東国原英夫
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ひがしこくばる ひでお | |
|---|---|
| 生年月日 | 1957年9月16日(52歳) |
| 出生地 | 鹿児島県 |
| 出身校 | 専修大学経済学部経済学科卒業 早稲田大学第二文学部卒業 早稲田大学政治経済学部中途退学 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 | 経済学士(専修大学・1980年) 学士(文学)(早稲田大学・2004年) |
| 公式サイト | 東国原英夫オフィシャルサイト |
第17代 宮崎県知事 | |
| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 2007年1月23日 - |
| そのまんま東 | |
|---|---|
| 本名 | 東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお) |
| 生年月日 | 1957年9月16日(52歳) |
| 出身地 | 宮崎県都城市 |
| グループ名 | たけし軍団 |
| 事務所 | オフィス北野 |
| 活動時期 | 1982年 - 2006年 |
東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお、1957年9月16日 - )は、日本の政治家。宮崎県知事(第52代[1])。
かつてお笑いタレントであり、ビートたけし率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。俳優、作家としての活動歴がある。タレント時代は「そのまんま東」(そのまんま ひがし)や「東英夫」(ひがし ひでお)という芸名で活動していた。
目次 |
人物
タレント“そのまんま東”として
1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』のお笑いオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て[2]、1982年3月に付き人となる。2009年現在までに数多くいるたけしの弟子の第一号である。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。
その直後、コンビの相棒が芸能界入りする目的であった当時の人気アイドル歌手河合奈保子を生で見たことで満足し、芸能界を辞めるということでコンビは解散、やむなく京都産業大学の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、コンビを結成。師匠たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらって「ツーツーレロレロ」と命名。3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、東国原は当時テレビ局でADをしていた大森うたえもん(当時の芸名は大森クンタ)とコンビを組んで「ツーツーレロレロ」を続ける[3]。人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消。
1982年前後、たけしとたけしの弟子たち(後のたけし軍団)の宴会が開かれた。そのなかで弟子全員の芸名をたけしが命名した。しかし、東国原は新しい芸名が与えられなかったため、たけしに対して、「殿、私の名前はどうなるのでしょうか?」と聞いた。東国原はすでに「東英夫」という芸名を名乗っていたので、たけしは「お前はそのまんま、“東”だよ」と答えた。
これはもちろん「お前は従来の芸名『東英夫』を名乗り続けろ」という意味である。しかし、書記係のラッシャー板前はたけしの言葉の意を勘違いしてしまい、「東英夫」ではなく「そのまんま東」とメモしてしまった。半ばシャレで、東国原は「『そのまんま東』という芸名を与えられた」ということにしてしまった。
加賀まり子の頭に自分の局部をのせて「ちょんまげ」と言い放ったことがあるエピソードが、2003年の夏に放送された壮絶バトル花の芸能界でせんだみつおに暴露される。加賀はまったく怒らずに呆れ顔で「はい、はい」といいながら頭から下ろしたらしい。
TBS「ここがヘンだよ日本人」でレギュラーになったときは意外にも鋭い発言が多く、辛口コメンテーターとして発揮していた。特に、太っている出演者50人対して、「あなたたちは甘えている」「テレビで、デブで構わないというメッセージは危険」と痛烈に批判していた。一方で、過激な発言も少なくないため、たけしからのツッコミや外国人出演者からのブーイングをよく浴びていた。
テレビ番組で細木数子に「テレビに向いてない」と言われたことがある。
愛弟子に芸人早川伸吾がいる。
日本テレビのお笑いバラエティ番組『ビートたけしの全日本お笑い研究所』(1988年4月~1988年9月)で ニュースキャスター 「東国原英夫」として出演していた(出演者クレジットは「そのまんま東」)。
上岡龍太郎に誘われ、石田純一らとマラソンに打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。
作家活動
不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説『ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、翌1988年にはTBSでドラマ化され、東国原自身もたけし軍団の面々と共に出演。後に結婚することになる、かとうかずこもヒロイン役で出演した。
不祥事
1986年12月9日、ビートたけしに率いられ、たけし軍団と共に講談社を襲撃し、暴行罪で現行犯逮捕される。→詳細はフライデー襲撃事件を参照。 1998年10月13日、東京都内のイメージクラブ店が未成年の従業員を使っていたことで、児童福祉法違反並びに東京都の青少年健全育成条例 違反の容疑で経営者が逮捕された。その当時16歳であった少女が、性的なサービスをした客として東国原の名前を供述したことで、警察から任意の事情聴取を数回受けたが、「18歳未満とは知らなかった」と釈明した。 当時の妻のかとうもマスコミを通じ、謝罪の文書を発表した。以後芸能活動を5か月間自粛した。東国原自身は法的に罪を免れたが、倫理的な性質の問題からマスコミでは「淫行事件」として大々的に報道され、社会の激しい批判を浴びることとなった。
1997年に催されたオフィス北野の新年会において、たけし軍団の後輩タレントの側頭部を蹴り、頭部打撲等のけがを負わせたとして、1999年11月22日、傷害容疑で書類送検された[4]。東国原は暴行の事実を認め、略式起訴で罰金を払い、そのことで一時芸能活動を再度自粛した。東国原の公式ウェブサイトでの説明によると、先輩として規律を正す意味で蹴ったとし、自著の中で件の後輩が事務所の経費を無断で使い込んでいた疑惑に対して「先輩として」激昂してしまったと明かし、暴行傷害行為に至った事については全面的に認めており反省を表している。ただし、後輩タレントはブログで暴行事件について反論している[5]。
政治家として
かとうとの離婚後に「前々から政治家になりたいと思っていた」と言っていたことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見せるなど、タレント時代から政界への進出を考えていたという。謹慎中に入学した早稲田大学第二文学部では、卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、卒業後も同学政治経済学部に再入学して地方自治を専攻している。同学部入試において出題された小論文の「入学後に学んだことをどのように社会に還元するか?」との課題に対して、「地方自治を学び、それを実践する」という主旨の論述を明確に展開しており、この頃までに地方自治への進出志向が確固たるものとなっていた。
2006年には本人を代表とする政治研究会「そのまんま会」を設立、同12月4日には故郷宮崎県の県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行い、地元での事務所開きにおいて、支援者を前に自らの出馬にかける思いを語った際には過去の不祥事についても自ら切り出し語った。その数日後には所属していたオフィス北野を退社。官製談合事件で当時の現職知事安藤忠恕が逮捕されたことに伴う宮崎県知事選挙へ無所属で立候補。当初は過去の問題行動や言動などのイメージもあって出馬を疑問視する声も多かった。
東国原は、選挙活動において、タレント候補にありがちなタレントの選挙応援を一切受けないことで、「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。遊説や立会演説では宮崎弁を使い、早稲田大学出身をアピールし、選挙活動最終日にはマラソンをしながら活動した。宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出したそのまんまマニフェストや無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは、政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。
東国原をサポートする政務秘書には元たけし軍団のクロマニヨン吉川が就任して、多忙な東国原の生活面を助けている。
こうして、「しがらみのなさ」や「宮崎を変える」という期待感が県民に好印象を与えたことに加え、保守陣営の分裂という追い風も幸いして、得票のうち約45%を得て当選した。各マスコミによる出口調査では無党派層だけでなく各政党支持層からも一定の票を獲得したことが伺える。小学校の卒業文集に「夢は政治家とお笑い芸人」と書いていたが、図らずもその夢を2つとも叶えることとなった。
知事「東国原英夫」として
選挙活動は芸名の「そのまんま東」で行ったが、県知事に就任してからは本名の東国原英夫(ひがしこくばる ひでお)で活動している。それに伴い、「そのまんま東」は2007年3月にたけしの付き人であるゾマホン・ルフィンが襲名した(2代目)。
作業服で初登庁したり、「椅子をパイプ椅子に変える」「こんな立派な机もいらない」「退職金は出来高払い。議会がいらないと言えばいらない」などの言動が地元では好意的に受け止められている。知事専用の公用車について、当初は「廃止する」と述べていたが、燃費や他の手段を使った場合のコストなどの問題を考え、車種をトヨタの「センチュリー」から、ハイブリッドカーである「クラウンセダン」へ乗り換え、これにより年60万円の公費削減となった。似たような理由で知事公舎にも住んでいない(置き換えられたセンチュリーは競売に掛けられ、255万円で落札(譲渡)された。また副知事車両、出納長車両も同様に競売に掛けられ落札された)。
報道番組やワイドショーに連日報道されたり多くの特集が組まれるようになったとともに、積極的にマスメディアに出演して宮崎県の宣伝を行っており、自らを「宮崎県のセールスマン」と呼んでいる。バラエティー番組への出演も多いことから、「テレビに出演しすぎだ」「知事になってもタレントのつもりでいる」などの批判が一部からも挙がっているものの[6]、本人は効果的な宮崎県の全国に対するPR活動として重点を置いている。就任後のテレビ番組出演はすべて宮崎県のPR目的であるため、スケジュール、時間的にどうしても不可能な場合を除き、極力出演依頼を断らないようにしている。また出演料もタレント時代では考えられないような低い条件でも出演を断ることはほぼない。仕事によっては、ほぼノーギャラで交通費など雑費のオファー側負担だけでもテレビ番組やイベントに出演することもあるとしている。
2007年1月23日の知事就任直前に清武町で、そして直後には日向市、新富町で鳥インフルエンザが発生した。この状況に素早く対処すべく、1月29日には中央省庁を訪れ、国からの財政支援などを要請した。また、県内の民放局で流す、県内産の鶏肉や鶏卵の安全性を訴えるCMに自ら出演したり、宮崎県の巨人軍キャンプとソフトバンクの練習場を訪れ、宮崎県産地鶏などを贈呈するなど、風評被害対策のため、鶏肉の安全性を盛んにアピールしている。これらの努力の甲斐もあり、宮崎の地鶏の消費量は、発生前より4割も増加した(その他にも県内特産品のPRも積極的に行っている)。ソフトバンクのキャンプでは監督の王貞治と会って、「王監督の手は神のようだ」と言っていた。
2007年2月15日、「オール野党」とも評される県議会で所信表明演説を行った。その様子はMRT(宮崎放送)で午前9時55分から生中継(所信表明演説の中継は県議会史上初)され、普段は埋まることのない60の傍聴席を求めて93人の市民が訪れるなど、異例づくめの所信表明演説となった。その際に発した「宮崎をどげんかせんと(どうにかしないと)いかん」というフレーズは幾度となくマスコミに取り上げられ、注目を集めた。この言葉は流行語大賞にも選ばれた。なお、実際には「どげんかせんないかん」が正しく、本人もそう発声している。地元都城では、「どげんかせんといかん」と発声することはまずない。また、「どげんか」と発声するのは実際には鹿児島地方で、都城は旧薩摩藩領だったため同様に言うのであって、宮崎市などは「どんげか」と発声する。こういったことが間違った形で広まり、流行語大賞も間違った形でノミネート・受賞に至っている。
2003年に4億9600万円の公費を費やして建設された知事公舎を批判し、選挙前から住んでいるマンションに知事に当選後も住んでいたが、当選後は自宅マンションや近隣住民への悪戯が多く迷惑を掛けているとの理由で勤務先の県庁に歩いて行ける近場のマンションをローンで購入し、2007年3月29日から住んでいる。
知事選で争った、自民党推薦の持永哲志を副知事に迎えるという人事構想を抱く。自民党会派が勢力を占める県議会とのパイプ役や中央省庁とのパイプ役を模索していると報道されるが、「脱・官僚」を期待して東国原に投票した県民の反発を招き、起用を断念した。副知事には総務省出身で宮崎県に出向中の河野俊嗣を起用した。
2007年4月16日の定例記者会見において、「特に発表することがない場合は(会見を)カットしてもよいのではないか」、「毎日取材に答えているので、改めて話す内容はない。それでもやる意義はあるのか」などとして、各社の記者と20分間にわたり問答を繰り返した。
後に出演した『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)4月29日放送分でも「特に発表することがない場合でも、わざわざ12時まで会見時間を設けるのは効率が悪く、浮いた時間を公務に回すべき」(通常の定例記者会見が11:00~12:00の1時間で行われるため)と発言したが、かつての長野県知事である田中康夫のように記者クラブを撤廃させようというものではなく、あくまでも県政の効率化のための提案であることを述べている。その際は一部保守系メディアから非難を受けた[7]。
2007年4月に宮崎日日新聞社が行った世論調査は、支持86.7%、不支持1.1%であった。
2008年1月20日に、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)を母体とする「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(通称:せんたく)の設立に発起人として参加。
道路特定財源問題では「暫定税率維持」の方針を明確に打ち出し、「暫定税率撤廃」を主張する政党(主に民主党)や議員に対して、連日テレビで批判を繰り返した。この為、東国原は新「道路族」と呼ばれる事もある[8]。
2008年6月、宮崎県議会の一般質問に於いて、現在は予定額250万円以上の全ての工事を一般競争入札であるのに対して、「今の方法がベストではない。検証結果を踏まえ、その都度見直す」と指名競争入札の復活も検討する方針を示した。[9]
2007年1月から2008年9月30日までの間に政治資金パーティーを11回開き、約6000万円を集金した。東国原の前任者で、競売入札妨害容疑によって逮捕された安藤忠恕の政治団体(明日の宮崎を創る会)に寄付していた県建設業政治連盟(宮崎県内の建設業界による政治団体)も、東国原のパーティ券を購入していた[10]。
2010年1月、定例記者会見で来期の県知事選挙に関して「共産党が立候補しなければ無投票で(自分が)再選され経費が5、6億円浮く。共産党に(立候補を見送るよう)期待したい」という発言をしている。[11]
衆院選出馬騒動
2008年の騒動
2008年10月、地元宮崎県選出の代議士・中山成彬(宮崎1区)が次期衆議院議員総選挙に出馬せず、引退を表明した際には宮崎県政界の中に東国原を後継候補者として擁立する動きがあった。しかし、東国原は10月6日、「現時点で(衆議院の)総選挙に出る意思はない。知事の任期を全うしたい」と衆議院総選挙出馬をしないことを表明した[12]。しかし、程なく変節し、11月20日夜に延岡市内で行われた講演で、「なるからには閣僚か、トップです。初当選、初入閣[13]」と述べた。
2009年の騒動
2009年6月23日、当時自由民主党選挙対策委員長であった古賀誠と会談し、次期衆議院議員選挙への出馬を要請された。それに対して、全国知事会の改革案を一言一句違わずに受入れることや自身を「自民党総裁候補」とすることを条件として提示した。一方で、同日FNNスーパーニュースに出演し、「民主党で出馬する方が、早く改革できるのでは?」と問われたのに対し、「党としての経験が蓄積されていることを重視し、自民党が下野することになっても民主党で出馬することはない」と発言し、相対的に自民党を支持していることを示唆した。会談の仲介役となったのは、早大時代の友人である唯是一寿。
2009年7月1日、毎日新聞の朝刊において、地方分権担当大臣または無任所の大臣としての入閣との報道がされた。これを受けて、同日、宮崎県高千穂町で報道陣の問いかけに対し、「大臣であろうがなかろうが、自民党が変わるならお受けします」旨返答し、改めて次期衆議院議員選挙へ出馬する意向を示した。さらに、翌日付の朝日新聞において、民主党が自らを代表に選ぶことはないとの見込みを理由に、自民党から出馬することを改めて表明し、「自分が自民党から出馬すれば自民党は負けない、負けさせない」「(国会議員になった場合)次期県知事には自分の継承者を指名した上で口出しするから、事実上の県知事は自分であり、次期県知事は傀儡政権である」旨の発言をしたと報道された。
2009年7月16日、記者会見を開き、自民党からの出馬要請を受けないことを表明。理由は、出馬を要請した古賀誠選挙対策委員長からの書簡で、全国知事会がまとめた地方分権に関する方針を同党の政権公約(マニフェスト)に盛り込むことについて「100%のむことは厳しい」との返答があったためとした。
略歴
- 1957年(昭和32年)
- 1976年(昭和51年)
- 1980年(昭和55年)
- 1980年(昭和55年)
- 12月:フジテレビ のお昼のバラエティ番組『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」のコーナーで漫才コンビ「オスカル・メスカル」で出場し、チャンピオンになる。
- 1982年(昭和57年)
- 1983年 (昭和58年)
- 9月:『お笑いスター誕生!!』で「ツーツーレロレロ」として出場し、金賞を受賞。
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
- 1989年(平成元年)
- 1990年(平成2年)
- 2000年(平成12年)
- 2004年(平成16年)
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
エピソード
- 「東国原」姓は宮崎県都城地域や鹿児島県曽於地域において見られる姓である。また、原の字を「ハル」や「バル」と読ませるのはこの地域に限らず九州地方の地名等によく見られる(西諸県郡高原町、古墳で名高い西都原、長者原駅など)読み方である。但し、読み方にはいくつかあるようで、地域によっては「ひがしくにばる」「ひがしこくばら」といった読み方も存在する。
- 宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校時代はハンドボール部に所属。高校総体にも2年連続で出場した。
- 実父は手広く不動産業を営んでいたが、商売上のトラブルから、自宅を放火されたことがある。晩年は事業に失敗し、変死している。自殺かどうかははっきりとは語られてはいない。
- 継父は、つむぎ職人。
- 18歳の時の大学入試では、専修大学だけでなく、早稲田大学にも合格していたが、親からもらった100万円の大半を東京見物の遊興費に使ってしまった為、残金で、先に合格した専修大学の入学金を払い、進学を決めたという。
- 2008年9月にMBS/TBS系で放送された『芸能界特別授業! 私はこうして生き残りました!』の中で、早大時代の学生生活について、芸能界の感覚が抜けず、コンパや飲み会で割り勘の習慣に慣れるまで時間がかかったことを、友人の唯是一寿が明かしている。
- 本人が『ナンバー2~1番になれなかった天才達の物語~』出演時に語ったところによると、1999年度のNHK「紅白歌合戦」で、野猿を率いていたとんねるずを見て、お笑いの世界からの引退を決意した。なお石橋貴明とはプライベートでも長きに渡る交流がある。
- 私生活では2度の離婚歴がある。宮崎県知事就任後の2008年4月にも女性問題が広く報じられ、150万円の手切れ金を渡したことが報道された[14]。
- 元妻であるかとうかず子との離婚には複数の説があり。妻のかとうに「私と宮崎、どっちが大事なの?」と言われ、「宮崎!」と即答して離婚し知事選に出馬したとの説と、「政治活動するような人には激しい拒絶感があり、精神的に受け付けない」という理由で離婚したとの説がある。
- 公式ブログでは「ワーキングプア」を自称しているが2007年度の推定所得は約4110万円(給与所得約1200万円、雑所得(テレビ出演料、講演費など)約2860万円、一時所得約50万円(2007年度))と高額所得者であり、ワーキングプアと呼ばれる低収入層には位置しない年収を得ている[15]。知事就任以降、自らの給与をカット(知事報酬を20%削減)している。
- 『人生が変わる1分間の深イイ話』に出演した際、自分の話が出たが本人は「う~ん」と判定した。内容は「選挙戦で大変だった時、たけし軍団でのキツい仕事を思い出して乗り越えた」だったが、本人は「(キツい仕事が)楽しかった」と、投稿者との考え方のズレを指摘した。
- 2008年12月16日放送の「キミハブレイク」の「銀座の母SP」で占って貰った所「過去の手相は最悪だった為、生活は最悪だった」と言われたが、「未来の手相は良いからこれから運が良くなる。」と絶賛された。ただ女性問題には要注意と何度も釘を刺された。
- 2008年アメリカ合衆国大統領選挙で勝利した民主党のバラク・オバマについて、「演説が上手というような評価ですが、私から言わせると、その技量は普通[16]」と評した。
- フライデー襲撃事件の際、最後まで嫌がったのは推理小説の江戸川乱歩賞の後援が講談社だった為、作家活動として自身の推理作品の入賞を狙っていたので、師匠のビートたけしに「(襲撃対象を)文藝春秋社に変更できないですか?」と言ったことをテレビで明かしたことがある。
- 上記の通り、マラソンに打ち込んでいることで有名である。TBSのオールスター感謝祭の赤坂5丁目ミニマラソンには出演する際には必ず参加したり、日本テレビの24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンについて「誘いがあれば検討したい」と述べていた[17]。なお、政界で同じくマラソンに打ち込んでいる鈴木宗男をライバル視しており、2008年東京マラソンでは敗北したものの、2009年東京マラソンでは鈴木宗男よりも早くゴールインした。なお、東京マラソン後に政務をこなした[18]。
- 2008年3月31日、日本テレビで最初の『情報ライブ ミヤネ屋』の放送のときに全国放送開始記念(宮根の全国進出記念も兼ねて。)で司会者宮根誠司(みやね せいじ)との対談が放送されたが、東国原は宮根のことを「ミヤネ屋さんてお名前じゃないんですか?」と言ってしまった。それに対して宮根は「よく言われるんですけどね。ミヤネ屋いうんは番組名でして、ボクの名前は『宮根』いうんですよ、知事!」と苦笑いされた。
- 宮崎県知事就任後も師匠のビートたけしの事は「神の様な人」と尊敬している。公人でありながらテレビ番組の中では靴で頭を叩かれるなどたけしからは芸人時代同様の扱われ方をすることがあるが憤慨することはない。
- NHKの『NHK紅白歌合戦』の審査員を狙っていると発言したことがある。
- 2009年の『M-1グランプリ』に同大会の大会委員長である島田紳助から直々にオファーがかかり、漫才経験者でもあったことを活かし『M-1グランプリ2009』の審査員を務めた。なお、政治家経験者で審査員となったのは青島幸男、西川きよし、立川談志に次いで4人目で、現職政治家並びに都道府県知事が審査員を務めるのは初となった。
- 2010年2月14日の「延岡西日本マラソン」でランナーとして走る事を表明し、制限時間3時間30分という厳しい大会であるにもかかわらず、3時間23分45秒(270位)という好成績で完走した。大会前日のレセプションで、河野俊嗣宮崎県副知事により「役所が一番忙しい1月に496キロも走りこんでいた」というエピソードが披露された。
出演した番組など
タレント時代
- ドラマ
- 白い巨塔(1990年、テレビ朝日系)-安西医局長・役
- 誰にも言えない(1993年、TBS系)-栗林俊治・役
- ビートたけし殺人事件 失われた魔人の伝説(1989年10月、TBS系)
- 誘惑(1990年4月-6月、TBS)-岸森博・役
- 世にも奇妙な物語 『死後の苦労』(1990年、フジテレビ系)
- 世にも奇妙な物語 『死神』(1991年、フジテレビ系)
- 金田一少年の事件簿(2001年、日本テレビ系)
- VICTORY! ~フットガールズの青春~ (2003年11月22日、フジテレビ系)
- はぐれ刑事純情派第16シリーズ『誤解逮捕が悲劇を生んだ!2300万円の殺意!?』(2003年6月25日、テレビ朝日系)-松田・役
- 救急救命士・牧田さおりシリーズ『緊急出動! 毒劇物災害の現場になぜ刺殺体?』(2005年11月12日、テレビ朝日系)-北村光男・役
- バラエティ
- 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城(TBS系)2代目家老 東国原英夫守三太夫Jr.(ひがしこくばる ひでおのかみ さんだゆう じゅにあ)
- 号外版 風雲!たけし城(TBS系)
- そのまんま東のバーチャル情報局
- そのまんま東のバーチャルZ
- ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!! - 準レギュラー
- オールスター感謝祭-3回総合優勝した。知事就任後は毎回ゲストで出演。
- オレたちひょうきん族(主に末期)
- カジノザウルス-数回、島田紳助の代行司会を担当した。
- クイズ$ミリオネア レギュラー放送最後の一千万円挑戦者。1問目から13問目までライフライン未使用で14問目まで正解するも15問目で不正解、百万円獲得。
- 笑っていいとも!-木曜レギュラー、また知事就任後の2007年4月30日放送分にもゲスト出演。
- ラジオ
- ビートたけしのオールナイトニッポン(1990年ごろ、たけしの代理 ニッポン放送系)
- そのまんま東のぐらぐらグラッチェ(1990年10月-1991年3月 ニッポン放送)
- そのまんま東のグラッチェ電リク(1991年5月-1991年9月 ニッポン放送)
- 情報
- オリジナルビデオ作品
- 真・雀鬼3 東西麻雀決戦(1999年)
- CM
- 丸大食品(適塩食生活)
- 霧島酒造(宮崎県都城市にある焼酎などの醸造メーカー)
- 中部ハウス工業(そのまんま貼る「スーパーガード」)
- 大日本除虫菊『アリキンチョ-ル』&『キンチョール』(間寛平、中村雅俊と共演)(1991年)
- PV
- FUNKY MONKEY BABYS 「そのまんま東へ」 (CDジャケットにもそのまんま東のアップ写真が起用されている)
知事就任後
- テレビ
- いつみても波瀾万丈(2007年5月6日、日本テレビ系)
- サンデージャポン(TBS系)就任後より、不定期ながら密着取材を受けている。ただし、宮崎県を含む九州・沖縄圏では未放送。
- 朝まで生テレビ!(2008年3月28日25:20~ テレビ朝日系)パネラー
- おーい、ニッポン(2008年2月)
- 裸の大将放浪記~宮崎の鬼が笑うので(2008年5月フジテレビ)-宮崎県庁のシーンで架空の宮崎県知事として出演
- 平成教育委員会(2007年(解答者として)、2008年 フジテレビ)
- モクスペ・有名人最恐怪談SP(2008年8月7日)
- ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日)
- MRTイブニングニュース(宮崎放送)
- UMKスーパーニュース(テレビ宮崎)
- 延岡西日本マラソン ゲスト解説(2008年から、キー局:テレビ宮崎)
- 東国原知事特別出演 「よかとこ宮崎SP」(旅チャンネル)
- THE・サンデー NEXT(日本テレビ、2008年10月~)
- おにぎりあたためますか(北海道テレビ放送、2008年12月)
- 情報7days ニュースキャスター(TBS系、2009年2月7日・12月26日に出演)
- サキヨミLIVE(フジテレビ系、時折出るときがある)
- 知事就任後はVTRなど、報道番組への出演が多くなっている。
- M-1グランプリ2009(2009年12月20日ABC・テレビ朝日系)
- ラジオ
- ~日本をどげんかせんといかん!~東国原英夫のオールナイトニッポン(2007年3月9日 ニッポン放送。宮崎放送から全国に生放送)
- 映画
著書
「そのまんま東」名義
- 『ビートたけし殺人事件』(太田出版、1988年2月) ISBN 4900416371
- 『明石家さんま殺人事件』(太田出版、1989年4月) ISBN 4900416592
- 『伝言ダイヤル殺人事件』(太田出版、1990年12月) ISBN 4872330102
- 『そのまんま東のそんなバカな!?』(海越出版社、1993年5月) ISBN 4876971552
- 『東国原家の夏休みinダーウィン』(碧宙出版、1999年5月) ISBN 4921104026
- 『どん底』(音羽出版、2000年5月) ISBN 4901007106
- 『ゆっくり歩け、空を見ろ』(新潮社、2001年2月) ISBN 4104439010
- 『芸人学生:僕が学びつづける理由』(実業之日本社、2004年11月) ISBN 4408106143
- 『60歳を人生ピークにもっていく法:今日からできる、誰にでもできる!』(KKロングセラーズ、2005年12月) ISBN 4845420910
- 『どん底』(音羽出版、2007年2月)※新装版 ISBN 4901007289
「東国原英夫」名義
- 『宮崎発 日本を変えんといかん』(集英社、2007年4月) ISBN 9784420310178
- 『宮崎で生まれた改革の波は、そのまんま~東へ!』(ベストセラーズ、2007年4月) ISBN 9784584130018
- 『そのまんま日記』(角川書店、2007年4月) ISBN 9784048839815
- ※オフィシャルサイト(後述)で書かれていた日記をまとめたもの
- 『ニッポンを繁盛させる方法』(角川書店、2007年11月) ISBN 9784047101210
- ※お笑い芸人の島田紳助との対談
- 『絆 佐賀のがばいばあちゃんと宮崎のてげなかあちゃん』(徳間書店、2008年3月) ISBN 9784198624958
- ※お笑い芸人の島田洋七との対談
- 『芸人学生、知事になる』(実業之日本社、2008年5月) ISBN 9784408420059
- ※2004年刊『芸人学生』の増補改訂版
- 『知事の世界』(幻冬舎、2008年5月) ISBN 9784344980839
- ^ 公選の宮崎県知事としては第17代。
- ^ このとき桂三枝の弟子になる考えも持っていた
- ^ そのまんま東『60歳を人生ピークにもっていく法』KKベストセラーズ
- ^ 被害を訴え出たのは新年会から約1年が経過してから。
- ^ 北海ジャンジャンのジャジャジャン!:そのまんま東 刑事事件 - livedoor Blog(ブログ)
- ^ 「功績認められた」東国原知事、”出過ぎ”批判あるもPR活動に意欲、2008年5月30日、ニュース-ORICON STYLE-
- ^ 宮崎日日記事にキレる 東知事「テレビだけの会見でも」、2007年6月18日、J-CASTニュース
- ^ ■<寄稿> 一方を聞いて決めつけるな! -道路特定財源を例に政策論争を考える / 商学部教授 太田 和博、2008年7月号、ニュース専修 ウェブ版
- ^ [入札制度改革:「見直す」知事が見解、2008年6月24日、毎日新聞
- ^ 政治資金:東国原・宮崎県知事 パーティ券で6000万円集金/「脱談合」の建設業界からも、2008年9月30日、毎日新聞(オッショイ!九州)
- ^ 東国原氏「無投票なら5、6億円浮く」 宮崎県知事選で共産候補擁立けん制?(南日本新聞、2010年1月9日)、無投票再選に期待? 東国原知事「5、6億円浮く」(宮崎日日新聞、2010年1月9日)
- ^ 東国原知事が不出馬表明 次期衆院選産経新聞 2008年10月6日閲覧
- ^ 東国原知事:国政転身の条件は「初当選、初入閣」…講演で、2008年11月21日、毎日新聞
- ^ 弟子に芸人の早川伸吾がいる。東国原知事、手切れ金認めた「女性に心当たりある」、2008年4月25日、サンケイスポーツ
- ^ 東国原英夫知事、副収入は給与の2倍超、2008年4月8日、産経新聞(電子版)
- ^ 東国原知事「総選挙も影響があるのでは」、2008年11月5日、日テレNEWS24
- ^ 日刊スポーツ:東国原知事「24時間」マラソンに興味
- ^ 東国原知事お疲れ 東京マラソン完走→会議出席→宮崎へ戻り「足腰フラフラ」:社会:スポーツ報知
演じた事のある人物
関連項目
- 人物
- ビートたけし
- かとうかず子
- 北海ジャンジャン
- 片平夏貴
- 橋下徹 - 一時期、地方分権で連携しそうになった
- 北川正恭 - 早稲田大学大学院教授
- 石橋貴明
- 田中義剛
- 島田紳助
- 武井俊輔
- クロマニヨン吉川 - 元たけし軍団、現宮崎県知事政務秘書。
- 早川伸吾 - そのまんま東(東国原)の一番弟子(ビートたけしの初孫弟子)。
- 唯是一寿
- ゾマホン・ルフィン(2代目そのまんま東)
- たけし軍団関連
- その他
- 以下、リダイレクトページ「そのまんま東」のカテゴリ
参考文献
- 『東国原知事は宮崎をどう変えたか』(ミネルヴァ書房、2009年9月) ISBN 9784623055760
外部リンク
- 元気じゃひか? 東国原です (宮崎県サイト)
- そのまんま東オフィシャルサイト (公式サイト)
- 東国原英夫 - Twitter
- そのまんま会オフィシャルサイト (後援会サイト)
- 2007年1月宮崎県知事選結果 (『ザ・選挙』)
- 東国原政治家情報ページ(動画あり) (『ザ・選挙』)
- 特集・東国原知事に学ぶ危機管理 (BPnet・SAFETY JAPANより)
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| 都道府県知事 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 宮崎県知事(公選) |
|---|
| 安中忠雄 - 田中長茂 - 二見甚郷 - 黒木博 - 松形祐堯 - 安藤忠恕 - 東国原英夫 |
| TBSオールスター感謝祭チャンピオン | |
|---|---|
| 1990年代 | 1992秋 斉藤慶子 / 1993春 中島啓江 / 1993秋 麻木久仁子 / 1994春 関根勤 / 1994秋 そのまんま東 / 1995春 ヨネスケ / 1995秋 向井亜紀 / 1996春 辰巳琢郎 / 1996秋 野際陽子 / 1997春 そのまんま東 / 1997秋 東幹久 / 1998春 三村マサカズ / 1998秋 薬丸裕英 / 1999春 原千晶 / 1999秋 青島健太 |
| 2000年代 | 2000春 白石美帆 / 2000秋 松尾貴史 / 2001春 辺見えみり / 2001秋 菅広文 / 2002春 岩崎ひろみ / 2002秋 中田喜子 / 2003春 磯野貴理子 / 2003秋 ラサール石井 / 2004春 長谷川純 / 2004秋 渡辺正行 / 2005春 谷川真理 / 2005秋 岡江久美子 / 2006春 山田雅人 / 2006秋 水野裕子 / 2007春 蛍原徹 / 2007秋 石田純一 / 2008春 品川祐 / 2008秋 浦田聖子 / 2009春 竹若元博 / 2009秋 山田親太朗 |
| 歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以後) ※受賞者の役職は当時のもの | |
|---|---|
| 第8回(1991年) | チャーリー浜 |
| 第9回(1992年) | きんさんぎんさん |
| 第10回(1993年) | 川淵三郎(Jリーグチェアマン) |
| 第11回(1994年) | 宮沢りえ イチロー(オリックス・ブルーウェーブ) 安達祐実 |
| 第12回(1995年) | 青島幸男(東京都知事) 野茂英雄(ロサンゼルス・ドジャース) 仰木彬(オリックス・ブルーウェーブ監督) |
| 第13回(1996年) | 有森裕子(マラソン選手)鳩山由紀夫(民主党代表) 長嶋茂雄(読売ジャイアンツ監督) |
| 第14回(1997年) | 渡辺淳一、黒木瞳 |
| 第15回(1998年) | 佐々木主浩(横浜ベイスターズ) パイレーツ(お笑い芸人) |
| 第16回(1999年) | 小渕恵三(内閣総理大臣) 松坂大輔(西武ライオンズ) 上原浩治(読売ジャイアンツ) |
| 第17回(2000年) | 慎吾ママ 木下斉(商店街ネットワーク社長・早稲田大学高等学院三年) |
| 第18回(2001年) | 小泉純一郎(内閣総理大臣) |
| 第19回(2002年) | 佐々木裕司(川崎市民)、黒住祐子(フジテレビ・レポーター) 坂本休(中津江村・村長) |
| 第20回(2003年) | 野中広務(元衆議院議員) テツandトモ(お笑いグループ) 北川正恭(早稲田大学教授) |
| 第21回(2004年) | 北島康介(水泳選手) |
| 第22回(2005年) | 武部勤(自由民主党幹事長)ほか 堀江貴文(ライブドア社長) |
| 第23回(2006年) | 荒川静香(プロスケーター) 藤原正彦(数学者) |
| 第24回(2007年) | 東国原英夫(宮崎県知事) 石川遼(ゴルフ選手) |
| 第25回(2008年) | エド・はるみ 天海祐希 |
| 第26回(2009年) | 鳩山由紀夫(内閣総理大臣) |
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