島田紳助

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島田紳助
本名長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)
生年月日1956年3月24日(53歳)
出身地 日本 京都府京都市南区
血液型AB
身長170cm
方言京都弁
最終学歴京都学園大学中退
師匠島田洋之介・今喜多代
コンビ名紳助竜介(解散)
相方松本竜介
芸風ボケ(漫才師時代)
立ち位置右(漫才師時代)
事務所吉本興業
活動時期1974年 - 現在
同期明石家さんま
関根勤
オール巨人
現在の代表番組行列のできる法律相談所
人生が変わる1分間の深イイ話
クイズ!ヘキサゴンII
ホンネの殿堂!!紳助にはわかるまいっ
開運!なんでも鑑定団
クイズ!紳助くん
オールスター感謝祭
M-1グランプリ他多数
過去の代表番組サンデープロジェクト
嗚呼!バラ色の珍生!!
オレたちひょうきん族
紳助の人間マンダラ他多数
作品映画「風、スローダウン」
他の活動(株)ディンプス相談役
京都市特別観光大使
配偶者既婚
弟子島田まさし ほか
受賞歴
1984年 花月大賞 マンスリーよしもと賞
1991年 日本映画批評家賞 特別賞
 Template‐ノート:Infobox お笑い芸人 

島田 紳助(しまだ しんすけ、本名:長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)、1956年3月24日 - )は、日本のお笑いタレント司会者作詞家実業家株式会社ディンプス相談役。京都市特別観光大使漫才コンビ紳助・竜介」の元ボケ担当。

目次

プロフィール

来歴

芸能界入りまで

  • 父親が国鉄(現JR)職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。「松本紳助」で紳助本人が語ったところによると「鳩みたいに真面目で温厚な性格で、自分が警察に補導されても「話し合いで解決できる」と言って一度も激怒しなかった」とのころ。
  • 中学生の時は学校の窓ガラスを割ったり、教室で盗品を売りさばいたりしており、高校生の頃に車上荒らし補導されて少年鑑別所送致された経験がある。少年時代は暴走族であったと語っており、現在も当時の話をしばしばネタにしている。高校のとき教師から叱責されたのを機会に「おもろい不良になろう」と改心(?)する。高校時代のあだ名は、泣きながら熱く語ることから「泣き虫みー君」。高校の三者面談で「公彦君はこの学校のゴミです。」と言われたことがあった。後年、芸能界で大成した後に学校へ行くと「君はこの学校の誇りだ」と言われ、それに対して、「ゴミと誇り(埃)やったら変わらへん」と冗談めかして話している。
  • 10代の頃は大場政夫に憧れ、ボクシングジムに通っていた。1973年には京都府高校フライ級1位を獲得(ただし紳助いわく出場者は3人)また、料亭に勤めていたことがあり、将来は寿司屋か競艇の選手か漫才師かと考えていた。

10代 芸能界入り

  • 18歳の時、B&Bに憧れ、B&Bの師匠である漫才コンビの島田洋之介・今喜多代(現・今日喜多代)に入門。同期に明石家さんまオール巨人桂小枝などがいる。「島田洋七を倒すことに俺の青春を賭けよう」と誓ったが、「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と当時を振り返っている。
  • 「島田紳助」という芸名の由来は、「島田」は師匠の島田洋之介一門から、「紳助」という名前はいくつかの芸名候補の中から、師匠の島田洋之介が「『紳助』でいいやん」という一言で決まった。ちなみに紳助本人は数ある芸名候補の中で「けんじ」という芸名にしたいと思っていたが、反対に「紳助」が一番嫌だと思っていたという。理由は、子供の頃に同じ「しんすけ」という名前の友達がおり、その友達があまり良い印象ではなかったためだという。ちなみに、同期の杉本高文に「島田紳助」という芸名が決まった時に「その名前じゃ絶対に売れない」とからかわれ、紳助は落ち込んだが、逆に杉本が「明石家さんま」という芸名をもらったと聞いた時、紳助は「こいつ(芸能人として)終わった」と大笑いしたというエピソードがある。
  • 弟子入りしてから竜介に出会うまでの2年間は別の芸人と2回コンビを組んでいるがどれも全くうまくいかず、すぐに解散している。この2年間にキャバレーの呼び込みのバイトをしたり、緻密な研究ノートを書いたり、海原千里・万里夢路いとし・喜味こいしB&Bら既にテレビで活躍している漫才コンビのレギュラーの本数の推移のグラフなどを書き、部屋いっぱいに貼っていた。1977年9月にNGKで進行をしていた松本竜介(解散後松本竜助に改名)と漫才コンビ紳助・竜介結成。つなぎ作業着風の衣装を着てリーゼント姿の紳助が竜介と絡む芸風は「ツッパリ漫才」と呼ばれ、若い男性を中心に爆発的人気を得る。

20代 漫才師としての繁栄と終焉

30代 - 現在 司会者としての地位を確立

エピソード

  • 1986年から1995年までの10年間、レーシングチーム『チーム紳助』の監督として、鈴鹿8時間耐久ロードレース全日本ロードレース選手権に参戦した。NHKのスポーツ番組でインタビューが放送されたこともある。1980年代後半はバブル景気の絶頂期であり、モータースポーツ界には各方面のタレントをお飾りで監督に仕立てた(つまりサーキットに来てもレース関係の仕事は何もしない)レーシングチームが2輪・4輪を問わず乱立していたが、紳助は自ら企画書を作成してスポンサー企業を回ったり、レース当日は自分で作戦を立てたりと、他のタレント監督とは完全に一線を画していた。その時の活動を書いた著書『風よ、鈴鹿へ』は、小説ではあるがノンフィクションに限りなく近い作品である。
  • 1995年から約10年間、家族で大阪府能勢町に引越し、著書名を引用すると「えせ」田舎暮らしの日々を過ごす。そこでの日々はトークのネタとなっていた。
  • 海外旅行は、絶対にグアムしか行かないことを90年代のバラエティ番組『メトロポリタンジャーニー』で明らかにしていたが、その後『クイズ!紳助くん』のロケで韓国に行ったことからそのポリシーを変え始めている。
  • 1990年代末頃からグアムに代わって沖縄へ旅行する。2004年の謹慎期間は石垣島などに滞在していた。2009年は休日を沖縄・石垣島で生活する。
  • 数多くのレギュラー番組を持っているが、それらの収録は週末に集中しており、平日の3日か4日は休み。2008年7月7日放送の番組内では火・水・木の3日間は定休日で、以前までは月も休み。まれにゲスト出演する場合、定休日でも仕事をすることがある、と話す。2009年7月26日放送の26時間テレビでは月・火・水・木曜日は休みであるため、沖縄に帰って過ごしていると明かしている。最低でも1年間は沖縄と東京を行き来する生活を送ろうと思っているとも語った。
  • 老眼の年齢に差し掛かったこともあり、『一攫千金!日本ルー列島』や『クイズ!ヘキサゴンII』の初期には眼鏡を着用して番組に出演することもある。特に、『オールスター感謝祭』では200人もの芸能人を仕切らなければならないため、毎回眼鏡を着用し司会を務めている。
  • 極度の高所恐怖症である。ある番組でリフトに乗った際、2mの高さで本気で怖がっていた。また『松紳』で、脚立の一番上にも立てないことを明かした。
  • 元相方の松本竜助について、著書に「彼が居たから8年もの間漫才が出来た」と記してある。2006年3月に竜助が倒れた際には東京での仕事をすべてキャンセルして大阪へ駆けつけた。同年4月1日に竜助は亡くなったが、通夜と葬儀には参列しなかった。
  • 長年多くの番組で司会を勤め、数多くの芸能人と共演しているが、とんねるずとは一度も共演したことがない。本人は『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「新・食わず嫌い王決定戦」に出たいと『行列のできる法律相談所』で語ったことがある。
  • ボクシングの亀田一家への理解が高く、行列のできる法律相談所において、面識のない亀田一家に対する意見を語ったところ、亀田興毅から丁寧なお礼のメールが来た。ちなみに亀田興毅は、たむらけんじから紳助のメールアドレスを聞いたとのこと(たむけんの焼肉屋が亀田家のスポンサーを務めた縁から)。
  • 苦手な食べ物はパン、ホルモン。[2]
  • 26時間テレビのネプリーグで、森光子の名前を間違え、「森紳助に改名します!」と発言。直後のひょうきんベストテン2009では、テロップに「森紳助」と表示されていた。
  • 沖縄石垣島)で生活する時の名前は、「マイク与那嶺」である。また、「宅配便が届いた時に、マイクさ~んと言われるのがうれしいが、与那嶺という漢字が難しい。」と発言。[3]

芸能観

  • ダウンタウンが全国区の芸人となって以降、ダウンタウンの漫才のスタイル(テンポを遅くした調子でしゃべる、ダラダラ舞台に出る、など)を真似る若手が多数現れた。それについて紳助は、「ダウンタウンは、それまでの漫才をこなした上で、あのスタイルにたどり着いている。彼らはピカソだ。それを漫才の基本もなってない若手が、ただスタイルだけダウンタウンをまねしても面白いはずはない。」と批判している。
  • M-1グランプリの立案理由について、「世の中、テレビはおろか、劇場に立ったことすらほとんどない、売れない芸人はたくさんいる。それでも、そういう子らは夢を見てやってるから辞めようとしない。そこで、M-1に出られる期限を結成10年にしたら、まあそこで芽があれば、準決勝に出てテレビに映る。運のエエ子らはそこ以外で世に出られる可能性もあるけど、基本的には10年やって芽が出なんだら、お笑いをやめるべき。周りを不幸にする。そのための区切り。」と語っている(2008年7月28日、「人生が変わる1分間の深イイ話」での発言)。

不祥事

  • 2004年10月25日大阪・朝日放送社内にて『クイズ!紳助くん』収録前、同じ吉本興業に所属する勝谷誠彦女性マネージャーに対し、何らかの理由で激昂し、その女性を別室に無理やり連れ込み、素手で殴る、顔に唾を吐きかけるなどの暴行を加え、傷害を負わせた。[4]
  • 女性が部屋を飛び出した後、紳助は「こいつおかしいねん。殴ってもないのに大声出しやがって」と周囲に怒鳴りちらし、それに対し女性は「あなたに殴られて左耳が聞こえないんですよ。一生聞こえなかったらどうしてくれるんですか!」と反論したが、紳助は「な?こんな口答えする女やから、殴られても当たり前やろ」と周囲に言ったといわれている。
  • すぐさま被害者である女性は大阪府警大淀署に診断書を提出し、10月28日付で傷害容疑で告訴した。紳助は警察に訴えられたと知ると同日に吉本興業の東京支社で記者会見を開き、暴行傷害の容疑を認め、TVカメラの前で「100対0で僕が悪いです」、「被害者が芸能界を辞めろと言うならすぐに辞めます」といって泣きじゃくって反省している様子をみせた。
  • これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、期間中のレギュラー番組については、各局ともテロップ(収録した日付など)を挿入して通常通り放送した。ただし『行列のできる法律相談所』については法律をテーマに扱っているだけにテロップ挿入で放送というわけにはいかず、緊急生放送として事務所の後輩で番組レギュラーである東野幸治を司会に立てて放送した。
  • 大阪府警大淀署は11月4日、紳助を「加害者」として傷害罪の疑いで書類送検、検察が略式起訴を請求し、大阪簡易裁判所において「罰金30万円」の略式命令が下された。
  • 前述の謝罪会見で紳助は「髪をつかんで座らせ、平手で一発」と述べていたが、その後の略式起訴の際には「右手やリュックサックで頭を殴ったほか、髪をつかんで壁に打ちつけ、唾を吐きかけるなどの暴行を加え、約2ヶ月の怪我を負わせた」という犯行事実を認めたことが分かっている。
  • なお、紳助は、当初の11月4日までの芸能活動自粛期間の無期限延期を表明し、11月8日の『キスだけじゃイヤッ!』を最後にブラウン管から一時期姿を消した。被害者からは「芸能界を辞めて」と引退を要求されていたが、2ヶ月ほどの謹慎ののち、2005年1月2日『行列のできる法律相談所』内の生放送にて復帰の挨拶と事件についての謝罪を改めて行って復帰した。ダウンタウンらが紳助のレギュラー司会の代行を勤め、紳助の復帰まで繋いだ。
  • 被害女性は事件後休職していたが、2006年6月限りで休職期間満了として退職扱いとなった。しかし、同年8月4日には被害女性が加害者の紳助と吉本興業を相手取り、4400万円の損害賠償を求める民事訴訟東京地方裁判所に起こしている。また、仕事ができなくなったのは首の捻挫PTSDなどが原因であるとして、退職扱いの無効と雇用関係の確認も求めている。

政治について

  • 『サンデープロジェクト』や『サルでもわかるニュース』の出演を機に予習として政治や時事問題について独学で勉強する。この頃から大阪府知事選挙や国政選挙での出馬の可能性についてしばしば報道される。
  • 東国原英夫は、紳助が「オレは政治家じゃなくて、商人だ。豪商の立場から政治家を応援する」と自らに語ったことがあるとし、転身の可能性について否定している[5]。他タレントから政治活動への転身を勧められた際「賄賂でも持って来られたら言下に断れず、お礼を言ってそのまま貰ってしまう」と客観的に自身の性格を分析している。
  • 『サンプロ』降板後、2004年参院選で、民主党から出馬した尾立源幸の選挙運動の応援演説に駆けつけた。尾立はこの選挙でトップ当選を果たした。同時に「民主党候補を支援したのは強力な2大政党制をつくるため。民主党が政権を取ったら今度は自民党を応援する」と語った。投開票日の夜、選挙事務所で朝日放送などのインタビューで「サンプロをしてきた事への恩返し」と発言。
  • 2008年4月27日放送の行列のできる法律相談所にて、橋下徹大阪府知事による4年間の府政によって結果(大阪府の債務など)が出なかった場合、自らが出馬して同知事と争うと冗談で言っていた。また、同日に橋下府知事より、選挙戦での演説におけるアドバイスを求めていたことを同知事によって明らかにされた。作戦は「情に訴える」だったという。
  • 政治信条に関しては保守主義で、読売テレビ今夜はシャンパリーノ」で憲法9条がテーマとして取り上げられたとき、「改正したほうが良い」と発言している。

出演

レギュラー番組

単発・不定期番組

ゲーム

ファミコン

CM

現在

過去


過去の出演番組

書籍

  • 紳助の青春の叫び PART5 (1980年11月 レオ企画)
  • 風よ、鈴鹿へ (1991年7月 小学館 ISBN 978-4-09-363291-1)
  • 風が、止まる時 (1990年9月 小学館 978-4-09-363292-8)
  • こんな僕でよかったら (毎日新聞社)
  • 「いつも心に紳助を」シリーズ (毎日新聞社)
    • いつも心に紳助を (1994年10月 ISBN 978-4-620-31030-5, 小池書院 ISBN 978-4-88315-737-2)
    • いつも心に紳助を 2
    • 新 いつも心に紳助を (1996年11月 ISBN 978-4-62-031144-9)
    • いつも心に紳助を ファイナル (1997年5月 ISBN 978-46-2031174-6)
  • ラスト・ラン~おっさんたちの青春が終わった~ (1995年8月 小学館 ISBN 978-4-09-363293-5)
  • 紳助のH・愛・ジョーク (1995年9月 毎日新聞社 ISBN 978-4-620-31076-3, 1998年4月 小池書院 ISBN 978-4-88315-781-5)
  • メッセージ (1996年3月 毎日新聞社 ISBN 978-4-620-31106-7)
    • 紳助の「メッセージ」 たった一回の人生やもん! (同上の本、1999年4月 小池書院 ISBN 978-4-88315-789-1)
  • えせ田舎暮らし (1997年9月 KTC中央出版 ISBN 978-4-87758-053-7)
  • 知識ゼロからの金儲け (2000年6月 幻冬舎 ISBN 978-4-87728-970-6)
  • ぼくの生きかた (2001年3月 KTC中央出版 ISBN 978-4-87758-205-0)
  • 天下の廻りモノオカネの正体 (2001年6月 幻冬舎 ISBN 978-4-344-40115-0)
  • いつも風を感じて (2004年11月 KTC中央出版 ISBN 978-4-87758-335-4)
  • ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する -絶対に失敗しないビジネス経営哲学- (2007年5月 幻冬舎新書 ISBN 978-4-344-98038-9)
  • ニッポンを繁盛させる方法 (2007年11月 共著:東国原英夫 角川書店 978-4-04-710121-0)
  • 自己プロデュース力 (2009年9月 ワニブックス ISBN 978-4-84-701819-0)
松本竜助との共著
『紳助・竜介のツッパリ魔:反抗の悪知恵』 (1981年5月 ワニブックス ISBN 978-4-584-20021-6)
松本人志と共著
松本紳助 (2002年1月 ワニブックス ISBN 978-4-8470-1415-4)
裏松本紳助 (2002年11月 ワニブックスISBN 978-4-8470-1473-4)
哲学 (2003年3月 幻冬舎 ISBN 978-4-344-40332-1)
松紳 (2004年7月 ワニブックス ISBN 978-4-8470-1559-5)

映画

  • じゃりン子チエ(1981年/東京ムービー新社)マサル役で声の出演
  • ガキ帝国 (1981年/ATG)リュウ役で映画初出演、スクリプター
  • マンザイ太閤記(1981年/東京ムービー新社)
  • 次郎長青春篇 つっぱり清水港 (1982年/松竹)森の石松役
  • 逃がれの街(1983年/日本テレビ、田中プロ)米倉役
  • 瀬戸内少年野球団(1984年/ヘラルド・エース)正木二郎役
  • 星くず兄弟の伝説(1985年/「星くず伝説」プロジェクト)「ひょうきんベストテン」司会
  • ゴルフ夜明け前(1987年/東宝)桂小五郎役
  • 死霊の罠(1988年/ジャパンホームビデオ)
  • 佐賀のがばいばあちゃん(2006年)スポーツ用品店店主役(友情出演

脚本・監督

  • 風、スローダウン(1991年/東映/石田靖主演)

Vシネマ

  • 新・童貞物語2 Close to you あなたのそばに (1991年/バンダイビジュアル)
  • 殺しやPAZUZU (2000年/ミュージアム)

雑誌記事

  • 月刊現代 (講談社)
    • 2005年9月号 - 本誌〔現代〕独占!120分 復帰から7ヶ月--吉本女性社員「暴行事件」を初めて語った 島田紳助 涙!--あの事件のこと、芸人とは、そして僕の未来 (共著:中田カウス・増田 晶文)
  • 週刊文春 (文藝春秋)
    • 2008年8月14日・21日夏の特大号(2490号) - [独占告白]スキあらばエッチするという姿勢は一パーセントでも持ち続けたい 独占告白 島田紳助「視聴率王」の苦しみ--「羞恥心」成功から、株、不動産、"黒い交際"まで、すべてを語った

CD

  • 1981年ごろ、島田がボーカルを務める「紳助バンド」(ギターを弾けない村上ショージ、ベース・Mr.オクレ)として活動。
    • 時間だけがロックンロール(1981年。作詞も)
    • 東京コミュニケーション(作詞。紳助バンド)
  • 1982年 『い・け・な・い・お化粧マジック』(明石家さんまとデュエット)
  • 1990年には「島田紳助&バスガス爆発楽団」を結成する。
  • 1991年 ダウンタウンのアルバム『万力の国』に楽曲提供。
  • 1999年7月28日 島田紳助プロデュースの演歌「大阪の女」で島谷ひとみがデビュー。
    紳助の人間マンダラの企画から。

作詞

プロデュースしたユニット

クイズ!ヘキサゴンIIでのユニット

受賞歴

  • 第1回 日本映画批評家賞 特別賞(映画「風、スローダウン」)
  • 第17回おおさか映画祭 新人監督賞(映画「風、スローダウン」)
  • 卒煙大賞(2004年、過去にthe brilliant greenaikoらが受賞した賞)

脚注

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関連項目

主な交友関係

外部リンク


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