飛び跳ねたりする代わりに、自分の内面にこもるタイプだった。」(フェリックス・ケルステン)[149]
- 「ヒムラーは、女性に対しては特に丁重に接した。きわどい表現や猥褻な冗談を毛嫌いしていた。それらは自分の母親への侮辱であるとみなしていた。」 (フェリックス・ケルステン)[147]
- 「ヒトラーやゲーリングには、国民は歓声の声を浴びせていた。しかしヒムラーが歓声を受けていた場面を私は見たこともともに体験したこともない。」 (親衛隊大佐エルンスト・ギュンター・シェンク)[141]
- 「(親衛隊の)隊員は最高指導者(ハインリヒ)との精神的つながりを持たなかった。彼らはただ、組織をリードする官僚の姿を見ていただけだった」(親衛隊「ゲルマン管理局」職員フランツ・リートヴェーク)[145]
- 「親衛隊全国指導者と最期にあって別れた時のことが、私には忘れられない。彼は生き生きとして実に上機嫌だった。世界が崩れ去ろうとしていたのに、我々の世界が。『さあ、諸君。これで終わりだ。諸君は何をなすべきか知っていよう。』。あの時そう言ってくれさえすれば。それなら私にも理解できた。それなら長い年月彼が我々に説いてきたことと一致した。『理念のために自決せよ!』と。ところが彼は最後の命令としてこう言ったのだ。『国防軍の中に紛れ込め!』」(アウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス親衛隊中佐)[150]
国防軍から
- 「この冷酷で、打算的で、腹黒いヒトラー魂の化身は第三帝国で最も強烈な目的遂行タイプで、躊躇を許さぬ男だった」 (陸軍大将フリードリヒ・ホスバッハ)[151]
- 「ヒトラーの従者の中で最も不可解な男は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーだ。目立たない男で、人種上の劣等的特徴をすべて備えていた。表面的には単純な男を装っていた。礼儀正しくあろうと心掛けていた。彼の生活様式はゲーリングと正反対だった。スパルタ的に質素だった。けれども彼の空想はそれだけにいっそう極端だった。彼は他の天体から来たようだった。」 (陸軍上級大将ハインツ・グデーリアン)[152][151]
- 「教養高い校長先生のようで暴力を好まない人だった。注意深い聴き手として稀有な素質を持っていた。物静かで、感動がなく、神経を持たない人間のようだった。」 (陸軍少将ヴァルター・ドルンベルガー)[151]
その他
- ドイツ以外の国にも、ハインリヒのように独裁者の個人的信任を背景に政治警察を一手に任された政治家は少なくない。こうした者はしばしば「ヒムラー」と形容されることがある。特にソ連のラヴレンチー・ベリヤや中華人民共和国の康生などは、「眼鏡の小男」という容姿までハインリヒと良く似ていた。
- 映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』ではウルリッヒ・ネーデンが演じている。冒頭にのみ登場し憔悴しきったヒトラーを影で罵倒し、副官にまで「いまさら禁欲的な菜食主義者に期待しても仕方ないだろう」と酷評されているが、そのヒムラー自身が菜食主義者だった。なおネーデンは後年の1944年末を舞台とした別の映画『わが教え子、ヒトラー』でもヒムラーを演じている。
注釈
参考文献
日本語文献
- ヨッヘン・フォン・ラング編、小俣和一郎訳『アイヒマン調書 イスラエル警察尋問録音記録』(岩波書店)ISBN 978-4000220507
- 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)ISBN 978-4056026429
- 谷喬夫『ヒトラーとヒムラー 氷のユートピア』講談社選書メチエ ISBN 4062581760
- ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』森亮一(訳)、フジ出版社、1981年、ISBN 4-89226-050-9
- ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社 上』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594937
- ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社 下』森亮一(訳)、2001年、講談社学術文庫、ISBN 978-4061594944
- ジャック・ドラリュ著、片岡啓治訳『ゲシュタポ・狂気の歴史』(講談社学術文庫)ISBN 978-4061594333
- 芝健介著『武装SS ナチスもう一つの暴力装置』(講談社選書メチエ)ISBN 978-4062580397
- レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 上』(河出書房新社)ISBN 978-4309224404
- レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 下』(河出書房新社)ISBN 978-4309224411
- リチャード・オウヴァリー著、秀岡尚子訳『ヒトラーと第三帝国』(河出書房新社)ISBN 978-4309611853
- マイケル・ベーレンバウム著、芝健介訳『ホロコースト全史』(創元社)ISBN 978-4422300320
- ロビン・ラムスデン著、知野龍太観訳『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』(原書房)ISBN 978-4562029297
- グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの共犯者 上』(原書房)ISBN 978-4562034178
- グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの親衛隊』(原書房)ISBN 978-4562036776
- ルパート・バトラー著、田口未和訳『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)ISBN 978-4562039760
- 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)ISBN 978-4760120581
- 森瀬繚、司史生著『図解第三帝国』(新紀元社)ISBN 978-4775305515
- 山下栄一郎著『ナチ・ドイツ軍装読本 警察とナチ党の組織と制服』(彩流社)ISBN 978-4779112126
- 長谷川公昭著『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで』(草思社)ISBN 978-4794207401
- ゲリー・S・グレーバー著、滝川義人訳『ナチス親衛隊』(東洋書林)ISBN 978-4887214132
- ヴァルター・シェレンベルク著、大久保和郎訳『秘密機関長の手記』(角川書店)1960年
英語文献
- Roger Manvell,Heinrich Fraenkel著『HEINRICH HIMMLER The Sinister Life of the Head of the SS and Gestapo』(ペーパーバック) ISBN 978-1602391789
- Katrin Himmler著、Michael Mitchell訳『The Himmler Brothers A German Family History』(ペーパーバック) ISBN 978-0330448147
出典
外部リンク
- http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/HimmlerH.htm
- http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HimmlerHeinrich/
- Biografie bei Shoa.de
- http://www.fdk-berlin.de/forum2000/filme/himmler.html
- http://www.kueste.vvn-bda.de/grab.htm
- Biografie Himmlers und weiterführende Links
- Heinrich Himmler und die Schwarze Sonne
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| (1933年1月30日 – 1945年4月30日) |
| パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領(1934年8月2日に死去。以降大統領位は空位だが、ヒトラーが国家元首の地位を吸収した。) |
| アドルフ・ヒトラー総統(指導者兼首相) |
| フランツ・フォン・パーペン副首相 ・ コンスタンティン・フォン・ノイラート外相 ・ ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相 ・ ヴィルヘルム・フリック内相 ・ ハインリヒ・ヒムラー内相 ・ ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク蔵相 ・ アルフレート・フーゲンベルク経済相 ・ クルト・シュミット経済相 ・ ヒャルマル・シャハト経済相 ・ ヴァルター・フンク経済相 ・ ヘルマン・ゲーリング航空相 ・ フランツ・ゼルテ労働相 ・ フランツ・ギュルトナー法相 ・ フランツ・シュルクベルガー法相 ・ オットー・ゲオルク・ティーラック法相 ・ ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相 ・ ヴィルヘルム・カイテル国防軍総司令部総長 ・ パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ運輸相 ・ ユリウス・ドルプミュラー運輸相 ・ ヴィルヘルム・オーネゾルゲ郵政相 ・ リヒャルト・ヴァルター・ダレ食糧相 ・ ヘルベルト・バッケ食糧相 ・ ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相 ・ ベルンハルト・ルスト文科相 ・ フリッツ・トート軍需相 ・ アルベルト・シュペーア軍需相 ・ アルフレート・ローゼンベルク東方担当相 ・ カール・ヘルマン・フランクベーメン・メーレン保護領担当相 ・ ハンス・カール宗教相 ・ ヘルマン・ムース宗教相 ・ オットー・マイスナー無任所相 ・ ハンス・ハインリヒ・ラマース無任所相 ・ マルティン・ボルマン無任所相 ・ ルドルフ・ヘス無任所相 ・ エルンスト・レーム無任所相 |
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