ヨーゼフ・メンゲレ

関連キーワードで検索

関連キーワードで検索

ヨーゼフ・メンゲレ
1911年3月16日 - 1979年2月7日(満67歳没)
渾名死の天使
生誕地 ドイツ帝国ギュンツブルク
死没地 ブラジル、ベルティオガ
所属組織画像:Flag of Germany 1933.svg ナチス・ドイツ
最終階級親衛隊大尉
アウシュヴィッツ強制収容所主任医官
戦闘第2次世界大戦
賞罰1級鉄十字勲章戦傷章黒章

ヨーゼフ・メンゲレJosef Mengele1911年3月16日 - 1979年2月7日)はドイツ南部生まれのドイツ人。ナチス親衛隊の将校。そしてアウシュヴィッツにおいて、各地から送り込まれて来た人々から人体実験のための選別を行っていた医師の一人。

収容所の囚人らにおよそ学術的価値の認められ得ない人体実験を繰り返し、ナチス親衛隊の制服と白手袋を着用してクラシックの指揮者さながらに選別作業を行ったと伝えられ、彼の姿を見た人々からは「死の天使」と恐れられた。人種淘汰、人種改良、人種の純潔、アーリア化を唱えるナチス人種理論の信奉者。愛称のベッポ(Beppo)はJosefのイタリア語読み「Giuseppe」に由来する。戦後、南米へ逃亡しブラジルで海水浴中、心臓発作により死亡。

目次

生い立ち及び経歴

メンゲレはドイツ南部バイエルン王国ギュンツブルクの裕福な農業機械工場経営者カール・メンゲレ(1881年 - 1959年)とその妻・ワルブルガ(? - 1946年)の3人の息子の内の長男として生まれた。弟にカール・メンゲレ(1912年 - 1949年)およびアロイス・メンゲレ(1914年 - 1974年)がいた。1930年、ギムナジウムを卒業。ミュンヘンウィーンボンの各大学で遺伝学、医学、人類学を研究し、1935年に下顎構造の人種間の差に関する研究で人類学の博士号(Ph.D)を得た。1937年フランクフルト大学では指導教官オトマール・フォン・フェアシュアー(W:Otmar Freiherr von Verschuer)の下で助手として遺伝生物学と民族衛生学を研究した。1938年には「口唇口蓋裂の家系調査」の研究で医学博士号(M.D.)を取得した。

1931年、20歳のときにヴァイマル共和国に反対する右翼政治団体である鉄兜団de)に加わる。同団体は1933年のナチスの政権獲得後、ナチス突撃隊に吸収される。その後、彼は健康上の問題を理由に退団し1937年にナチス党に入党。1938年にナチス親衛隊に入隊。1938年から1939年まで6か月間、チロルの第137山岳兵連隊にて義務兵役に就く。1939年、彼は彼の最初の妻となるイレーネと結婚し子供をもうけ初めての息子にルドルフと名付けた。1940年武装親衛隊に志願、最初は予備医療部隊にそして次に第5SS装甲師団「ヴィーキング」に軍医として配属、そして東部戦線に従軍、1942年に負傷し、前線任務に適さないと判定された。1943年4月20日親衛隊大尉に昇進。この間、第一級・第二級鉄十字章、黒色戦傷章、東部戦線従軍記念メダル等を授与された。同年5月30日アウシュヴィッツに配属され、主任医官になった。

メンゲレは、アウシュヴィッツに21か月間(1943年5月30日 - 1945年1月17日)勤務し、「死の天使」と渾名された。囚人の乗せられた貨車がアウシュヴィッツに到着した時、メンゲレはプラットフォームに立ち、降りてくる囚人の誰が仕事と実験に役立つか、また誰がガス室に送られるべきかを選別・指図した。人体実験を行った理由は、自分の出世のために実験結果をどうしても認めさせる必要があったからである。後に関係者が言うには、メンゲレは義務としてユダヤ人を絶滅させることが本当に正しいかどうかで葛藤していたという。また戦後生き残った生存者の証言によると、クラシックのアリアを好み、選別作業中や人体実験の合間に口ずさんでいたと言う。

人体実験

ヨーゼフは実験対象である囚人をモルモットと呼び、その実験は加圧室に置いたり、有害物質や病原菌を注射したり、血液を大量に抜いたり、熱湯に入れて麻酔なしで手術したり、様々な薬剤をテストしたり、死に至るまで凍らせたり、生きたまま解剖したり、様々な致命的外傷を与えたりするものだった。

彼はナチズムの信奉者であったが、ユダヤ人にヒトラーや他の信奉者とは違った見解を持っていた。一般的なナチズムの信奉者は社会ダーウィン主義に基づきドイツ人が優等民族でユダヤ人は劣等民族であると考えていたが、彼の主張はエリート層にユダヤ人が多いことから「世界で最も優れた民族はドイツ人とユダヤ人であり、どちらかが世界を支配する。しかしユダヤ人が支配することを私は望まない」というものだった[要出典]。ただ後年、息子ヘルマンが著したノンフィクション『Vati』の中では、野生生物の優勝劣敗の掟をたとえに挙げて、ヒトラーたちとさほど変わらない優生学、選民思想を解いている。

また、双子に特別な興味を持っていた。双子に対する実験は1944年に始まり、メンゲレの助手はプラットフォームに立ち「双子はいないか、双子はいないか」と叫び何千もの実験対象を集め、特別室に収容した。実験のほとんど全ては学術的価値が無いに等しく、理屈も曖昧で倫理を無視したものだった。当初の実験は身体を比較するだけであったが徐々にエスカレートしていき、子供の目の中へ化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験や様々な切断、肢体や性器の転換および他の残忍な外科手術が行われた。他にも、2つの同じ臓器が1つの身体で正常に機能するかを確認するために、双子の背中同士を合わせて静脈を縫い合わせることで人工の「シャム双生児」を作ることを試みたが、この手術は成功しないばかりか単に悪性の感染症にさせただけだった。この癒着した双子の姿はあまりにも見るに耐えなかったため、手術の3日後に両親によって窒息死させられたという(モルヒネを用いたという説も存在する)。

ヨーゼフの実験対象の囚人は実験から生還しても解剖するためほとんどが殺害され、役に立たない実験体は処分された。双子たちはヨーゼフを「おじさん」と呼び、ヨーゼフはよく双子の特に少女を車に乗せて楽しげにドライブしていたが、その双子たちが次の週には解剖台の上に乗っていた。この光景は側近の医師たちにも理解ができなかったという。戦争が終結する直前に人体実験の証拠隠滅のために囚人を皆殺しにすることを試みたが、毒ガスが底をついたので解放している。この時、約3000人の双子のうち180人が生き延びたが、後遺症や精神的ショックが後をひいた。

カイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所(ベルリン)の所長オトマール・フォン・フェアシュアーのもとへ彼が送ったトラック2台分の記録は後に破却され、彼の仕事の全貌はもはや知られることはない。その後はブラジルで別人になりすまし、1979年に没した。オトマールは戦後告発されずにミュンスター大学遺伝学教授として人生を全うし、1969年に没した。2001年、戦後56年を経てベルリンを訪れた生き残りの8人の双子に対して、カイザー・ヴィルヘルム協会の後継組織であるマックス・プランク協会の会長フーベルト・マルクル(1938年 - )は謝罪した。

第二次世界大戦後

1945年1月17日、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所を解放する直前、ヨーゼフはグロース=ローゼン強制収容所へ移り、更にベルリンへ移った。ドイツ敗戦後は国防軍兵士に成りすまし、陸軍病院部隊に偽名で紛れ込んだ。ミュンヘン近郊で米軍の捕虜となったが、米軍は捕虜の中にヨーゼフがいる事に気づかなかったので解放された。米軍は戦争犯罪者であるSS隊員を選別するのに負傷用に彫ってあった腕の血液型の刺青で判断していたが、ヨーゼフはそれをしていなかったために見逃された。その後、ドイツ南部のマンゴルディングの村に身を潜め、フリッツ・ホルマンの偽名を用い農家の住み込みとして働く。この時、ニュルンベルグ裁判では同僚であったカール・ゲプハルトらが被告として裁判に出廷していた(この「医者裁判」によりゲプハルトら7名は1948年に処刑されている)。この裁判中、ヨーゼフの名前も何度か挙げられていたが、連合軍側は既に彼は死んだものとみなしていた。

1949年戦犯追及を逃れようとする元ナチ党員の多くとともに、ヨーゼフはアルゼンチンに逃亡し、家族の支えで薬品会社の共同経営者になる。ヨーゼフは妻・イレーネと離婚して、1958年に彼の兄弟カールの未亡人・マルタと再婚した。なお、イレーネとの離婚の際、離婚手続きを行うためにドイツ大使館に出向いて書類に本名で記載、この書類とともに提出された写真が戦後公式記録に残る唯一の写真となった。彼女と息子はヨーゼフに会うためにアルゼンチンへ移る。1960年のアイヒマン逮捕以降、イスラエルの追及を逃れるために南米諸国を転々とするも、すぐに国際逮捕状が出される。彼を追い詰める国際的な捜査努力にもかかわらず、逮捕されずに様々な名で隠れ住み、戦後35年間を生き延びた。

メンゲレが1960年代に訪れていたカンディド・ゴドイというブラジルの村では金髪と碧眼というナチスの主張するアーリア人的特徴を備えた双子が次々に生まれる現象が起きている。この村では60年代にメンゲレと思われる医者に薬を提供された証言が残っており、実際にこうした現象が起きていることからメンゲレの実験が成功したとみる学者もいる[1]

彼はパラグアイとブラジルで暮らし、1979年にサンパウロ州W:Bertiogaの海岸で海水浴中に心臓発作によって溺死した。1980年代半ばまで彼はナチ・ハンターによる追及から逃げ果せた。しかし、自身の日記や会社の同僚によると、追跡の恐怖に怯えており、小さな物音にさえ動揺するほど精神衰弱していたという。1992年に遺骨からのDNAテストで本人であることが確認された。その後遺体は荼毘に付され、ブラジル政府が「保管」している[1]

2008年9月、アドルフ・アイヒマン拉致作戦に従事したイスラエル諜報特務局の元工作員で、イスラエルの現役閣僚であるW:Rafi Eitanがエルサレム・ポストとのインタビューで語ったところでは、モサッドはすでに当時メンゲレがアイヒマンと同じくアルゼンチンのブエノスアイレスに潜伏していることをつかんでいたが、メンゲレを捕まえることによってアイヒマンが逃亡するのを恐れ、メンゲレ拘束には踏み切らなかったという。

さらにエイタンによると、イスラエル諜報特務局は情報提供者をメンゲレと接触させており、彼が不定期にブエノスアイレスに戻り、市内のアパートで妻とともに生活していることまで把握していたという。その時点でモサッドはアイヒマンを拘束し彼の身柄を押さえていたが、メンゲレの拘束はアイヒマンをイスラエルへと出国させる段階でリスクになると判断し、この時は逮捕を見送った。アイヒマン逮捕が世界に知れ渡った後、モサッドは再びメンゲレが潜伏していると見られるアパートを急襲したが、すでに逃亡した後であった。2年後、モサッドはメンゲレがブラジルサンパウロに居ることをつかんだが、再びメンゲレは逃亡し、完全に見失ったという。

ヨーゼフは、小説『ブラジルから来た少年』および映画『マラソンマン』の中で中心的人物として描かれており、1986年にはアメリカ出身のヘヴィメタルバンド・スレイヤーが「エンジェル・オブ・デス」の曲でヨーゼフについて歌っており、歌詞が過激すぎるとの理由で世界中から物議の対象となった。また、映画『マイ・ファーザー 死の天使 "My Father, Rua Alguem 5555"』(2003年、エジディオ・エローニコ監督)ではヨーゼフの実在の息子の葛藤を描いており、ヨーゼフ役をチャールトン・ヘストンが演じている。

2007年9月17日、アメリカの米国ホロコースト記念資料館(W:United States Holocaust Memorial Museum)はアウシュヴィッツで撮影されたこれまで未公開のアルバムを公表した。その中には、これまで知られていなかったメンゲレが写った写真が8枚含まれている[2]

人物

  • 現在一般的に知られる顔は異常性を引き立てるためにやや醜悪な写真を使用しているが、妻をはじめとして彼を良く知る人物は背が高くハンサムで親切な人物であったという。このことについては実験体となった被害者も認めており、南米の同僚にいたっては「彼がやったとは思えない。やったとしたら命令でしたのだろう」と発言している。
  • 戦後ついに死ぬまで逃げおおせた著名な戦犯の一人である。イスラエル諜報特務局は彼の目撃情報をつかむ度に迅速に動いたがその度にメンゲレは跡形もなく消えていた。これにはナチハンターのサイモン・ヴィーゼンタールも「あと二年もあれば彼を捕まえられたのだが」と舌を巻いた。
  • 存命中に息子をブラジルへ招待している(当時の写真は現在も残っている)。このことについて息子は「警察に引き渡すなんてできなかった」と語っている。なお、人体実験について父に言及すると「息子よ、お前も新聞に書かれていることを信じるのか。全て嘘だ。お前の母に誓って言おう。決して人に危害をかけたことなどない」と答えたという[2]

参考資料

脚注

  1. ^ Nazi angel of death Josef Mengele 'created twin town in Brazil'
  2. ^ グイド・クノップ 『ヒトラーの共犯者12人の側近たち』の下巻・第6章「死の医師―ヨーゼフ・メンゲレ」 高木玲訳、原書房、2001年6月。

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

関連キーワードで検索

このページへのリンク: