徳川慶久
徳川慶久(とくがわよしひさ、1884年9月2日 - 1922年1月22日)は徳川十五代将軍徳川慶喜の七男。母は側室の新村信。爵位は公爵。初名は久。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、明治35年6月6日に慶久に改名している。周囲の人々からは「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていたという。東京帝国大学卒。貴族院議員や第一銀行取締役を務める。その後、華族世襲財産審議会議長を勤める。没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈される。
柔道二段、碁も素人二段、そのほか撞球、鉄砲、乗馬、ゴルフ、油絵など何をやっても抜きん出ており、頭脳明晰で性格円満、親友の細川護立侯爵からは、「才気縦横、故慶喜公の好いところを総て受け継いで居た」と評された。ゆくゆくは総理大臣にという声もあがったことがある。
夫人は有栖川宮威仁親王第2王女實枝子(明治24年2月14日~昭和8年4月25日)で、明治41年(1908)11月8日に結婚している。實枝子は有栖川宮家最後の王女であり、2女喜久子が有栖川宮家の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚したのもそのためである。
1922年1月22日に急死。一部には自殺説も取沙汰されたが、松平幸子の証言によると「眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だった」という[1]。
中々の二枚目でもあり、華族の子女から憧れの目で見られた。孫の徳川慶朝は著書で「映画俳優にしてもいいほど」と書いている。
子女は以下の1男4女である。
- 長女:慶子(明治43年1月24日~明治43年4月2日)
- 次女:宣仁親王妃喜久子(明治44年12月26日~平成16年12月18日,成婚は昭和5年2月4日)
- 長男:慶光(大正2年2月6日~平成5年2月6日)
- 三女:榊原喜佐子(子爵榊原政春夫人,大正10年10月29日~)
- 四女:久美子(侯爵松平康昌長男松平康愛夫人,夫の戦死後井手次郎夫人,大正11年9月23日~)
下の二女に関しては實枝子が里から連れてきたお側女中と慶久との間の子という説がある。また、これに立腹した實枝子も歌舞伎役者との間に子がいたとも言う[2]。
脚注
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| 徳川慶喜家(宗家別家)2代当主 |
|---|
| 慶喜 - 慶久 - 慶光 - 慶朝 - |
徳川慶久
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