強制収容所 (ナチス)
ナチス強制収容所(独: Konzentrationslager、一般的にKZと略称される。親衛隊の公式にはKLと略された[1]。)は、ナチス・ドイツがユダヤ人、ジプシー、反ナチ分子、反独分子、エホバの証人、同性愛者、ソ連捕虜、常習的犯罪者、労働忌避者などを収容するためにドイツ本国及び占領したヨーロッパの各地に設置した強制収容所である。
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歴史
強制収容所創設の背景(1933年以前)
1932年にヴァイマル憲法下のドイツで行われた二度の国会選挙で第一党を確保した国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーは、1933年1月30日にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。
ヒトラー首相は、首相に就任するやただちに反ナチ党分子の始末に乗り出した。1933年2月4日には早くもヒンデンブルク大統領に「国民保護のための大統領令」を出させて、言論の自由や政治集会の自由など国民の権利をいくつか停止し、反ナチ党的言論の取り締まりを開始した。続いて国会議事堂放火事件後の1933年2月28日に「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」を出させて、権利の停止の範囲を拡大。この大統領緊急令に「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」という条文が出てくる。さらに3月23日には全権委任法を国会で可決させ、国民の全権利を停止した。これらはヴァイマール憲法48条が非常時には憲法を停止することを認めていたことに準拠していた[2]。強制収容所の設置の法的問題性はなくなった。
左翼政党のドイツ共産党とドイツ社民党は反ナチ党分子の代表格であり、ナチ党にとっては真っ先に社会から隔離すべき者たちであった。彼らを裁判など面倒な手続きなしに容易に収容できる施設として強制収容所は必要となったのである。
初期の強制収容所(1933年‐1934年)
初期のナチス強制収容所は人種だけを理由とした収容はほぼ皆無であり、共産党や社民党など左翼の政治家・活動家が囚人の大多数だった(結果的にその中にユダヤ人がいるということはあった)。あくまで再教育して社会復帰させることが主眼であったので、この頃はまだ左翼思想さえ捨てれば出られる見込みは十分にあった。
プロイセン
ヒトラー首相は右腕であるナチ党幹部ヘルマン・ゲーリングをプロイセン州内相に任命した。当時プロイセン州は州都ベルリンを中心にドイツ社民党やドイツ共産党をはじめとした左翼が多く、特にベルリンは「赤いベルリン」などと揶揄されているほどの左翼天国であった。ゲーリングはルドルフ・ディールスをプロイセン州警察の秘密警察部門である1A課課長に任命し、ドイツ共産党の仕業とされた国会議事堂放火事件ののち、共産党員4000人を一挙に逮捕した[3]。
ゲーリングは逮捕した共産党員を収容するための施設として1933年3月にベルリン郊外のオラニエンブルクにオラニエンブルク強制収容所を創設し、突撃隊にその管理を任せた。これが最初のナチス強制収容所といわれる。続いてゲーリングは、オランダとの国境に近いエムスラント(Emsland)にもエステルヴェーゲン強制収容所(KZ Esterwegen)を設置した。同じく突撃隊が管理を任せられていた。
ゲーリングは、州の秘密警察組織を整備して州秘密警察(略称ゲシュタポ)を創設した。ゲシュタポには令状無しで「危険分子」を拘束できる「保護拘禁」の権限が与えられていた。ゲシュタポが保護拘禁する者の数が増してくると収容所の数を増やす必要性が生じ、ゲーリングは1933年秋までにパーペンブルク強制収容所、リヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg)、ゾネンブルク強制収容所(KZ Sonnenburg)、ブランデンブルク強制収容所(KZ Brandenburg)などの収容所を次々と設置している。
これらはプロイセン州内相ゲーリングによって認められた州公認の収容所であるが、これ以外にも突撃隊員や親衛隊員があちこちに非公認の「私設強制収容所」を勝手に作り、気に入らない者を手当たり次第にぶち込んでいた。「私設強制収容所」はベルリンを中心にその数は40とも50とも言われる。多くは空きビルや石炭置き場などを利用した簡易な収容所だったので正確な事はよくわかっていない。ここでは公認の収容所以上に残虐な行為が行われたといわれる。突撃隊の無法ぶりに眉をひそめていたゲーリングはゲシュタポ長官ディールスに命じて「私設収容所」を次々と統廃合させ、1933年末頃にはあらかたの「私設強制収容所」は消滅し、1934年3月には全て解散された(親衛隊の私設収容所コロンビアハウス強制収容所(KZ Columbiahaus)だけは1936年まで存続した)[4][5]。
ゲーリングは公認収容所のほうでも1933年6月頃に強制収容所の運営はプロイセン州補助警察(突撃隊員と親衛隊員で構成される)が行うと定めて、突撃隊の収容所運営の独占を崩し、親衛隊も収容所運営に関与させた。
バイエルン
一方プロイセン州に次ぐ規模の州であるバイエルン州でも突撃隊員と親衛隊員が勝手に「私設強制収容所」をあちこちに作って気に入らない者を叩き込んでいた。
強制収容所の無政府状態を恐れたミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラー(親衛隊全国指導者)は、腹心のラインハルト・ハイドリヒ親衛隊上級大佐(当時)に命じて、1933年3月22日にミュンヘン郊外の第一次世界大戦中に火薬工場として使われていた建物と土地を使ってダッハウ強制収容所を設置させた。このダッハウが最初のナチス強制収容所であるとする説もある。ヒムラーとハイドリヒの指揮の下、バイエルン州でも大勢の反ナチ派が保護拘禁されてダッハウ強制収容所へ送られていった。
ダッハウの運営ははじめから親衛隊によって行われた。ヒムラーは1933年6月にダッハウ収容所第2代所長として後に全強制収容所総監となるテオドール・アイケ親衛隊上級大佐(当時)を任じている。アイケはダッハウ強制収容所の警備部隊を組織した。これがのちに親衛隊髑髏部隊となる。
ダッハウ強制収容所は第二次世界大戦でのドイツの敗戦まで存続し、もっとも古い強制収容所(プロイセンのオラニエンブルク強制収容所などは後に廃された)としてすべてのナチス強制収容所のモデル収容所となっていった。
親衛隊管理下の強制収容所(1934年‐1945年)
戦前期(1934年‐1939年)
1934年4月20日にゲシュタポの指揮権はヘルマン・ゲーリングから親衛隊のハインリヒ・ヒムラーに譲られた。これをきっかけにプロイセン州の各強制収容所もヒムラーがゲーリング以上に大きな影響力を及ぼすようになった。さらに1934年6月30日から7月初めにかけて発生した長いナイフの夜事件において突撃隊幹部はヒムラーやハイドリヒら親衛隊幹部の主導の下に粛清された。これがきっかけで突撃隊は凋落し、逆に親衛隊は突撃隊から独立を果たして急速に権力を拡大した。
この事件後、全強制収容所の運営権が正式に親衛隊の移管となることが決まった。ヒムラーは早速ダッハウ強制収容所の所長テオドール・アイケを全強制収容所監督官(Inspekteur der Konzentrationslager)に任じ、全ての強制収容所の運営をゆだねた。アイケはダッハウで組織した強制収容所警備部隊を拡張し、各強制収容所に配置した。この警備部隊は1936年3月29日に「親衛隊髑髏部隊」(SS-Totenkopfverbände)の名称が与えられ、アイケは親衛隊髑髏部隊総監(Generalinspekteur der SS-Totenkopfverbände)の肩書も得た。
強制収容所監督官及び親衛隊髑髏部隊総監(はじめアイケ、後にアウグスト・ハイスマイヤー、リヒャルト・グリュックス)ははじめ親衛隊本部(SS-Hauptamt)に属していたが、1939年6月に親衛隊本部からオズヴァルト・ポールの経済局経済及び管理本部(Hauptamt Verwaltung und Wirtschaft)が独立するとその配属となった。さらに戦時中の1942年6月には経済及び管理本部が親衛隊経済管理本部(Wirtschafts Verwaltungshauptamt、略称WVHA)に改組されるとそのD局局長職に置き換えられた[6]。
1936年にはオラニエンブルクに新たにザクセンハウゼン強制収容所が置かれ、かつてのオラニエンブルク強制収容所だった場所には強制収容所総監及び髑髏部隊総監の本部が置かれることとなった。続いて1937年にはヴァイマルの郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が置かれた。ダッハウとザクセンハウゼンとブーヘンヴァルトの3つはそれぞれ南ドイツ・北ドイツ・中央ドイツに位置したことから、三大収容所としてドイツ国内の強制収容所の中心的な存在となった。他の中小強制収容所の多くは解体され、その囚人は三大収容所へ移されるか、あるいは三大収容所の外部労働隊(Außenkommando)として組み込まれた[6]。また大収容所は次々と付属の収容所を設置するようになっていた(外部労働隊駐屯地が収容所へ発展した物が多い)。この関係において大収容所は基幹収容所(Stammlager)、付属収容所は外部収容所(Außenlager)と呼ばれていた[7]。
さらにオーストリア併合後の1938年にはリンツ近くにマウトハウゼン強制収容所が設置され、オーストリアの中心的収容所となった。また同年のズデーテン地方の返還に伴い、チェコ人政治犯の投獄先としてチェコスロバキア国境付近にフロッセンビュルク強制収容所がおかれた。
1939年5月にはフュルステンベルク(Fürstenberg)郊外に女囚専用のラーフェンスブリュック強制収容所、1939年6月にはハンブルク郊外にノイエンガンメ強制収容所が独立した。
収容者ははじめ政治犯が中心であった。しかし1937年に保安警察長官ハイドリヒは「あらゆる反社会分子を片っ端から強制収容所に入れる」と発言。その言葉通り、殺人や強盗などの重罪を犯した刑事犯や労働忌避者が大量に送り込まれるようになった。ユダヤ人やジプシーなど人種を理由とした強制収容所送りも若干見られるようになりはじめた。1938年11月9日の水晶の夜事件後には事件で逮捕されたユダヤ人が3万人も一挙に強制収容所(おもにブーヘンヴァルト)に移送されたため、一時は強制収容所の囚人のほとんどがユダヤ人と化した。ただし水晶の夜の際に逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間にして釈放されているため、このときのユダヤ人の囚人の急増は一時的なものだった[8][9]。エホバの証人の強制収容所送りも1937年から収容が本格化した[10]。
1937年までは強制収容所の囚人は反ナチ派の政治犯が一番の多数派だったが、1938年と1939年には刑事犯が多数派を占めている[11]。刑事犯が囚人の多数派になったのはハイドリヒが政治警察ゲシュタポとともに刑事警察(クリポ)を所管していたことが関係していると思われる。
第二次世界大戦開戦直前の全ドイツの強制収容所の囚人数は2万5000人ほどであったとみられる[12]。これらの囚人はほとんどが刑事犯か政治犯のドイツ人(オーストリア人含む)であった[13]。
戦時中(1939年‐1945年)
強制収容所
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはヨーロッパのほぼ全域を占領。占領下のヨーロッパ各地にも強制収容所を次々と建設していった。1939年9月、ダンツィヒにシュトゥットホーフ強制収容所(KZ Stutthof)を設置。1940年4月、ハインリヒ・ヒムラーは、ポーランド侵攻後にポーランドから奪ってドイツ本国領に組み込んでいたアウシュヴィッツ(ポーランド名オシフィエンチム)に巨大強制収容所の建設を命じた[14]。これがナチス強制収容所の中でも最も悪名高いアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所となる。
1940年8月と1941年1月に国家保安本部長官ハイドリヒは強制収容所の格付けを行った。最も罪の軽い者を収容する第一カテゴリー(ダッハウ、ザクセンハウゼン)、重い罪科を犯したが、再教育の見込みのある者を収容する第二カテゴリー(ブーヘンヴァルト、フロッセンビュルク、ノイエンガンメ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ)、再教育の見込みのない重罪者を収容する第三カテゴリー(マウトハウゼン)といった具合に定めた。しかし実態をあまり反映していない区分であり、このようなカテゴリーが設けられたのはさも強制収容所がまともな犯罪者隔離施設であるかのように見せかけるためのカムフラージュではないかという説もある[15][16]。
1940年夏にブレスラウ郊外にグロース・ローゼン強制収容所、1941年夏にルブリン郊外にマイダネク強制収容所、1941年秋にフランス・エルザス地方にナッツヴィレール=ストリュートフ強制収容所(KZ Natzweiler-Struthof)、1941年11月にチェコにテレージエンシュタット強制収容所(KZ Theresienstadt)と大規模な収容所が続々と設置された。1943年春にはニーダーザクセン州にあった軍の捕虜収容所を親衛隊の強制収容所に改築してベルゲン・ベルゼン強制収容所が設置された。
開戦とともに強制収容所の数が急増したが、これは収容せねばならない者の数が急増したためである。まず占領地の反独的な外国人の収容が必要になった。加えてドイツ国内においても戦時中の治安維持のため、反体制分子の収容が改めて徹底する必要があった。一度は釈放した政治犯などが再び収容されたり、兵役に服さない者が狙われて収容されたり、経済犯や職場放棄者の収容も増えていった[13]。
1941年6月に独ソ戦がはじまるとソ連兵捕虜も大量に強制収容所へ送られるようになった。親衛隊から下等人種とみなされていたスラブ民族(ロシア人やポーランド人など。親衛隊は東方諸民族とも呼んだ。)は絶滅対象であるユダヤ人やジプシーを除けば収容所の中でもっとも劣悪な扱いを受けていた(一方オランダ人・ベルギー人・ノルウェー人・デンマーク人などは同じゲルマン民族とみなされたため、収容所内でも比較的待遇が良く、ドイツ人囚人に次ぐ扱いを受けていた)[13]。
最終的にナチス強制収容所に送り込まれた人の総数を正確に割り出すことは難しいが、推定で800万人から1000万人ほどであろうという説がある。しかしこのうち平均的な常時収容者(ある一定の時点にいつも収容所にいた人々)の数は100万人を超えることはなかったと思われる[7]。
1939年9月から1940年春は収容所の状況が悪化した。収容所数がまだ少ない時期に囚人数が急に増えたことやドイツの食糧事情悪化でそうなっていったのだが、その後、数年間は収容所の状態が落ち着いた。戦争経済に奉仕する労働力となる強制収容所に価値が置かれ、食料も一般国民よりむしろ優先的に支給されたためだった。しかし1944年から1945年までの戦争後期はドイツの食糧事情はますます悪化し、しかも戦線の後退に伴い、収容所が徐々に閉鎖され、囚人は後方の別の収容所へ集められていき、すさまじい数の囚人が一つの収容所に叩き込まれる状態になったので、飢餓に加えて伝染病も蔓延して収容所内は地獄と化した。もはや収容所がつけていた囚人のランクなど関係なく囚人たちは次から次へと餓死・病死していった[7]。
ユダヤ人・ジプシー絶滅収容所
1941年にアドルフ・ヒトラーはヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを決意し、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーにその執行を命じた。ヒムラーは1941年8月にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスをベルリンの親衛隊本部に召集し、アウシュヴィッツ強制収容所をユダヤ人殺害センター、すなわち「絶滅収容所」にすることを命じた。ヘスはアウシュヴィッツに戻るとただちにソ連兵捕虜を使ってチクロンBのガス実験を行った。チクロンBは一酸化炭素よりも手っ取り早く確実であると判断してこれを毒ガスに使うこととした。
まずポーランドのユダヤ人(彼らは開戦以来ゲットーに隔離されていた)が徐々にアウシュヴィッツへ移送されるようになり、1941年10月からアウシュヴィッツでユダヤ人のガス処理が開始された。1942年には双子収容所のビルケナウ強制収容所にもガス室が置かれ、こちらがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のガス殺の中心となっていく[17]。
アウシュヴィッツの犠牲者数は今日に至るまで確定しておらず、諸説あるが、専門家の推定は多くはアウシュヴィッツでガス殺されたユダヤ人を100万人から150万人の間ぐらいであろうと見ている[18]。ただしアウシュヴィッツは絶滅収容所であるだけでなく、強制労働収容所でもあり続け、ガス室に送られずとも「労働を介しての絶滅」させられたユダヤ人が多数いる。
1941年11月、ヒムラーはルブリン親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクに命じて絶滅収容所であるベウジェツ強制収容所やヘウムノ強制収容所の建設を開始させた。また1942年1月にはラインハルト・ハイドリヒが各省次官を集めてヴァンゼー会議を主催。「ユダヤ人問題の最終的解決」(ユダヤ人の絶滅)、「労働を介した絶滅」、後に「ラインハルト作戦」と名付けられるユダヤ人絶滅作戦などが決定された。「ラインハルト作戦」に基づき、絶滅収容所のソビボル強制収容所とトレブリンカ強制収容所が設置され、すでに設置されていたベウジェツとともにポーランドの三大絶滅収容所が構成された。ベウジェツでは55万人[19]、ソビボルでは25万人[20]、トレブリンカでは最低73万人[21]が虐殺された。
「最終解決」の名の下にヨーロッパ中のユダヤ人が続々と強制収容所や絶滅収容所に移送されるようになった。この移送にあたっては国家保安本部ユダヤ人局局長アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐が総指揮を執っていた。
ポーランドのユダヤ人社会がほぼ壊滅すると、3大絶滅収容所は1943年代に早々に閉鎖され、植林などで証拠隠滅作業が行われた。その後はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所やマイダネク強制収容所、ヘウムノ強制収容所が絶滅収容所として機能し、これらの収容所はドイツ軍の戦線後退でソ連軍が同地に到着するまで存続した。
また絶対数が少ないため、数の上では少数だったが、ジプシーもユダヤ人と同じく絶滅対象となり、ガス室処理された。
収容所の組織体制
看守
1934年以来、すべての強制収容所は、強制収容所監督官(テオドール・アイケ、アウグスト・ハイスマイヤー、リヒャルト・グリュックス)の管轄下にあった。
各強制収容所は、司令部(Kommandantur)、司令部幕僚(Kommandanturstab)、収容所指導部(Lagerführung)の3部から編成された。これらの部局外にSS部隊(SS-truppen)が存在し、その中に収容所の警備を行う監視隊(Wachmannshaften)があった[22]。
収容所全体のトップは司令部の長である所長(司令官)(Kommandant)である。所長は強制収容所の絶対的支配者であり、強制収容所総監に対してのみ責任を負った。大きな収容所では所長は親衛隊大佐から親衛隊大尉ぐらいの階級の者たちが多い。小規模な収容所には親衛隊軍曹の所長もみられる。所長には副官がつけられており、副官が司令部(所長)の命令が収容所全体で実行されるよう万事の手配をした[22][23]。
司令部幕僚は司令部に従属する。司令部幕僚の代表格は管理指導者(Verwaltungs)である。彼が強制収容所の経済問題を全てを差配していた。業務の範囲が広いため、大きな収容所では管理指導者には10人近い副官がつけられていた[24]。
囚人たちの管理業務は収容所指導部によって行われた。収容所指導部も司令部に従属する。収容所指導部の長は収容所指導者(Lagerführer)であり、3名まで増やすことができた(大きな収容所では親衛隊大尉から親衛隊少尉ぐらいの階級の者が多い)。この下には連絡指導者(Rapportführer)がおり、囚人の状態などを収容所指導者に報告する役目であった。たいてい2名だった(親衛隊曹長か親衛隊上級曹長ぐらいの者が多い)。連絡指導者の下にはブロック指導者(Blockführer)がいる。彼らがそれぞれのブロックの囚人を直接管理した。親衛隊軍曹や親衛隊伍長ぐらいの者が多かった。囚人に最も身近に接する役職であり、囚人たちの命にほとんど無制限の権利を有したため、数々の残虐行為を起こした。ブロック指導者と並んで囚人の直接の取り扱いを行ったのが、労働隊指導者(Kommandoführer)である。これは収容所の外部労働隊の囚人たちの管理を行った。彼らも囚人たちの絶対的支配者であった。囚人の労働の管理は労務指導者(Arbeitsdiensführer)(戦争後期にさらに上位職として労働出動隊指導者(Arbeitseinsatzführer)が置かれた)によって行われた。囚人を危険な労働に配置転換させる権限を有したため、彼らも囚人の生死にかなり関与することが多かった[25][24]。
また各収容所内には政治局(Politische Abteilung)という部署が置かれていた。これは収容所の機関というよりゲシュタポの機関である。名目上はこれも所長の司令部に属していたのだが、実態はほとんど独立していた。強制収容所の日常の運営は強制収容所総監(すなわち、その部下である各強制収容所所長)にゆだねられていたが、強制収容所の囚人の収容と釈放と懲罰に関してはゲシュタポに決定権があったため、収容所内にもゲシュタポの機関が存在する必要があったのである。また収容所内部の地下活動(抵抗組織、サボタージュ、脱走計画、外部との接触など)を取り締まる役職でもあった。政治局はしばしば突然スピーカーで囚人を呼びだして拷問を行ったという。個々の囚人も身元や経歴を記載した個人カードも政治局が所管していた[24]。
収容所の警備は親衛隊部隊(SS-truppen)に属する監視隊(Wachmannshaften)(1939年からは常駐隊(Stammanschaften)、さらにSS髑髏部隊突撃隊(SS-Totenkopf-Sturmbann)に再編成される)によって行われた。収容所の監視隊、ブロック指導者、労働隊指導者は親衛隊髑髏部隊によって編成されることとなっていた(強制収容所監督官は一貫して親衛隊髑髏部隊司令官と兼務だったのでそれ以外の収容所役職も髑髏部隊隊員から出されることが多かったが)。髑髏部隊隊員は開戦とともにほとんどが第3SS装甲師団「髑髏」に編成されて出征したので、新たに一般親衛隊、突撃隊、ウクライナ人、クロアチア人などが髑髏部隊員として補充され、強制収容所の警備にあたった。監視隊は親衛隊部隊の長である部隊司令官(Truppenkommandant)が指揮した。部隊司令官は親衛隊大尉か親衛隊中尉ぐらいの階級の者が多かった。監視隊が囚人に残虐にふるまうかどうかはこの部隊司令官次第であった[26]。
囚人
囚人の役職
強制収容所の囚人の中にも管理職が存在した。囚人たちのトップの地位にあったのは親衛隊から任命される収容所古参(Lagerältester)である。収容所古参は初め1人だったが、収容者数が増えてくると3人までに増やされた。親衛隊から信用のある者が任命された。収容所古参の下で個々の囚人移住ブロックの囚人を指導する囚人職がブロック古参(Blockältester)である。ブロック古参は収容所古参の推薦を経て親衛隊が任命した。ブロック古参は各囚人移住家屋ごとに2名から3名の部屋係(Stubendienste)を持ち、彼らを通じてブロック全体の囚人を支配していた。また労働隊においては囚人の中からカポ(Capo)が任命された。カポは、看守の親衛隊員が就任する労働隊指導者の下で労働隊の他の囚人の監督を行う。カポの下には先任労働者(Vorarbeiter)が置かれた。カポは、こん棒で殴りつけるなど他の囚人に懲罰を加えることもできたが、彼らも囚人であるので看守の親衛隊員からは懲罰を加えられることもあった。収容所古参、ブロック古参、カポ、先任労働者は、区別のため収容所指導部の看守から、白い文字の書かれた黒いリボンを左胸に付けさせられた[27]。
囚人の分類
詳細は「ナチ強制収容所のバッジ」を参照
主な強制収容所一覧
詳細は「ナチスドイツの強制収容所一覧」を参照
- ラトビア
- リガ=カイザーヴァルト強制収容所(de:KZ Riga-Kaiserwald)
- クロアチア
- ヤセノヴァツ強制収容所(de:KZ Jasenovac)
- ウクライナ
- ヤノフスカ強制収容所(de:KZ Janowska)
- ズデーテンラント&ボヘミア・モラヴィア
- テレージエンシュタット強制収容所(de:KZ Theresienstadt)(テレジーン)
- ノルウェー
- ファルスタッド強制収容所(KZ Falstad)
- ブレットヴェト強制収容所(KZ Bredtvet)
- オランダ
- ヘルツォーゲンブシュ強制収容所(de:KZ Herzogenbusch)
- ウェスターボルク強制収容所(de:KZ Westerbork )
- アーメルスフォールト強制収容所(de:Kamp Amersfoort)
- エリカ強制収容所(de:Kamp Erika)
- スクールル強制収容所(de:Kamp Schoor)
- フランス
- ナッツヴィレール=ストリュートフ強制収容所(KZ Natzweiler-Struthof)
参考文献
- マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』(筑摩書房)ISBN 978-4480857507
- オイゲン・コーゴン著『SS国家 ドイツ強制収容所のシステム』(ミネルヴァ書房)ISBN 4-623-03320-1
- 阿部良男著『ヒトラー全記録 20645日の軌跡』(柏書房)ISBN 978-4760120581
- 長谷川公昭著『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで』(草思社)ISBN 978-4794207401
- ハインツ・ヘーネ『SSの歴史 髑髏の結社』森亮一(訳)、フジ出版社、1981年、ISBN 4-89226-050-9
