バラク・オバマ
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| バラク・フセイン・オバマ・ジュニア Barack Hussein Obama, Jr. | |
| 任期: | 2009年1月20日 – |
|---|---|
| 副大統領: | ジョセフ・バイデン |
| 任期: | 2005年1月3日 – 2008年11月16日 |
| 任期: | 1997年1月3日 – 2004年1月3日 |
| 出生: | 1961年8月4日(48歳)[1] |
| 政党: | 民主党 |
| 配偶: | ミシェル・オバマ |
| サイン: | |
| ||||||||
バラク・フセイン・オバマ・ジュニア(英語: Barack Hussein Obama, Jr.[2]、1961年8月4日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第44代大統領。上院議員(1期)、イリノイ州上院議員(1期)を歴任する。所属政党は民主党。選挙によって選ばれたアメリカ史上3人目のアフリカ系の血を引く上院議員(イリノイ州選出、2005年 - 2008年)。2008年アメリカ大統領選挙で当選後、任期を約2年残して上院議員を辞任した。
アメリカの大統領としては初のアフリカ系(アフリカ系黒人とヨーロッパ系白人との混血=ムラート)、1960年代以降生まれ、ハワイ州出身者であり、2大政党の指名を受けた大統領候補としてもアフリカ系初となった。身長187cm。左利き。血液型AB型[3]。
現職アメリカ合衆国大統領として2009年度ノーベル平和賞を受賞した[4]。
目次 |
経歴
生い立ち
1961年8月4日に、ハワイ州ホノルルにある病院[1]で生まれる。実父のバラク・オバマ・シニア(Barack Obama, Sr.)(1936年 - 1982年)はケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村[5])のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身[6][7][8]の白人、アン・ダナム[9]である。父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった[10][11]。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚[12]、アンは妊娠しており、半年後にオバマ・ジュニアを出産する。
父オバマ・シニアはムスリム(イスラム教徒)であり、イスラム教の戒律(イスラム法)では「ムスリムの子は自動的にムスリムになる」とされており、イスラム法が適用される国では現在でも脱教は死刑とされているが、オバマ自身は現在プロテスタントのキリスト教徒[13]、キリスト合同教会[14][15]である。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている。 イスラム法の解釈の仕様によってはオバマ自身はイスラム教徒であるという意見もある。唯一なる神を信じていればそれだけでイスラム教徒の資格を有するという解釈もあるからである。オバマ氏はムスリムの子であり、プロテスタント教会で唯一なる神を信じ、また預言者ムハンマドとその教えを公然と否定もせず、既存のイスラム社会とも敵対せず、アラビア語の名前も名乗り続け、イスラム教徒が多数派の社会であるインドネシアで育っている。そのような状況からオバマ氏はイスラム教徒であると信じる人々は、一定数存在する。(なお父オバマ・シニア氏の出身民族ルオ族は、特にイスラム教徒の比率の高い民族ではない。)
またオバマは自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している[16]。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した[17]。
両親は1963年に別居し、1964年に離婚した[11]。父は1965年にケニアへ帰国し、政府のエコノミストとなる。ハワイ大学からハーバード大学を出て将来を嘱望されていた。異父妹が1人、異母兄弟が8人[18]いる(うち、4人死没)。1971年に息子と再会し、1982年に自動車事故が原因で亡くなった(46歳)[19]。
インドネシアへ
オバマ・シニアと離婚後に人類学者となった母は、その後ハワイ大学で知り合ったインドネシア人の留学生(のちに地質学者となったロロ・ソエトロ(Lolo Soetoro。1987年没)と再婚する。
1967年に、ソエトロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター(9月30日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した[20]。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った[21]。1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ソエトロが誕生する。
ハワイへの帰還
1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンリー・ダナム(1992年没)とマデリン・ダナム(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スク-ルであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた[22]。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻やコカインを使用したと自伝で告白している。
なお1972年に、母のアンがソエトロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のソエトロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年に卵巣癌で亡くなった[23]。以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて白人の母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。
大学時代
1979年に同高校を卒業後、カリフォルニア州ロサンゼルスの私立オクシデンタル単科大学に入学する[24]。2年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する[25]。
1983年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPOビジネスインターナショナル社(Business International Corporation)に1年間勤務[26][27]し、その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ(New York Public Interest Research Group)で働いた[28][29]。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者として務めた[28][30]。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援、大学予備校の教師の事業、オルトゲルトガーデン(en:Altgeld Gardens, Chicago)の設立と居住者の権限の確立に一役買った[31]。
1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長[32]に、2年目にはプレジデント・オブ・ジャーナルの編集長に選ばれた[33]。
1991年、法務博士(Juris Doctor。日本の法務博士(専門職)に相当)の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了[34]しシカゴ大学の法学フェローとなる。
弁護士時代
ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。1992年に、シカゴの弁護士事務所で知り合ったミシェル・ロビンソンと結婚し、1998年にマリア、2001年にサーシャの2人の娘をもうけた。
1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』 出版社: ダイヤモンド社 ISBN 978-4-478-00362-6)」を出版する。またシカゴ大学ロースクール講師として合衆国憲法を1992年から2004年まで講じていた。
イリノイ州議会議員
人権派弁護士として頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して1996年にイリノイ州議会上院の議員に選出され2004年1月まで務めた。なお、2000年には連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。
合衆国上院議員
2003年1月にアメリカ合衆国上院議員選挙に民主党から出馬を正式表明し、2004年3月に7人が出馬した予備選挙を得票率53%で勝ち抜き同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、2004年11月には、共和党候補を得票率70%対27%の大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上5人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上3人目)であり[35]、この時点で現職アフリカ系上院議員はオバマ以外にいなかった。
2004年のアメリカ大統領選挙では、上院議員のジョン・ケリーを大統領候補として選出した2004年民主党党大会(マサチューセッツ州ボストン)の2日目(7月27日)に基調演説[36][37]を行った。ケニア人の父そしてカンザス州出身の母がハワイで出会い自分が生まれたこと、次いで「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と述べた。そして「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」と語り、その模様が広く全米に中継される[38][39]。長年の人種によるコミュニティの分断に加え、2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人によりこの演説は高い評価を受けた。
なお、ケリーのスタッフがオバマを基調演説者に抜擢したのは、オバマがアフリカ系議員であることからマイノリティーの有権者を惹き付けられるであろうこと、若くエネルギッシュで雄弁であること、また当時イリノイ州議会上院議員であったオバマが、同年の大統領選と同時に行われる上院議員選挙における民主党候補(イリノイ州選出)となることが決まっており、党大会の基調演説者としてアピールすることができれば上院議員選挙にも有利に働くであろうと民主党が期待したこと、などの理由からだった[40][41]。2006年には、連邦支出金透明化法案の提出者の1人となっている。
2006年を通して、オバマは外交関係、環境・公共事業、退役軍人の問題に関する上院の委員会に課題を提出した。また2007年1月に、彼は、環境・公共事業委員会を出て、健康、教育、労働、年金、国土安全保障、および政府問題委員会に伴う追加課題を扱った。 また、彼はヨーロッパ問題に関する上院の小委員会の委員長になった。
2008年11月4日に行われたアメリカ大統領選挙で勝利したオバマは、次期大統領として政権移行に向けた準備に専念するため、同月16日、上院議員(イリノイ州選出)を辞任した[42]。後任は、州法の規定によりブラゴジェビッチ・イリノイ州知事(民主党)の指名を受けたローランド・バリスW:Roland Burrisが就任した。
大統領候補
大統領予備選
立候補
2004年以降、2008年アメリカ合衆国大統領選挙の候補として推す声が地元イリノイ州の上院議員や新聞などを中心に高まっていった。本人は当初出馬を否定していたが、2006年10月にNBCテレビのインタビューに「出馬を検討する」と発言した。翌2007年1月に、連邦選挙委員会に大統領選出馬へ向けた準備委員会設立届を提出、事実上の出馬表明となった。そして2007年2月10日に、地元であるイリノイ州の州都のスプリングフィールドにて正式な立候補宣言を行った。
出馬の演説でオバマは「ここ6年間の政府決定や放置されてきた諸問題は、われわれの国を不安定な状態にしている」と述べ医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度を取り組みが必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた。グローバル資本主義には懐疑的であり、アメリカ国内にブルーカラーを中心に大量の失業者を生んだとされ、新自由主義経済政策の象徴である北米自由貿易協定(NAFTA)に反対し、国内労働者の保護を訴えるなど、主な対立候補となったヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢とされた。
予備選前半
当初は知名度と資金力に勝る、元ファースト・レディのヒラリー・クリントンの優勢が予想されたものの、大統領予備選の第1弾が行われるアイオワ州の地元紙(電子版)により、予備選直前の2007年12月に行われた世論調査では、オバマの支持率がヒラリーを上回りトップであった。2008年1月3日に行われたアイオワ州党員集会では、保守傾向にある下位の他候補の支持者や20代の若者など幅広い層からの支持を集めて、ヒラリー、ジョン・エドワーズ、ジョセフ・バイデンを初めとするほかの候補者を10ポイント近い大差で破り、オバマが勝利した。
同年1月8日に行われたニューハンプシャー州予備選ではヒラリーに僅差で敗北。しかし本人は「私はまだまだやりますよ」と今後の選挙戦勝利に意欲をのぞかせた。同月26日に行われたサウスカロライナ州予備選で、アフリカ系や若い白人及びヒスパニック層などから圧倒的な支持を受けてヒラリーに圧勝した。CNNでは投票締め切りと同時に「オバマ勝利」と報じるほど他候補を圧倒した。なおこの頃よりエドワーズやバイデンなど他の候補が次々と予備選からの撤退を表明し、事実上ヒラリーとの一騎打ちとなっていく。
ジェレマイア・ライト
選挙の盛り上がりとともに、かつて家族とともに20年間に亘って所属したトリニティー・ユナイテッド教会に関して、長き時を私淑したことで多大な影響を受けていると言われている牧師のジェレマイア・ライトについての論争がしばしば活況を呈した。その過程でライトの人種差別的かつ反政府的な様々な説教の内容が取り上げられている。[43]
予備選最中の2008年3月には、オバマとトリニティー・ユナイテッド教会、そしてライトとの決裂が伝えられた。上記のような過激な発言がABCニュースに報道されたのが原因とされている[44][45]。報道直後、オバマはシカゴのアフリカ系アメリカ人社会に対する貢献を挙げてライトを弁護しようとしたが、その後も人種差別的な発言を続けたことを理由にライトと絶縁した[46][47]。その一環として「もっと完璧な連邦(A More Perfect Union)」と題するオバマの演説が人種問題に言及した[48][49][50][51]。
5月25日には、トリニティー・ユナイテッド教会に招かれた神父のマイケル・フレガー[52]が説教中にヒラリーを(アフリカ系アメリカ人に対する)人種差別主義者とみなし、クリントンの泣真似をして喝采を浴びる件があった[53]。オバマはこの件について失望の意を表し、31日に「私は教会を非難しないし、教会を非難させたがる人々にも関心が無い」が、「選挙運動によって教会が関心に晒され過ぎている」として、教会から脱退する[54]。
「スーパー・チューズデー」
なお、ヒラリーとの一騎打ち状態になったことで、その後選挙戦から撤退したエドワーズやバイデンがオバマ支持に回った他、ジョン・F・ケネディ元大統領の娘で、民主党内に一定の影響力を持つとされるキャロラインがニューヨーク・タイムズ紙でオバマに対する支持を表明した。
だが、2月5日に22州で行われた「スーパー・チューズデー」ではオバマが13州を抑えたものの、ヒラリーが大票田のカリフォルニア州や地元のニューヨーク州を抑えるなど、ヒラリーとの決定的差はなかった。しかし、スーパー・チューズデー後はミシシッピ州やワイオミング州、ケンタッキー州とオレゴン州を抑えるなど予備選で9連勝し、一気に指名争いをリードした。
クリントン陣営の混乱と「失言」
これに対してヒラリー陣営は、2月10日にパティ・ソリス・ドイル選対主任が「選挙戦の長期化」を理由に辞任した(実際は選対内の意見対立が原因とも言われている)ほか、ヒラリー本人が、2月23日にオハイオ州シンシナティで行われた集会で、オバマ陣営が配布した冊子の中でヒラリーが進める国民皆保険計画について「国民に強制的に保険を購入させる内容である」と記載していたことに対して「恥を知れ、バラク・オバマ」と、オバマを呼び捨てで非難した。これに対して多くのマスコミや民主党内からは「理性を失っている」との批判が沸き起こった[55]。
なお、ヒラリーはこのような失点があったにもかかわらず、3月4日には大票田のテキサス州とオハイオ州で勝利をおさめたが、各種調査の結果、「選挙戦において完全に劣勢に立たされた」との評価を受けることが多くなった。この様な状況を受けてヒラリーと、夫で元大統領のビル・クリントンが、「クリントン大統領、オバマ副大統領」の政権構想を民主党内やマスコミに対して一方的に喧伝し始めた。これに対してオバマは「なぜより多くの支持を得ている私が副大統領にならなければいけないのか理解できない」と拒否した。
その後もオバマの優位は揺らぐことはなく、5月には特別代議員数でもヒラリーを逆転した。完全に劣勢に立たされたヒラリーは同月に「(敗北が確実視されているのに)選挙戦を継続する理由」として、かつて大統領候補指名を目指したものの、予備選最中の1968年6月に遊説先のカリフォルニア州ロサンゼルスで暗殺されたロバート・ケネディ元司法長官の例を挙げた。これは「オバマが予備選中に暗殺されること(そしてその結果自分に勝利が転がり込んでくること)を期待している」と受け取られ大きな批判を浴び、その後ヒラリーはケネディの遺族とオバマに対して謝罪した。
但しこの予備選の最中、ノーベル文学賞の英女性作家ドリス・レッシングがキング牧師暗殺事件の例を引き合いに「オバマは暗殺される可能性がある」と発言するなど、米世論でも黒人候補であるオバマが暗殺の危機に晒されていると見られていた事は事実ではある。
いずれにせよヒラリーは謝罪こそ行ったものの、この致命的ともいえる「失言」により、ヒラリーに対する信頼の失墜と劣勢は決定的なものとなった。
予備選勝利
同年6月3日に大統領予備選の全日程が終了し、全代議員数の過半数(2118人)を超える2151人の指名獲得を集めたオバマはヒラリーをくだし、民主党の大統領候補指名を確定させた。なお、予備選の最中に、2006年に次いでグラミー賞朗読部門賞を受賞している。
一般投票に向けて
オバマは2008年民主党党大会3日目の同年8月27日、民主党大統領候補の指名を正式に獲得し、副大統領候補に上院外交委員長を務め、予備選で戦ったもののその後オバマへの支持を表明した上院議員のジョセフ・バイデンを指名した。
オバマは民主党党大会最終日の8月28日に、コロラド州デンバーのアメリカンフットボール競技場「インベスコ・フィールド」において、84,000人を前に指名受諾演説を行った。オバマは「次の4年を(ブッシュ政権下の)過去8年と同じにしてはならない」、「未来に向けて行進しよう」と民主党内の結束を呼びかけた。外交問題については「粘り強い直接外交を復活させる」とし、「明確な使命がない限り、戦地に軍を派遣することはない」と表明した。ジョージ・W・ブッシュ政権下で行われたイラク戦争については、「責任を持って終結させる」とした。
オバマは共和党大統領候補として対決するジョン・マケインを、「ブッシュ大統領を90%支持してきた。残り10%に期待するわけにはいかない」と批判した。またオバマは、1963年のちょうどこの日にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、ワシントン大行進においてアメリカにおける人種差別撤廃への夢について語った演説「I Have a Dream」を踏まえ、「われわれの夢は1つになることができる」と述べた。
同年10月29日のプライムタイムには、全米4大TVネットワークのうちの3つ(CBS、NBC、FOX)およびユニビジョン(ヒスパニック向けのスペイン語ネットワーク)などで30分のテレビCM を全米に放映した。
一般投票勝利、当選
2008年11月4日に全米で行われたアメリカ合衆国大統領選挙(大統領選挙人選出選挙)においてオバマは、地元のイリノイ州や、伝統的に民主党地盤である大票田のニューヨーク州(クリントン元候補の地元)やカリフォルニア州、ペンシルベニア州に加え、過去2回の大統領選で大激戦となったフロリダ州とオハイオ州、さらには長く共和党の牙城とされてきたバージニア州とノースカロライナ州、インディアナ州でも勝利した。
また近年ヒスパニック系住民の増加が顕著な南西部のうちマケインの地元であるアリゾナ州以外の3州(コロラド州、ニューメキシコ州、ネバダ州)でも勝利を積み上げ、選挙人合計365人を獲得[56]してマケイン(173人)を破り、第44代アメリカ合衆国大統領に確定した。一般投票の得票率は52.5%(マケイン46.2%) だった。獲得選挙人数はクリントン(1992年370人、1996年379人)には及ばなかったものの、得票率が50%を越えたのは民主党候補では1976年のジミー・カーター以来だった。
現地時間11月4日午後10時頃、オバマの地元のシカゴ市内中心部のグラント・パークで、約24万人の聴衆が見守る中[57][58]、公園内に備え付けられたスクリーンに「オバマ、大統領に当選」というテロップが流れると、会場は熱気と興奮に包まれる。約1時間後、家族とともに登壇したオバマは、歓声と拍手にどよめく会場で「アメリカに変革が訪れた」と勝利演説を行なった[59][60][61][62][63]。会場の一般観客席では、1984年と1988年の民主党予備選に出馬しアフリカ系アメリカ人初の2大政党大統領予備選有力候補となったジェシー・ジャクソンが感涙にむせぶ姿も映された[64]。
勝利後の11月7日に、大統領就任後の最重点課題として、サブプライム問題が表面化した後の金融危機による信用収縮や、国内の雇用情勢の悪化を阻止するため「必要な全ての手段を取る」と表明し、アメリカ国内における信用収縮の緩和と勤労世帯の支援、経済成長の回復などの経済対策に注力すると表明した。
12月15日に各州とワシントンDCにおいて選挙人による投票が行われ、明けて2009年1月8日の合衆国議会両院合同会議にて、オバマが選挙人票の過半数の365票を得たことが認証され、正式に大統領に選出される。選挙人票が黒人に投じられた例もこれが初めてである。
当選後
なお、オバマの勝利後、アメリカ国内で銃器の売り上げが一時急増したという。これはオバマや副大統領候補のバイデンが銃規制に前向きであると見られていたからであり、オバマ政権発足後の銃規制強化を懸念した人々からの注文が増加しており、ライフルや自動小銃の売り上げが伸びているという[65]。
オバマの後任の上院議員選出を巡り、イリノイ州知事ロッド・ブラゴジェビッチが候補者に金銭を要求したとの容疑がかけられ、2008年12月9日に連邦捜査局により逮捕され[66]、翌年1月29日にイリノイ州上院の弾劾裁判にて罷免された[67]。
アメリカ合衆国大統領
1期目
大統領就任式
2009年1月20日正午(ワシントンD.C.時間)、アメリカ合衆国大統領就任式における宣誓を以てオバマは第44代大統領に正式に就任。オバマは建国以来初めてのアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領、ハワイ州生まれの初の大統領、初の1960年代生まれの、また、建国以来5番目に若くして就任した大統領[68]となる。
オバマは大統領就任宣誓を予てからの予告通り、エイブラハム・リンカーン第16代大統領が1861年の1期目の就任式で使用した聖書に左手を置いて行なったが、その際にアメリカ合衆国連邦最高裁判所長官のジョン・ロバーツが宣誓文を読み間違えたことを受け(20日の宣誓は法的には有効)、2009年1月21日、ホワイトハウス内にて宣誓をやり直した[69]。
なお、オバマの大統領就任式を見るために、ワシントンD.C.には全米からおよそ200万人を超える観衆が集まったと言われており、これは史上最高の人数であると報じられた。
詳細は「バラク・オバマ大統領就任式」を参照
混乱する人事
- 指名された高官らの不祥事
- 政権発足後、オバマが指名したスタッフらによる不祥事の発覚が相次いだ。財務長官候補のティモシー・フランツ・ガイトナー、保健福祉長官候補のトム・ダシュル、行政監督官候補のナンシー・キルファーに納税漏れが発覚し、加えて支持者からダシュルへのリムジン提供が明るみとなり、上院での指名承認が大幅に遅れる事態となった[70]。この事態を受け、ダシュルとキルファーは指名を相次いで辞退した[70]。批判を浴びたオバマは、ダシュル指名を「大失敗」[70]だったと認めて謝罪した。
- また、商務長官候補に至っては、指名者が次々に辞退する異例の事態となった。最初に指名されたビル・リチャードソンは、自身に献金していた企業が捜査対象となったため、連邦議会での承認手続きの前に指名を辞退した[71]。続いて指名されたジャド・アラン・グレッグは、オバマとの政策的な対立が解消せず、同じく指名を辞退した[72]。
- また、国家経済会議議長のローレンス・サマーズが、D・E・ショウから顧問料として年間520万ドル超の収入を得ており、さらにリーマン・ブラザーズやシティグループから講演料との名目で年間約277万ドルを受領していたことが、ホワイトハウスによる資産公開にて明らかにされた[73]。
- 論功行賞に基づく大使人事
- 大統領選挙中、オバマはブッシュ・ジュニア政権の外交官(特命全権大使)人事に対して「政治利用しすぎる」[74]と強く批判しており、自らが政権を獲った際には「実力を優先する」[74]と断言していた。しかし、実際に大統領の地位に就くと、オバマは前言を翻し縁故や論功に基づく人事を繰り返した。
- 特命全権大使に指名された者のうち、職業外交官以外が占める割合は、ブッシュ・ジュニア政権では3割程度に過ぎなかったのに対し、オバマ政権では6割を占めている[74]。かつて情実人事で批判を受けたケネディ政権ですら3割に留まっており、過去の歴代政権と比較してその割合は突出している[74]。
- さらに、主要国に駐在する大使には、オバマに対し多額の献金を行った支援者らが次々に指名されている[74]。具体例として、駐日本大使のジョン・ルース、駐フランス大使のチャールズ・リブキン、駐イギリス大使のルイス・サスマンらは、いずれもオバマに対し多額の献金を行っていたことが知られており、外交経験がほとんどないにもかかわらず指名された[74]。市民オンブズマン団体「公共市民」の代表者らは「大口献金者を優先する大使人事は相手側諸国への侮辱」[74]に値する行為であると指摘するなど、オバマの論功行賞的な外交官人事は厳しく批判された。
他国との外交
旧来の外交儀礼とは異なる対応を取ることがあり、時に諸外国との間に軋轢を生む事態となっている。
- イギリス
- 2009年3月、同盟国・イギリスからゴードン・ブラウン首相が訪問した。しかし、イギリスのマスコミは首脳会談の時間が短いと指摘するなど、オバマ側の応対に懐疑的な論調が強まっていた[75]。首脳会談に際し、ブラウンは、イギリス海軍の帆船の廃材を加工したペンホルダーをオバマに贈呈した[76]。その帆船は奴隷貿易撲滅活動に参加した経歴を持ち、姉妹船の廃材はホワイトハウスの大統領執務室の机にも使われていることから[76]、考え抜かれた贈答品であると評価されていた[75]。ところが、オバマからの返礼の品は『スター・ウォーズ』など25枚のDVDであり[75]、しかもイギリス国内では再生不可の規格「リージョン1」であった。
- 同様に、首相の妻であるサラ・ブラウンは、オバマの娘たちのためにトップショップのドレス、ネックレス、イギリス人作家の本を贈ったが、ミシェルからの返礼の品はブラウンの男児のためのマリーンワンのおもちゃ2つであった[75]。さらに、ホワイトハウスによりサラとミシェルの会談の写真が公表されたが、公開された写真は1枚のみでサラの後頭部しか写っていなかった[77]。これらの応対の様子が公になると、『デイリー・メール』が「無作法な対応」[75]だと指摘し、『タイムズ』に至っては「これほどサラ夫人を見下し、うぬぼれた意思表示はない」[75]と厳しく指摘するなど、火に油を注ぐ結果となった。
- 2009年4月、オバマ夫妻はバッキンガム宮殿を訪問したが、その際も、ミシェルはイギリス女王エリザベス2世の背中に手を回し身体に触れるなど、外交儀礼を無視した行動をとった[78]。
- 日本
- 日米安全保障条約を結ぶなどアメリカと関係の深い日本との間でも、同様の事態が起きている。
- 2009年2月、日本から麻生太郎内閣総理大臣(当時)がアメリカを訪問、オバマにとってはホワイトハウスで開催される初の外国首脳との会談となった。オバマとの首脳会談に際し、麻生ら日本側は外務省を通じて共同記者会見の開催を懇願したが、ホワイトハウスが拒否したため、共同記者会見は開催できなかった[79]。日米首脳会談後に共同記者会見が開催されないのは極めて異例である。この麻生の訪米の以前に、アメリカはヒラリーを日本に派遣しているが、日本側は皇后とのお茶会を用意するなど、ヒラリーを閣僚クラスとしては破格のもてなしをしている(ヒラリー側の強い希望によるもので、宮内庁は外交儀礼上、現職閣僚ではなく元大統領夫人として招待)。そのため両国の対応の違いを比較して「アメリカは麻生政権を重視していないことの表れではないか」(江田けんじ)という解釈もなされた。
- 2009年11月にシンガポールで開催されるAPEC首脳会議に出席する途中の13日に来日(翌14日まで滞在)。本来12日に来日予定であった「テキサス州の陸軍基地で起きた銃乱射事件の追悼式に出席するため」として13日に変更した。13日から14日にわたる日本滞在では鳩山由紀夫首相主催の晩餐会と鳩山首相との首脳会談で「日米安保」について会談した。この会談でオバマは、鳩山が敬愛する第35代大統領ジョン・F・ケネディの著作『勇気ある人々』の初版本を持参しプレゼントしている[80]。会談後の共同記者会見で、オバマは、日本人記者からの、原爆投下の歴史的意義とその選択は正しかったと考えるのかという質問の英訳に対して、被爆地を訪問できれば光栄だと答えてから、「次の質問は何でしたか?」と言い、記者が英語で「原爆投下の歴史的意義…」と言いかけると、「No,there were three sets of questions,right? You asked about North Korea?」と発言をさえぎって、質問の一部に対する回答は無かった[81]。また、サントリーホールで特別に招待された小浜市長を含む日本国民を前に演説[82]。さらに皇居御所(スケジュールの都合で宮殿ではなく天皇の自宅にあたる御所となった)で天皇・皇后と昼食会など準国賓なみの待遇をうけた。このとき天皇と握手した際に最敬礼に近い角度で深々とお辞儀をしたが、米国内では「大統領が他国の君主に対して頭を下げるのは不適切」との議論が起こり話題になった[83]。
- メキシコ
- メキシコはアメリカ合衆国と国境を接する国の一つであり、大統領就任前後に首脳会談を行うことが半ば慣例となっているなど、両国の関係は深い。しかし、麻薬を巡る非難の応酬によりメキシコ首脳部が激怒する事態を招いた。
- 2009年1月12日、オバマとメキシコ大統領フェリペ・カルデロンとの非公式会談が行われたが、その直後、国防総省幹部が「メキシコは、いつ崩壊してもおかしくない国」[84]と名指しで批判したことが明らかになった。オバマ政権発足後も国務省が公文書中で「メキシコは、失敗国家」[84]と名指しで批判したことが発覚するなど、麻薬の蔓延が深刻化するメキシコへの批判が繰り返されたが、その中で、世界最大の麻薬消費国であるアメリカについての自己批判や、アメリカの麻薬犯罪組織摘発の失敗などについては言及されなかった。
- 一方、カルデロンは麻薬撲滅を最重要政策の一つとして掲げており[85][86]、捜査当局に摘発の強化を厳命した結果、およそ1年2ヶ月で捜査員や麻薬組織関係者ら約7300人の死者を出すほどの厳正な捜査が進められていた[84]。ところが、その捜査によりアメリカ側の公務員が事件に関与していた疑いが強まり、アメリカの警察関係者800名近くが摘発されていた[84]。このような経緯があるにもかかわらず一方的な非難が繰り返されたため、穏健な親米派と目されていたカルデロンが「麻薬撲滅の障害は、アメリカの“汚職”だ。ギャングと癒着している自国の政府関係者もいるが、米国はもっと酷い。何人、逮捕されていると思っているのか」[84]と激怒する事態となった。さらに、カルデロンは「麻薬問題が解決しないのは、米国が最大の消費国だからだ」[84]とも指摘している。
- 同年4月16日の首脳会談では、アメリカ合衆国国内の麻薬に対する需要がメキシコを混乱させた一因であることをオバマが自ら認め、メキシコとの関係改善を図っている[87]。また、アメリカ合衆国からメキシコへの銃火器の流入が麻薬組織と警察や軍との抗争を激化させている点も認めたが[87]、流入防止のための銃規制強化については実施する考えがないことを明らかにした[88]。
- 中華人民共和国
- オバマは中国に関係が深く、異父妹の夫が中国系カナダ人であり、また異母弟にも中国人妻と結婚している者もいる。また閣僚に中国系を指名しており、中華人民共和国との関係を深めようとする「親中派」であると言われる。米中戦略経済対話の冒頭演説で、中国の思想家、孟子の教えを引用し、米中両国の相互理解を促した[89]。米中が緊密な協力関係を結ぶ新時代の幕開けへ向け、気候変動や自由貿易、イラン問題など多くの課題で協力していくことで合意した。
- しかしオバマは友好的なベネズエラのチャベスと同じ親中派であるために、対中関係を良好化する反面、中華人民共和国の過酷な人権弾圧などを全くと言っていいほど批判しない傾向があり、人権問題で対立するブッシュ前大統領とは対照的である[90]。例えば2009年の米中首脳の会談でチベットや新疆ウイグルの独立問題や、中華人民共和国と中華民国の間における、いわゆる「台湾問題」では、中華人民共和国の立場を尊重し、[91]それに対し中華人民共和国の胡主席は「アメリカ側の理解と支持を希望する」と述べた。他にオバマはダライ・ラマ14世の訪米での会談を見送っており、人権派議員らに「北京への叩頭外交だ」と批判され、米紙ウォールストリート・ジャーナルの社説では、「独裁者との接触に応じ独裁と戦うダライ・ラマと会談しない不自然さ」を指摘した[92]。
- これには中華人民共和国が世界最大の米国債保有国になっている影響から、急速な発展を続ける中華人民共和国が超大国となればアメリカの経済を支える最も重要な存在となると予想しており、それを配慮したと思われるという意見がある。
- ただし、2010年に入ると台湾へ総額64億ドル(約5800億円)に上る大規模な武器売却を決定するなど台湾への肩入れを強めている[93]。
- また、2010年2月18日にオバマは訪米したダライ・ラマ14世と会談し、ダライ・ラマが進める非暴力と対話路線によるチベット問題解決の努力を高く評価し、チベットの宗教・文化・言語の独自性の維持と人権擁護を強く支持する意向を示した。中国政府と中国共産党は会談以前から猛烈な抗議と非難[94]を行ったが、アメリカ政府は中国の抗議に取り合わない姿勢を表明していた。その後も中国政府は、オバマとダライ・ラマの会談に対して最大限の非難を繰り返した。
他国への軍事行動
大統領就任直後の2009年1月23日、オバマはパキスタンに対するミサイル攻撃を指示し、攻撃の結果、民間人15人が死亡した[95]。その後もパキスタンに対する越境攻撃を繰り返し行ったため、現地では多数の死傷者が出るなど被害が拡大している[96]。上院の審議にて、国防長官ロバート・ゲーツは政府高官として初めて越境攻撃の事実を認めたが、今後も攻撃を継続すると証言した[96]。
大統領選挙期間中、オバマは「大統領就任後16ヶ月以内にアメリカ軍のイラクからの完全撤退」を公約として掲げてきたが、就任後にこの公約を修正・撤回した。2009年2月27日、オバマはノースカロライナ州で演説し、2010年8月末までにイラク駐留戦闘部隊を撤退させ、その後は最大5万人の駐留部隊をイラクに残すという新戦略を発表した[97]。これは、完全撤退に対する反対意見が根強い共和党や軍上層部からの意見に配慮したものと見られる。
2009年ノーベル平和賞受賞
2009年10月9日にノルウェーのノーベル賞委員会はオバマの「核なき世界」に向けた国際社会への働きかけを評価して2009年度のノーベル平和賞を彼に受賞することを決定したと発表した。ノーベル賞委員会はオバマの受賞に関して冷戦終結を促した政治活動をしたヴィリー・ブラント、ミハイル・ゴルバチョフと比較してオバマは受賞するに値する活動をしたと判断したと述べている。就任してから1年も経っていない首脳の受賞は極めて異例である。ノーベル平和賞受賞者には賞金1000万スウェーデン・クローナが授与されるが、オバマは全額を複数の慈善団体に寄付することを表明した。
現職アメリカ合衆国大統領にノーベル平和賞が授けられるのは、1906年に第26代アメリカ合衆国大統領に在任していたセオドア・ルーズベルト、1919年に第28代アメリカ合衆国大統領に就任していたウッドロー・ウィルソンに続いて3人目である。またアメリカ合衆国大統領経験者の受賞は2002年のジミー・カーター以来である。
T・ルーズベルトは日露戦争の講和、ウィルソンは第一次世界大戦の講和における努力の成果を評価されての受賞であったが、オバマは未だはっきりした成果をあげておらず、受賞に関して「時期尚早」との意見が強く世論は内外で賛否が分かれた。日本の鳩山首相や秋葉広島市長は受賞を評価した。一方、ロシアは奇異と評し、アフガニスタンではターリバーンが「2万人以上の増派を行い、戦火を拡大させたオバマが平和賞を受賞するのは馬鹿げている」と批判した[98]。イスラエルは自国への支援の削減を危惧した。
オバマ支持層の民主党系やリベラル派からも批判や当惑が噴出している。リベラル派の女性コラムニスト、ルース・マーカス記者は「この授章はバカげている、オバマはまだなにも達成していない」と書き、民主党系外交コラムニスト、ジム・ホーグランド氏もオバマが中国の機嫌を損ねないようにダライ・ラマ14世との会談を避けたことも、平和賞にそぐわないと批判し、トーマス・フリードマン記者は「ノーベル賞委員会は早まって平和賞を与えることでオバマ大統領に害を及ぼした」と書き、「世界で最も重要な賞が、このように価値を落とすことには落胆した」と述べた[99]。
政策
政権スタッフ
2009年1月5日に、表にあるような各長官の任命を行った。
そして、同年1月21日に前日のオバマの大統領就任を受けて正式な政権として発足した[100]。この人事は国務長官に大統領選を戦ったヒラリーを起用するなど、オバマのと対立的立場の人材を起用したことから、オバマの敬愛するリンカーンの政権人事「W:Team of Rivals: The Political Genius of Abraham Lincoln」に似ていると評されている[101]。
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| 大統領 | バラク・オバマ | 2009 - |
| 副大統領 | ジョー・バイデン | 2009 - |
| 大統領顧問団 | ||
| 国務長官 | ヒラリー・クリントン[102] | 2009 - |
| 国防長官 | ロバート・ゲイツ[103] | 2009 - |
| 財務長官 | ティモシー・フランツ・ガイトナー[104][105] | 2009 - |
| 司法長官 | エリック・ハンプトン・ホルダー[106] | 2009 - |
| 内務長官 | ケネス・リー・サラザール[107] | 2009 - |
| 農務長官 | トマス・ジェイムズ・ヴィルサック[108] | 2009 - |
| 商務長官 | ゲイリー・フェイ・ロック[109] | 2009 - |
| 労働長官 | ヒルダ・ソリス[110] | 2009 - |
| 保健福祉長官 | キャスリーン・セベリウス | 2009 - |
| 住宅都市開発長官 | ショーン・ドノヴァン[111] | 2009 - |
| 運輸長官 | レイモンド・ラフッド[112] | 2009 - |
| エネルギー長官 | スティーヴン・チュー[113] | 2009 - |
| 教育長官 | アーン・ダンカン[114] | 2009 - |
| 退役軍人長官 | エリック・シンセキ[115] | 2009 - |
| 国土安全保障長官 | ジャネット・ナポリターノ[116] | 2009 - |
環境政策
気候変動に関する協議に積極的に参加すると述べ、主要企業に二酸化炭素排出量の上限(排出枠)を設定する「キャップ・アンド・トレード」方式の排出量取引を開始し2020年までに温室効果ガスの排出量を大幅に削減する意向をカリフォルニア州の地球温暖化関連の会合に寄せたビデオ演説で表明した。
安全保障
イランや北朝鮮など、ブッシュ政権以降の敵対する国家に対する強硬政策を転換し、対話路線を重視している。第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの湾岸戦争を評価しており、アメリカ主導の国際協調を理想としている。しかし、保守派からはこの路線が「弱腰」と叩かれたかつてのジミー・カーター大統領の姿勢と似通っていると批判されている。[117]
イラク戦争には一貫して反対しており、開戦直前の2003年3月16日にブッシュ大統領がサダム・フセインに対して48時間以内のイラク撤退を求める最後通牒を出した際、シカゴでの反戦集会で聴衆に対して「まだ遅くない」と開戦反対を訴えた。就任後は段階的な撤退を目指すとしている。
「イラクに拘ればアフガンで泥沼にはまる」と述べ、治安が悪化しているアフガニスタンやパキスタンのアメリカ軍の増強を検討。州兵に頼らない10万人の正規兵を増派するとしている。
核兵器政策
「国際的な核兵器禁止を目指す」とも発言しており、ロシアと協力し双方の弾道ミサイルを一触即発の状況から撤去し、兵器製造に転用可能な核分裂性物質の生産を世界的に禁止、更に米ロ間の中距離弾道ミサイル禁止を国際的に拡大することを目指すとしている。
それに関連して2009年4月5日にチェコの首都プラハで行った演説で「アメリカは核兵器を使用した唯一の核保有国として、行動を起こす道義的責任を有する(As the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act.)。」と1945年の広島市、長崎市への原爆投下にたいするアメリカの責任に言及した[118]。
これを受け2009年8月6日の広島市平和記念式典において秋葉忠利広島市長は平和宣言の中で「オバマジョリティ (Obamajority)」という造語でこれに言及し、「Together, we can abolish nuclear weapons. Yes, we can.(我らはともに核を廃絶できる。できるとも)」と初めての英語での演説でオバマの決め台詞を使用し核廃絶を訴えた。
先住民政策
オバマは先住民に対する政策に熱心であり、先住民の生活改善に30億ドルの財政支援を行う方針をした。大統領候補時代にクロウ族の居住地に訪問し、オバマの演説は先住民をもひきつけ、大統領就任式では先住民もパレードの参加した。2009年8月の「自由勲章」を90歳代のクロウ族のジョセフ・メディシン・クロウ氏も受賞した。
またオバマはチェロキー族の女性をホワイトハウス上級顧問に任命した[119]。ちなみにオバマの母のアン・ダナムはイングランド、アイルランド、そして先住民のチェロキー族の祖先を持つため、オバマはアフリカ、ヨーロッパ、新大陸のルーツを持っているのである。
オバマによる任命
オバマはアジア系、アフリカ系、ヒスパニック系、そして先住民を重要ポストに就任させる政策をとっており、今まで以上に様々な人種で構成されるようになった。日系では退役軍人長官をエリック・シンセキに任命し、中国系では商務長官をゲイリー・ロック、エネルギー長官をスティーブン・チューに任命した。アフリカ系では司法長官をエリック・ホルダー、アメリカ合衆国通商代表部にロナルド・カークに任命、インド系のアニーシュ・チョプラを米政府初の最高技術責任者に指名、ヒスパニック系のソニア・ソトマイヨールを初のニューヨーク連邦高裁判事に指名した。
人物
名前
オバマは母親とは別姓であり、名前の「バラク」とは「神に祝福されし者」を意味するスワヒリ語であり(さらに遡れば、アラビア語)、姓の「オバマ」はケニアに住んでいるルオ族に見られる姓である。過去のアメリカ大統領はイングランドやドイツ、アイルランド、オランダなど、ヨーロッパにそのルーツを持つ姓や名を持つ者のみであり、アフリカにルーツを持つ姓や名、そしてイスラムにルーツを持つミドルネームを持つ者がアメリカ大統領になる事は史上初の事である。奴隷時代の影響でヨーロッパ系の姓と名前であるアフリカ系アメリカ人のミシェル夫人は初めてその名を耳にしたとき「バラク・オバマ?変な名前だわ」「少し変わり者で、オタクっぽい人に違いない」と思ったという[120]。
なお、姓を「オサマ」と呼び間違えられることがある。過去にCNNや上院議員のテッド・ケネディ、2007年10月にはマサチューセッツ州知事(当時)のミット・ロムニーがアメリカ同時多発テロの首謀者のオサマ・ビンラディンを説明中にうっかり言いまちがえている[121]。
また選挙戦中には、保守系トークラジオの一部発言者などが、イラクの元大統領であるサダム・フセインを連想させる意図でミドルネームの「フセイン」を強調する向きがあった。日本国内でも、古森義久が「フセイン」を付けて呼び、反発するオバマ陣営を「オバマ氏のミドルネームは触れてはならない聖域、あるいは禁忌となっている」と批判した[122]。
しかし、古森は共和党のマケインを呼ぶ時はミドルネームの「シドニー(Sidney)」を付けておらず、その意図は明らかだった[122][123]
これに対して、2008年6月頃から主に若者のオバマ支持者の間でメールアドレス、Facebookなど一部のSNSや会員制サイトのハンドルネーム、また買い物の会員カードなどその他名前を登録するあらゆる機会においてミドルネームに「フセイン」と入れる、いわゆる「フセイニアック現象」が起こり、選挙前にはその盛り上がりがピークを見せた。元々イスラム教に由来するこの名前は、イスラム教徒に限らずあらゆる人種や家系や宗教の若者の間でオバマへの支持を表明する手段となった[124]。
演説
かつては知名度で元大統領夫人であるヒラリー・クリントンに差をつけられていたが、演説の巧さと人を惹きつけるカリスマ的魅力があり、遊説を続けるごとに支持者を獲得した。
政策は具体性に欠け抽象的・理念的な話が多いという評価がある一方、演説の説得力はジョン・F・ケネディの再来とも形容される。演説の巧みさには定評があり"we"(我々)、"you"(あなた)を多用した短いフレーズを重ねていく手法を採用している。とりわけ「Change」(変革)と「Yes, we can.」(私たちはできる、やればできる)の2つのフレーズは、選挙戦でのキャッチコピーとして多用された。
演説用原稿のライティングは1980年代生まれの若手のライターであるジョン・ファヴローが抜擢された。彼はこれまで数々の「名演説」を書いてきた。彼はかつてジョン・ケリー陣営で修行を積んでいたこともある[125]。
懸念材料
1964年のジョンソン政権時に成立した公民権法が施行されてから40年以上が経過しているが、未だにアメリカは南部を中心に深刻な人種差別問題を引きずっており、今回の「黒人のアメリカ大統領」誕生が与えるイメージ変化は計り知れず、そうした面から当選を願う声も多かった。
反面、「人種差別の過激派(KKKなど)が暗殺を企てるのではないか」と指摘されたこともあり、当選後も厳重な警護がなされている。因みに「KKKの支部がヒラリー・クリントンに反対する動機からオバマ氏に献金した」という報道(Ku Klux Klan Endorses Obama)は捏造である[127]。また元KKKで上院議員のロバート・バードはオバマを支持している[128]。
また予備選においては意識的に自らの人種を強調しない戦略をとったにもかかわらず、オバマ一家と関係の深い牧師のジェレマイア・ライトが白人を敵視するかのような発言を繰り返すなど選挙戦でも人種問題と無関係ではいられない状況にあった。
なお20世紀以降に大統領となった人物の多くが知事か副大統領としての行政経験を持ち、若さを売りにしたケネディでさえも上下院合わせて10年以上も連邦議員を経験してから大統領となっている。州議会議員の他は上院議員1期だけという政治経歴は例外的に短い。このことは「既成の体制から自由である」という清新なイメージを与える点で大きな強みとなるが、一国の大統領として国家を運営していけるかという根強い懸念を生んでおり対抗馬による攻撃対象の一つとなっていた。
問題点と疑惑
オバマに対してはイリノイ州上院議員時代からいくつかの疑惑が報道された。それらを大きく分類すると、腐敗関連問題や極左活動家(テロ前歴者を含む)及び人種間の衝突を扇動する個人や団体との関係が挙げられる。
- 別件で政治関連の贈賄罪等で有罪判決が確定されたトニー・レズコの妻はオバマ夫妻が一戸建ての自宅を購入する際、隣接の土地を購入し後にその一部をオバマ夫妻に転売することにより、実質上の不正寄付を行ったと批判されている[129][130]。
- 2008年8月21日、元ペンシルベニア州検事補のフィリップ・J・バーグ弁護士がオバマその他の被告に対しての確認訴訟を提起した。同訴訟は「オバマの出生地はアメリカ領土であるハワイ州ではなくケニアである故、オバマが当時の法律に照らせば出生時点ではアメリカ国籍を有せずアメリカ憲法上の大統領となる資格を有しない」とし、連邦裁判所において禁止命令等の救済を求めたものである。一方オバマ側はオバマの元の出生証明書を公表しないまま2006年発行の出生証明書の一部の記載事項の抄書のみの発表をもって代えており、その点が疑問の根拠とされている[131]。2008年10月9日にはスティーブン・マークイスがワシントン州の選挙管理官を相手取り、同州の裁判所に於いて同様の根拠に基づいての訴訟を提起した[132]。
- オバマの大統領選時の選挙陣営は「ロビイストからの献金は受け取らない」と宣言していたが、市民団体の調査では606人のbundlerがおり、その内17人がプロのロビイストだと判明している[133]。
- 2005年12月に起こった原子力発電企業に関する公害問題で立ち上がり、原子力関連施設の規制強化を目指したが業界は反発しロビー活動を強化した。程なくしてオバマは修正に応じ法案を再提出したものの「業界には屈さなかった」とコメントした。しかし、修正法案の中身は業界に大幅に譲歩したものであった事が『ニューヨークタイムズ』紙に報じられ明るみに出た[134][135]。なお後に、問題を起こした原子力発電企業の取締役達は大統領選挙におけるオバマ陣営の最高額献金者リストに加わっている[136]。
- 大統領選挙期間にインターネットを経由しての少額献金から莫大な選挙資金を獲得したと信じられており、選挙責任者のDavid Plouffe[137]は平均献金額は100ドル以下と話したが、ワシントンポスト紙が連邦選挙管理委員会のデータを詳細に調査した結果、200ドル未満の少額献金者は全体の4分の1に過ぎないことが判明している[138]。これは2004年度の再選キャンペーン時にジョージ・W・ブッシュが獲得した比率よりも低い。
- 大統領選挙期間中にかつてイラクのサッダーム・フセイン政権に武器を輸出していた軍需関連企業のトップと親密な関係であることが問題視された。この軍需関連企業のトップはオバマ陣営に献金も行なっていたとされる[139]。
家族
1992年に結婚した妻のミシェル(Michelle)、1998年生まれの長女のマリア(Malia)と、次女で2001年生まれのナターシャ(Natasha、「サーシャ(Sasha)」と呼ばれることが多い)の4人家族である。なおナターシャは初の21世紀生まれのホワイトハウス住人である。
愛犬
歴代のアメリカ大統領と同様、大統領当選後よりホワイトハウスにおいて愛犬を飼うことを表明し、様々な団体や政府から愛犬の譲渡の申し出が相次いでいた他、動物愛護施設からの譲渡も検討されたが、マリアに軽度のアレルギーがあることもあり愛犬探しが難航した。
しかし最終的に、テッド・ケネディ上院議員よりポルトガル・ウオーター・ドッグが贈られることとなり、2009年4月14日にお披露目され、同時に「ボー(Bo)」と名付けられたことも発表された。
親戚
実母アン・ダナムと継父ロロ・ソエトロの間に生まれた異父妹のマヤ・ソエトロがおり、現在マヤはマレーシアから来た中国系カナダ人のコンラッド・イングと結婚して娘のスハイラを出産した。
また実父のシニアは他に3人の妻との間に子供がおりKezia Obamaとの間にはMalik Obama 、Auma Obama 、Abo Obama 、Bernard Obamaという4人の子供、Ruth Ndesandjoとの間にはMark Ndesandjo 、David Ndesandjoという2人の子供、JaelOtienoとの間にはGeorge Hussein Onyango Obamaという1人の子供がいる(このうち4人は死去)。
つまりバラク・オバマには異父妹1人と異母兄弟が8人も存在した事になり、アメリカ大統領の中でこれほどのさまざまな兄弟を持つケースは極めて珍しいケースである。
ルーツ
バラク・オバマの家族や親戚は様々な国別にルーツを持つという極めて珍しい例であり、その多様性が話題になっている。 オバマ本人は大統領就任演説では「ケニヤ人の子」といい、アイルランド訪問時にはアイルランド風に"O'Bama"と名乗ろうと思ったことがあると発言したことがある。また日本訪問時の演説では自分を「アメリカ史上最初の『太平洋人大統領』」と称した。
- アン・ダナム(実母) - イングランド人、アイルランド人、チェロキー族
- バラク・オバマ・シニア(実父) - ケニア人のルオ族
- ロロ・ソエトロ(義父) - インドネシア人
- マヤ・ソエトロ(異父妹) - イングランド、アイルランド、チェロキー族、インドネシア人
- マーク・デサンジョ(異母弟) - 在中。中国人と結婚。
- ミシェル・オバマ(妻) - 黒人奴隷の子孫
- クレイグ・ロビンソン(義兄) - 黒人奴隷の子孫で白人と再婚
- コンラッド・イング(義弟) - カナダ出身の中国系マレーシア人
エピソード
スポーツ
オバマはスポーツ好きとして知られる。特に好きなのは学生時代からプレーしているバスケットボールであり、現在もプレーを続けている。2008年の民主党予備選期間には、予備選・党員集会の投票日の朝にはバスケットをプレーするようにしていたという[140]。
現在もトレーニングは怠っておらず、40代後半とは思えないほどの鍛え抜かれた腹筋が話題になった[141]。NBAチームではシカゴ・ブルズのファンであり、大統領就任後も試合を観戦に訪れている[142]。
また、野球好きでもあり、地元シカゴのMLBチーム・シカゴ・ホワイトソックスの大ファンであることを公言している[143]。MLB屈指の人気球団であるシカゴ・カブスではなく、ホワイトソックスのファンである理由として、「私は、好天候の時だけ応援するようなファンではない。リグレー・フィールドでは、お洒落したファンがビールを飲んでいるだけで、野球を観ていないし、真剣ではない。ホワイトソックスは、野球そのもの」と語っている[143]。なお2009年7月23日にホワイトソックスのマーク・バーリーがタンパベイ・レイズ戦で完全試合を達成した際は、エアフォースワンから祝電を贈っている[144]。
2009年のMLBオールスターゲームでは始球式を務めたが、それに先立ってイチローと対面し、サインボールを手渡した。その際に、イチローのファン(Big fan)だと語った[145]。
米国内で圧倒的人気を集めるアメリカンフットボールのファンでもあり、地元のNFLチーム・シカゴ・ベアーズの大ファンである。ベアーズを除くと、ピッツバーグ・スティーラーズが一番好きだという[146]。カレッジフットボールに関しては、「そろそろカレッジフットボールにプレーオフを導入する時期だと思う。もうコンピューターによる格付けにはうんざりしている。」とコメントし、制度の改革を望んでいる[147]。また、インドネシア滞在時にサッカーをプレーしていた経験があり、オバマの2人の娘はサッカーをプレーしている。2003年の訪英時にプレミアリーグ・ウェストハムの試合を観戦して以来、ウェストハムのファンであるという噂が流れていたが、本人はその噂について否定した[148]。
ゴルフも得意であり、スポーツ全般に関心が高い。2016年夏季オリンピックの開催地に立候補しているシカゴ市の招致活動[149]や、2018年もしくは2022年のFIFAワールドカップ招致活動[150]にも全面的にバックアップをすることを表明している。
「オバマを勝手に応援する会」
福井県小浜市では市名にちなみ観光協会のメンバーを中心として「オバマを勝手に応援する会」を発足させ、親書と市名産の「めおと箸」を送るなどしている[151][152]。
また長崎県雲仙市小浜町の小浜温泉でも同様に勝手連が発足し、応援活動を行っている[153][154]。この活動についてはオバマも承知しており、2008年アメリカ合衆国大統領選挙後の麻生太郎との電話会談にて、「小浜市については知っている」と述べた[155]。
専用車
2009年1月14日には、オバマ専用の車としてゼネラルモーターズ社の最高級ブランドである「キャデラック」のフラッグシップ・モデルである「DTS・リムジン」の新型特装車が一般公開された。この新しいDTS・リムジンは、前任者のブッシュ前大統領専用車のDTS・リムジンと比べ装甲がさらに強化した他、最新の通信機能が装備されたが、これらの装備で車重が増したために最高速度は時速100キロ程度であると発表されている。
この車のシャシーにはGMC・トップキックのものが使用されており、アメリカ大統領専用車として初のディーゼルエンジン車である。また、フロントノーズの国旗と大統領紋章旗が夜間にLEDでライトアップする新機能が追加された他、負傷時の対応を考え、オバマの血液が車内に常に用意されている。
なお、かつては大統領就任パレード用のオープンカーも併せて用意されていたが、テロリストによる狙撃を防ぐことが困難なため、1980年代以降は用意されておらず、大統領専用車にも同様に用意されていない。
発言
2009年3月、NBCのトーク番組、ザ・トゥナイト・ショーにゲストとして出演した際、自身のボウリングの腕前を、「スペシャルオリンピックスの様だ」と発言し、メディアなどから大きく取り上げられる。これを受けホワイトハウスは、「オバマの発言はスペシャルオリンピックを貶めるものではなかった」と釈明し、オバマはスペシャルオリンピックス会長のティモシー・ペリー・シュライバーに謝罪した。
アフリカでの評価
ケニアではオバマは英雄視されている。同国の大統領ムワイ・キバキは「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と発言し、11月6日をケニアの祝日に定めた。ほかのアフリカの国々でも、それぞれ「オバマ・デー」の名の祝日が急遽できたようで、タンザニアやガーナでも祝っていた。また、南アフリカで初めて黒人大統領になったネルソン・マンデラは「アメリカ建国以来初の黒人大統領の誕生は希望のシンボルだ」と述べ、「この勝利は、より良い世界を築きたいとの夢を持たない人物はこの世界にはいないということを示してくれた」との祝福をオバマに送った。さらにケニア国内では、「オバマ」「ミシェル」と子供に命名する親が急増した[156]。2009年の7月にはガーナ訪問し、家族と共に奴隷貿易の拠点だったケープコースト城を訪れた。
黒人差別
コネティカット州で起きた、女性に大ケガをさせたチンパンジーを警官が射殺した事件があり、その事件の風刺漫画の中で銃を構えた警官の隣にいるもう1人の警官が、「これであいつらは、次の景気対策法案を起草する人物をまた探さないといけないな」と言うセリフがあり、オバマ大統領が承認した景気対策法を揶揄していると言われている[157]。
脚注
関連項目
- アメリカ合衆国大統領 / 元首
- アフリカ系アメリカ人
- ムラート
- ミックス / ハーフ
- 帰国子女
- 2008年アメリカ合衆国大統領選挙
- アメリカ合衆国大統領予備選挙 / 2008年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙
- バラク・オバマ大統領就任式
- 党員集会
- オバマガール
- エイブラハム・リンカーン
- BlackBerry - 本人が愛用しているスマートフォン。選挙中から複数の端末を利用していたが、電子メールがカナダにあるサーバを経由するため、安全保障上問題となった。
- マヤ・ソエトロ
- デンジャラスのノッチ
外部リンク
- 大統領選挙戦専用サイト
- ホワイトハウス - バラク・オバマ
- 議会 - バラク・オバマ
- 在日本米国大使館 - バラク・オバマ (紹介・略歴の仮訳)
- BarackObama.com - 公式YouTubeチャンネル(Flash Video)
- Barack Obama - Twitter
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