ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

W・A・モーツァルト
バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年。モーツァルトの死後に想像で描かれた)
バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年。
モーツァルトの死後に想像で描かれた)
基本情報
出生名Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart
別名神童
出生1756年1月27日
神聖ローマ帝国ザルツブルク
出身地ザルツブルク
死没1791年12月5日(35歳)
神聖ローマ帝国ウィーン
ジャンル古典派音楽
活動期間1759年 - 1791年
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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトドイツ語Wolfgang Amadeus Mozart,洗礼名ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト。 1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリア作曲家演奏家古典派音楽の代表であり、ハイドンベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。称号神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを勤めた。


目次

生涯

少年時代のモーツァルト
少年時代のモーツァルト

1756年 1月27日、、ザルツブルクに生まれる。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領であった。

レオポルト・モーツァルトは元々は哲学歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。他の五人は幼児期に死亡し、唯一、四歳上の姉マリーア・アンナだけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった[1]。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)。

父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときから クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日シェーンブルン宮殿マリア・テレジア御前演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳のマリア・アントーニアのちのマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)にプロポーズしたという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏したさいに作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している[2]

1769年から1771年にかけて(13~15歳)、 第1回イタリア旅行。父と共にミラノボローニャローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている[3]。イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた[4]。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。

1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王 ミトリダーテ』は大絶賛されるも、報酬はわずかなものであった[5]

1777年 にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中、アウグスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だった マンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた[6]。モーツァルトは従姉妹に未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋愛し、結婚の計画をたてるが[7]、父レオポルドは唖然としてモーツァルトに「家族がお前に期待しているのは有名になり、お金を稼ぐことだ」といい、1778年 2月にはパリ行きを命じる。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった[8]。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかった。父への手紙で「通りは言葉にできないほどの糞だらけで」通行不能だったと記している[9]。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)通称「パリ」を作曲する。 7月3日、同行した母がパリで死す。父はモーツァルトにマンハイムでの軽率な行動のせいだ、この次はお父さんの命を奪うのか、などと非難した。帰路マンハイムのアロイジアの自宅では冷たくあしらわれ、失恋する。「僕をほしくないやつは、尻をなめろ!」とモーツァルトはピアノに向かって歌ったといわれる[10]

1781年 3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命でミュンヘンからウィーンへ移るが、 5月9日、司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。

以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。翌 1782年、 26歳のとき、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。

1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問したさいには、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンはもし有力者が彼の才能を理解できるのなら「多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した[11]

1786年 5月1日、オペラ『フィガロの結婚 K.492』をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪れたとされるが、記録は無い。 5月には父・レオポルトが死去する。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ K.527』を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼が頻繁に行われる。

1788年 モーツァルトは32歳になっていた。この年にはいわゆる“3大交響曲”(交響曲第39番第40番第41番)を作曲する。

ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く,高給な仕事に恵まれなかった事が大きな原因であるが,モーツァルトに怖れをなした宮廷楽長・アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害した為、収入が激減したとする説もある。

1790年 34歳のモーツァルトは 1月、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K.588』を初演する。 2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調「戴冠式」同19番ヘ長調「第2戴冠式」などを演奏するも、観客は不入りだった。

1791年 1月、最後のピアノ協奏曲第27番K.595作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621を初演。30日シカネーダーの一座のためにジングシュピール魔笛』K.620を作曲、初演する など作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。体調は11月から悪化し、レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に35歳の若さでウィーンにて永眠した。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。

妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマスフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している[12]。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った[13]。成人した2人の男子はどちらも子どもを残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫は居ない。

年譜

死因

症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている[14]。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹ったとされている。[15]また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。


モーツァルトは病に伏す前に、妻に「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。2002年イギリスのモーツァルト研究家は、モーツァルトはポークカツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとさえ説いた[16]。また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンではロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中で「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる[17]

葬儀と墓

葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある[18]。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である[19]

没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェンシューベルトブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである[20]。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行ったが[21]、検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。

作品

詳細は「モーツァルトの楽曲一覧」を参照

作品総数は断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽歌曲など)と器楽曲(交響曲協奏曲室内楽曲ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。

作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる[22]。モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録を付けている。1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

代表的な作品

作風

最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心に学んだ。その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンとヨハン・セバスティアン・バッハの影響が強い。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。彼が主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた[23]

晩年に向かうにつれて長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ・S・バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕もあった。

「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されている。人気の高いピアノ協奏曲23番については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番リンツ滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである[24]。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、藝術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた[25]。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。子供の頃から各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった[26]。従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父親による規制が無くなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれに当たる。

思想的には、フリーメーソンに大きく触発されて、作品では「魔笛」「ピアノ協奏曲20番」に特にその影響が指摘されている[27]

人物

モーツァルト(1789年の肖像画)
モーツァルト(1789年の肖像画)

名前

モーツァルトの洗礼名(ラテン語)は、ヨハンネス・クリュソストムス[28]・ウォルフガングス・テオフィルス[29]・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時はイタリア音楽家がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。ただしモーツァルトは Amadeusではなくイタリア語ふうのアマデーオ(Amadeo)を主に使っていたともいわれ[30]、ほかフランス語ふうのアマデ(Amadé)、ドイツ語ふうのゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。

容姿

肖像画や銅像ではいずれも“神童”に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。有力なのは「21歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹ゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、未だに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小男である」「肥満が著しかった」という説がある。

検死による実際の身長は163㎝であった。

1777年のモーツァルト.  Giovanni Battista Martiniの依頼による
1777年のモーツァルト. Giovanni Battista Martiniの依頼による[31]

信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)の Joseph Lange によるスケッチである[32]

人柄

モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5ヶ国語を使い分けて書かれている。また友人などに宛てた手紙の中においては何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を詳細に書き出したりしていた。

モーツァルトは従姉妹に排泄にまつわる駄洒落にあふれた手紙を送ったことがある[33]。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるもので、「あなたの鼻に糞をします」「ウンコで君のベッドをきしませるぞ。僕のおしりが火事になった!どういうこと!知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ?-ウンコが出たがってる?そう、そうだウンコだ」などの記述がある[34]。 従姉妹はマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトといい、父・レオポルトの弟の娘で、ヴォルフガングがこの女性と従姉妹以上の関係にあったともされる[35]。ほかに『俺の尻をなめろ』(K.231、K.233)というカノンも作曲するなど、これらは彼にスカトロジーの傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者どうしでの尾籠な話は日常的なものでありタブーではなかった[36]し、またモーツァルトの両親も大便絡みの冗談をいっていた[37]19世紀の伝記作者はスカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。また、上掲の「俺の尻をなめろ」"Leck mir den Arsch"、"Leck mich im Arsch" は英語の"Kiss my ass"(糞ったれ!など)と同類の慣用表現であり、やや下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえない。

ほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。

精神医学界には、こうした珍奇な行動がサヴァン症候群によるものであるという説もある[38]

ボウリングビリヤードを好み[39]、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた[40]。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。賭博にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である[41]

ドイツ人論議

2006年、ドイツのテレビ局が「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。生地主義に現在の国家をあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在せず、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」のもとにドイツ民族がたばねられていたことを論拠に反論。ただし、当時は神聖ローマ帝国は形骸化しており、実際に国家として機能していたのは生地においてはザルツブルク大司教領、ウィーンにおいてはオーストリア大公領である(ドイツという名の実質的国家はひとつも存在しない)。同じ論法だとマリア・テレジアもハイドンもれっきとしたドイツ人だが、恣意的にモーツァルトだけをピックアップしたところに局側の弱みがあり、同時にそのネームバリューの大きさが示されている。

モーツァルトにおいては、ザルツブルク人、オーストリア人、ドイツ人としての意識が混然としていたと考えるのがもっとも自然である。なお、ピーター・シェーファーの「アマデウス」には、モーツァルトが一種のドイツ民族主義からドイツ語オペラに着手する描写があり、海老沢敏石井宏らわが国のモーツァルト研究家もしばしばドイツ人という言葉を用いている。チロル人やザルツブルク人がウィーンへの反感からオーストリア人という呼び方を嫌ったり、オーストリア国内で(特に右派は)ハンガリー系やスラブ系を区別するニュアンスで主流民族をドイツ人と呼ぶこともあるので、この話題はかなりナーバスな問題をはらんでいる。

モーツァルトを扱った作品

その他

  • ユーロ導入前のオーストリアの最高額面の5000シリング紙幣、また現在のオーストリアの1ユーロ硬貨にも同じ肖像が採用されている。
  • 彼を讃え、水星には「モーツァルト」という名のクレーターが存在する。

脚注

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参考文献

  • NEUE MOZART-AUSGABE(新モーツァルト全集)
    • ベーレンライター社・パックスアーレン社のソフトカバー版が入手できる。
  • アルフレート・アインシュタイン『モーツァルト-その人間と作品』浅井真男訳、白水社、1961年(原著1945年1997年の新版:ISBN 4-560-03732-9
  • 『モーツァルトの手紙』(上下巻)柴田治三郎編訳、岩波書店(文庫)、1980年 ISBN 4-00-335041-3 ISBN 4-00-335042-1
  • H.C.ロビンズ・ランドン『モーツァルト最後の年』海老澤敏訳、中央公論社、2001年(原著1988年ISBN 4-12-003114-4
  • メイナード・ソロモン『モーツァルト』石井宏訳、新書館、1999年(原著1995年ISBN 4-403-12006-7
  • 石井宏『反音楽史-さらば、ベートーヴェン』新潮社、2004年 ISBN 4-10-390303-1
  • ノルベルト・エリアス『モーツァルト ある天才の社会学』青木隆嘉訳、法政大学出版局、1991年 ISBN 4-588-00353-4
  • なかにし礼「三拍子の魔力」2008年毎日新聞社 ISBN-10: 4620318426
  • 岡田 暁生「恋愛哲学者モーツァルト」 2008年新潮社 ISBN-10: 4106036002
  • ピーター・ゲイ『モーツァルト』1999年、PenguinPutnum Inc.(邦訳 高橋百合子訳、岩波書店、2002年)

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
ウィキクォート
ウィキクォートモーツァルトに関する引用句集があります。

arz:موتسارتCkb:فوڵفگانگ ئەمادیۆس مۆتزارتgan:莫扎特hif:Wolfgang Amadeus MozartMhr:Вольфганг Амадей МоцартMwl:MozartPcd:Mozart Wolfgang Amadeusszl:Wolfgang Amadeus Mozart


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