松本清張

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松本 清張
北九州市立松本清張記念館
誕生松本 清張(まつもと きよはる)
1909年12月21日
広島県広島市
死没1992年8月4日(満82歳没)
東京都東京女子医科大学病院
職業小説家
国籍 日本
活動期間1950年 - 1992年
ジャンル推理小説時代小説歴史小説
代表作或る『小倉日記』伝
点と線
『眼の壁』
主な受賞歴受賞歴を参照
処女作西郷札
親族松本峯太郎(父)
岡田タニ(母)
公式サイト北九州市立松本清張記念館
Portal:文学
 Template‐ノート:Infobox 作家 
文学
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出版社文芸雑誌
文学賞
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詩人小説家
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松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日[1] - 1992年8月4日)は、日本小説家。“せいちょう”はペンネームで、本名は、“きよはる”と読む。

目次

概略

日本の推理小説の歴史において、「社会派推理小説」の先駆けとなった小説家の一人である。

またそれにとどまらず、司馬遼太郎などとともに、昭和中期・後期を代表する小説家の一人でもある。

1958年に発表した推理小説『点と線』『眼の壁』の2長編がベストセラーとなって以降、世に推理小説ブームを引き起こした。以後の活動により、犯罪の動機を重視した「社会派推理小説」の嚆矢とされている。

推理小説以外に、『かげろう絵図』などの時代小説歴史小説を手がけているが、『古代史疑』などで古代史にも興味を示し、この関心は『陸行水行』『火の路』などの小説作品にも結実した。また、『昭和史発掘』『日本の黒い霧』などのノンフィクションで現実世界にも目を向けるなど、その作家活動は多芸多才であったと言える。

作品が映画化テレビドラマ化された回数は、現在まで470以上に及び、映像化によって有名になった作品も多い。

他の作品に『砂の器』『Dの複合』、自身代表作と言う『ゼロの焦点』など。

経歴

生い立ち

一般的には福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)出身とされるが、広島県広島市で生まれ、幼児期から児童期は山口県下関市で育ち、小倉に定住したのは小学校5年生、10歳、11歳から[2][3][4]

父・松本峯太郎は鳥取県日南町の田中家出身で、幼少時に米子市の松本家に養子入りした。青年期に広島市に出奔、書生や看護雑役夫などをする。当地で広島県賀茂郡志和村(現在の東広島市志和町)出身の農家の娘で、広島市内の紡績工場で働いていた母・岡田タニと知り合い結婚。清張は1909年12月21日、広島市で生まれその後、当時日露戦争による炭鉱景気に沸く福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)大字篠崎に移ったものらしい。姉2人は乳児のときに死亡している。間もなく1910年、祖父母のいる下関市壇ノ浦に転居。家の裏は渦潮巻く海で、家の半分は石垣からはみ出し、海に打った杭の上に載っていた。ここで通行人相手の餅屋を始める。だが3年後に、線路建設のためダイナマイトで火の山麓を崩していたのに巻き込まれる。地滑りのため家が押し潰され、同市田中町に移った。父はあらゆる下層の職業を転々としたが、学問については憧憬を持ち、夜手枕で清張に本を読ませて聞かせた。両親には一人っ子のため溺愛された。10歳、11歳まで下関にて育つ。

1916年、菁莪尋常小学校に入学。1920年、家族で小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。古船場町の銭湯の持で暮らしていたが、のちにバラック家を借り、そこに住んだ。家の前には白い灰汁の流れる小川があり、近くの製紙会社から出る廃液の臭気が漂っていた。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。両親は大八車を転がし露天で生計を立てていたが、翌年、一家は飲食店を開業した。

前半生

実父が定職を持たず生家が貧しかったために、1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、川北電気株式会社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕となる。しばらくして家業が安定したため、祖母とともに間借住まいをする。この頃から春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、特に芥川龍之介を好んだ。だが1927年、出張所が閉鎖され失職。小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習いとして採用され、さらに別の印刷所に見習いとして入る。1929年、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に留置され、父によって本を燃やされ読書を禁じられた。1931年に印刷所が潰れ、高崎印刷所に戻ったが、嶋井オフセット印刷所で見習いとなり、その後みたび高崎印刷所に戻り、内田ナヲと結婚。だが、印刷所の主人が死去したために将来に不安を感じ、1937年から自営。朝日新聞西部支社(現・西部本社)の広告部意匠係臨時嘱託となる。

1943年に正式に社員となるが、教育召集のため久留米第56師団歩兵第148連隊に入る。翌年6月に転属となり、衛生兵として勤務。朝鮮に渡り竜山に駐屯、一等兵となった。1945年に転属、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級。終戦は同所で迎えた。帰国後は朝日新聞社に復帰。図案家としても活躍し、観光ポスターコンクールに応募していた。

作家活動開始以降

小説研究16講を座右の書としていたが、もともと作家志望ではなく生活のために執筆、1950年、勤務中に書いた処女作『西郷札』が「週刊朝日」の「百万人の小説」の三等に入選。この作品は第25回直木賞候補となり、上京。全国観光ポスター公募でも、『天草へ』が推選賞を取った。

1952年、木々高太郎の勧めで「三田文学」に『記憶』『或る「小倉日記」伝』を発表。『或る「小倉日記」伝』は直木賞候補となったが、のちに芥川賞選考委員会に回され、選考委員の1人であった坂口安吾から激賞され第28回芥川賞を受賞。「オール讀物」に投稿した『啾啾吟』が第1回オール新人杯佳作。一方、日本宣伝美術界会九州地区委員となり、自宅を小倉事務所とした。また意匠係の主任になり、1956年5月31日退社。以後作家活動に専念することになる。9月に日本文芸家協会会員。1953年上京。練馬区に住む。

1955年から『張込み』『顔』で推理小説を書き始め、1957年『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞、同年から雑誌「」に『点と線』を連載する。翌年刊行され、『眼の壁』とともに「社会派推理小説」と呼ばれ、ベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった。その後も執筆量は衰えず、『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだが、書痙となり、以後口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。

一方、『小説帝銀事件』で扱った現実世界は、『日本の黒い霧』にまとめられ、「黒い霧」は流行語になった。『わるいやつら』『砂の器』『けものみち』『天保図録』を発表後、1964年から『昭和史発掘』の連載を「週刊文春」に開始。『Dの複合』『砂漠の塩』など旺盛な活動を続け、1967年、第1回吉川英治文学賞を受賞。また、1970年、『昭和史発掘』などの創作活動で第18回菊池寛賞を受賞。「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」と語り、広汎なテーマについて質の高い作品を多作した。

『古代史疑』以降、古代史に関する発言は晩年まで続いている。なお、邪馬台国論争では九州説の立場をとっている。

1992年4月20日、脳出血のため東京女子医科大学病院に入院。手術は成功したが、7月に病状が悪化、肝臓がんであることが判明し、8月4日に死去した。『神々の乱心』『江戸綺談 甲州霊嶽党』(後者は未単行本化)が絶筆。法名は清閑院釋文張。

没後の動き

幼少時に各地を転々としていたが、前半生は実質的に現在の北九州市が地元であったと言うことができ、北九州市が清張の功績を語り継ぐ拠点としての地位を担っている。

年譜

  • 1909年 - 12月21日、広島県広島市で誕生。父は鳥取県日南町、母は広島県東広島市の出身。
  • 1916年 - 下関市立菁莪尋常小学校入学。
  • 1920年 - 小倉市に転居。同時に、天神島尋常小学校に転校。
  • 1924年 - 板櫃尋常高等小学校卒業。川北電気株式会社小倉出張所で給仕。
  • 1928年 - 高崎印刷所に就職。
  • 1943年 - 朝日新聞社に正式入社。
  • 1945年 - 敗戦を朝鮮全羅北道井邑で迎える。
  • 1950年 - 「週刊朝日」の「百万人の小説」に応募した『西郷札』が入選。
  • 1952年 - 日本宣伝美術協会の九州地区委員を務める。
  • 1953年 - 前年「三田文学」に発表した『或る『小倉日記』伝』で第28回芥川賞。12月、東京本社に転勤。
  • 1956年 - 朝日新聞社を退社。日本文芸家協会会員になる。
  • 1957年 - 練馬区石神井に転居。短編集『顔』で日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)受賞。
  • 1958年 - 『点と線』『眼の壁』がベストセラーに。清張ブーム。
  • 1960年 - 『日本の黒い霧』連載。「黒い霧」が流行語になる。
  • 1961年 - 前年度の高額納税者番付で作家部門の1位に。以降13回1位(歴代2位)。杉並区高井戸に転居。直木賞選考委員を務める。
  • 1963年 - 江戸川乱歩の後を受けて日本推理作家協会理事長を務める。1971年には同会長となる(〜1974年)。
  • 1964年 - 初の海外旅行。ヨーロッパ・中東諸国を歴訪。
  • 1966年 - 推理小説の形骸化に対して「ネオ・本格」を提唱する。
  • 1967年 - 江戸川乱歩賞選考委員を務める(〜1975年)。
  • 1969年 - カッパ・ノベルス版の発行部数が一千万部を突破。
  • 1976年 - 毎日新聞社の全国読書世論調査で「好きな著者」の1位に。以降没年まで8回1位。
  • 1978年 - 映画監督の野村芳太郎らと霧プロダクションを設立、代表取締役に就任(〜1984年)。
  • 1984年 - 「ニュードキュメンタリードラマ”昭和”-松本清張事件にせまる」(テレビ朝日)を監修。自身毎週コメンテーターとして出演。
  • 1987年 - フランスでの第9回「世界推理作家会議」に招待され、日本の推理作家として初めて出席、講演。
  • 1992年 - 8月4日、死去。享年82。

受賞歴

作品一覧

松本清張の作品一覧」を参照

映画化

  • 張込み』・『砂の器』・『鬼畜』・『疑惑』・『天城越え』など、清張原作による映画作品は知名度の高いものが多い。
  • 『風の視線』では清張自身が特別出演している。
  • 清張は映画・テレビの企画制作を目的として、映画監督の野村芳太郎らと1978年に「霧プロダクション」を設立、代表取締役に就任した。同プロダクションは1984年まで続いた。清張による『「霧プロ」始末記』(週刊朝日1984年10月26日号掲載)がある。
  • 映画化作品一覧・リストに関しては、

    松本清張原作の映画一覧」を参照

テレビドラマ化

  • 点と線』などの代表作から、『数の風景』など晩年の作品まで、テレビドラマ化された作品の幅は広い。また『砂の器』・『黒革の手帖』など、連続ドラマ形式で放送されたものもある。
  • 1983年には19作品、24回の新作ドラマが放送されるなど、視聴率を確保できるとされた清張作品のドラマ化は過熱気味となっていたが、原作のテーマから逸脱した不本意な映像化を防ぐ目的で、1985年に「霧企画事務所」が設立され、清張は監査役を務めた。同事務所は清張没後2000年まで続き、解散した。
  • 清張自身が俳優として出演することもあった。演じた役柄は以下の通り。
    • 闇市の洋モク売り(1975年『遠い接近』)、病院の雑役夫(1975年『中央流沙』)、タクシードライバー(1975年『愛の断層(原作『寒流』))、遊園地の整備員(1975年『事故』)、経済評論家(1975年『棲息分布』)、雑貨屋の主人(1977年『最後の自画像(原作『駅路』))、花屋の主人(1977年『依頼人(清張の覚え書きをドラマ化))、大物政治家(1977年『たずね人(原作不明))、巡礼者(1978年『天城越え』)、ファッション界の大物(1978年『虚飾の花園(原作『獄衣のない女囚』))、裁判長(1978年『一年半待て』)、ベテラン刑事(1978年『火の記憶』)
  • テレビドラマ一覧・リストに関しては、

    松本清張原作のテレビドラマ一覧」を参照

清張の推理小説観

  • 清張の推理小説観を示す代表的な作品として、1961年に出版された『随筆 黒い手帖』がある。同書では、トリックの尊重や本格推理の面白さは肯定するが、限られた数のマニアのみを念頭に、設定や描写の奇抜さを競い合う状況が推理小説の行き詰まりを引き起こしているとして、多くの人々の現実に即したスリル・サスペンスを導入すべきこと、動機の描写に力を入れることで人間描写を深め、推理小説に社会性を加えられることなどを主張している。同時期の水上勉有馬頼義らの執筆活動もあり、マスメディアは清張たちによる推理小説の新しい傾向を「社会派推理小説」と呼び、週刊誌など当時のマスメディアの発達もあり広く歓迎された。
  • 他方、安易なブーム追随も多く、1960年代半ばには、トリックも意外性もない社会批判小説・風俗小説が本格推理と銘打たれ乱発される状況となった。推理小説の形骸化に対し、清張は責任監修を務めた叢書「新本格推理小説全集」(読売新聞社・1966~67年)の中で、「ネオ・本格」という標語を掲げ、反省・批判を行っている。具体的には以下の通り。「正直に言って、この時期に推理小説はその本来のあるべき性格を失いつつあった。その理由の一つは題材主義に倚りかかりすぎたためであり、一つはジャーナリズムが多作品を要求したため不適格な作品が推理小説の名において横行したことであり、もう一つは、その結果、推理作家自体の衰弱を来したことである。これは反省すべきことであった」「今や推理小説は本来の性格に還らなければならない。社会派、風俗派はその得た場所に独立すべきである。本格は本格に還れ、である」(同叢書序文)。後に1987年のフランス訪問の際、「ネオ・本格推理小説」を再度提唱している。
  • 晩年の推理小説論として、1987年に行われたフランスの推理作家・評論家のフランソワ・リヴィエールとの対談がある。対談の中で清張は、推理小説には骨格としてアイデア・トリックの独自性が必要であるが、他方単調さを回避するために副主題を伴うべきで、既成事実への疑問追及や既成観念への挑戦がテーマとしてうってつけである、と主張した。詳細は『国際推理作家会議で考えたこと』(文藝春秋1988年1月号、『松本清張研究』第8号に収録)など参照。

清張と時代・歴史・伝奇小説

  • デビュー当初の清張の執筆は歴史小説が中心であった。推理小説で一般に知られるようになる以前に、『くるま宿』『秀頼走路』『五十四万石の嘘』『いびき』など、多くの歴史短編が執筆された。この時期には、留置所での拘留経験(→経歴)が反映された『いびき』など、かつての自身の生活経験が色濃く影を落としている作品も見られる。また、清張にとって初の長編小説は歴史小説であり、推理小説以上に執筆の手馴れたジャンルであった。
  • 作家としての知名度が上がり執筆量が激増して以降も、週刊誌に連作時代小説『無宿人別帳』を連載するなど、しばらくは時代・歴史小説が並行して書かれた。出版社のシリーズ企画から江戸時代を論じた『幕末の動乱』がまとめられたが、その経験を生かす形で大作『かげろう絵図』・『天保図録』が生まれた。
  • 清張の時代・歴史小説には、若い時期に親しんだ先人の作品に学びつつ、他ジャンルの清張作品にも通底する視点を示した作品もある。影響を受けた作家の一人として、清張はしばしば菊池寛をあげているが、菊池の「日本合戦譚」(1932~34年、オール讀物に連載)のモチーフを生かす形で、『私説・日本合戦譚』(オール讀物連載)を執筆している。また、岡本綺堂の「半七捕物帳」を始めとする捕物帳にも関心を寄せていたが、短編集成型の連作として『彩色江戸切絵図』『紅刷り江戸噂』を執筆した。ここでも推理小説と同様、シリーズキャラクターの登場は避けられている(『虎』『見世物師』の文吾は唯一の例外)。
  • 1970年代以降には、伝奇小説の大作『西海道談綺』や、古代に材をとった歴史小説『眩人』が書かれた。時代・歴史小説の執筆は減少傾向を示したが[5]、最晩年には再び時代小説『江戸綺談 甲州霊嶽党』に取り組んでいた。

清張と古代史

  • 清張の古代史への関心は日本に加えて、アジア中東ヨーロッパなど広い範囲に及んだ。『古代史疑』以降、古代史に関する多数の評論・随筆等が執筆され、邪馬台国期から奈良時代に至る日本古代史の通史『清張通史』も書かれている。古代史への造詣は小説作品にも生かされ、『Dの複合』『巨人の磯』などの推理小説、『陸行水行』『火の路』『眩人』などの作品に結晶している。以下いくつかのトピックを挙げる。
  • ベトナム古代文化視察団(団員は騎馬民族征服王朝説で知られる江上波夫東京大学名誉教授など)の団長を務めた。
  • 邪馬台国ブームが、1970年前後に大きく盛り上がったことを背景に、古代史をめぐる対談・座談会等が、清張を交えてたびたび実施された。清張は、井上光貞東京大学文学部教授や西嶋定生東京大学文学部教授、上田正昭京都大学教養部教授(役職はいずれも当時)といった、学界の第一人者に対しても見解を述べている(『古代史の謎-松本清張対談』などに収録)。1977年の「邪馬台国シンポジウム」(博多全日空ホテル)では構成・司会者を務めた。江波教授や井上教授が講師として参加、全国から600人以上の聴講者が集まった。なお、西嶋教授は、邪馬台国論争では(清張に近い)九州説論者として知られていた。
  • 1979年イランでの「清張古代史をゆく」(NHK)取材中に、大地震とパフラヴィー朝の国王退陣を求める反政府暴動に遭遇した。
  • 正倉院展」(東京国立博物館・1981年)に際して、東京・京都で開かれたシンポジウムに参加した。清張の議論は『正倉院への道』(日本放送出版協会・編著)参照。
  • 1983年インドを訪問、朝日放送の取材に同行し、デリーマドラスコルカタなどを歩いた。帰国後に『密教の水源をみる-空海・中国・インド』(講談社)を書き下ろし刊行した。
  • 1985年にスコットランドやフランスのカルナック列石を、「清張古代史をゆく」の続編の取材のため調査、ヨーロッパ巨石文化の謎に取り組んだ。
  • 発掘調査が1986年以降続く吉野ヶ里遺跡に関してもシンポジウムや講演会に参加した。清張の議論は『吉野ケ里と邪馬台国―清張 古代游記』(日本放送出版協会)参照。
  • 清張の主張した説に関しては、その後の考古学研究や歴史学研究の成果によって明確に否定されたものもある。ただ、一般の広い関心を喚起し学界に刺激を与えた点は、学界研究者からも評価されている。例えば、森浩一同志社大学名誉教授による『火の路』(文春文庫)解説など参照。

清張と昭和期の政治・社会問題

  • 清張は現実の政治や社会問題にも関心を持ち、発言する作家であった。以下いくつかのトピックを挙げる。
  • ベトナム戦争に際して、ワシントン・ポスト紙に掲載するベトナム反戦広告募集の呼びかけ人の一人となり、1967年4月3日に掲載された。
  • ベトナム民主共和国の対外文化連絡委員会から1968年招待状が届き、2月に北ベトナム各地の視察旅行に出発するが、4月4日、ファン・バン・ドン首相との単独会見に成功した。
  • 若い現代史研究者の発表の場として『季刊現代史』を創刊した。
  • 出版関係者のみならず、外務省などの省庁も、取材ルートとして活用した。共産党も認めていたが、全共闘運動に関しては、「何の意味もない」として全く評価しなかった[6]
  • 池田大作創価学会会長と宮本顕治日本共産党委員長の会談が1974年12月に清張邸で実施され、10年間互いの存在を認め相互に干渉しないことを約束する創共協定(共創協定とも言う)が結ばれていたことが、1975年7月に判明、清張はその仲介役を務めていた(協定は公表とほぼ同時に死文化)。清張による『「仲介」者の立場について-創価学会・共産党協定』(東京新聞1975年8月9日掲載、『松本清張社会評論集』に収録)、『「創共協定」経過メモ』(文藝春秋1980年1月号掲載)がある[7]
  • 国鉄の自主再建を願う七人委員会」を、中野好夫都留重人大河内一男木下順二らと共に作ることになり、私学会館(アルカディア市ヶ谷)で協議した。清張はこの会について「硬直し、泥沼化していく労使の現状を見ておれない。声なき声を代表して、双方が真剣な気持ちで問題解決に取り組んでくれるようになれば」と述べている。
  • ニュードキュメンタリードラマ”昭和”-松本清張事件にせまる」(テレビ朝日・1984年・全25回)を監修、連合赤軍事件三島由紀夫自決事件など、昭和期の重要事件を取りあげ、自ら毎回コメンテーターとして出演した。放送リストは以下のリンク先を参照。

松本清張原作のテレビドラマ一覧#「ニュードキュメンタリードラマ”昭和”-松本清張事件にせまる」放送リスト」を参照

国際的活動

  • 清張が初めて海外に出たのは1964年であり、すでに50歳を越えていたが、その後は精力的に海外に出かけるようになった。『黒の回廊』など取材成果を生かした海外トラベル・ミステリが書かれる一方、古代史関連の文化視察(→清張と古代史)や、キューバラオス社会主義国家の現状取材(→清張と昭和期の政治・社会問題)も行われた。特に晩年はイギリスフランス西ドイツ(当時)など、西ヨーロッパ諸国への旅行が多く、『聖獣配列』『霧の会議』『詩城の旅びと』等、その経験が反映された作品も多い。
  • 法廷弁護士ペリー・メイスンシリーズで知られる、アメリカの推理作家E・S・ガードナーを、日本推理作家協会の理事長として招待、他の推理作家とともに食事会を催した。
  • アメリカの世界的な推理作家であるエラリー・クイーンを1977年に光文社などと共同で招待し、クイーン(フレデリック・ダネイ)と対談した(詳細は「EQ創刊号 特集 エラリー・クイーンの世界「対談:エラリー・クイーンvs松本清張」」(光文社)を参照)[8]。なお、アメリカ版エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンにおいて、初めて掲載された日本人推理作家の作品は、清張の『地方紙を買う女』である。
  • 1986年に『点と線』が英訳された際、「ニューヨーク・タイムズ」紙上で、「伝統的なものではあるが、息もつかせぬ探偵小説」として紹介された。
  • 1987年には、フランス東部グルノーブルでの第9回「世界推理作家会議」に招待され、日本の推理作家として初めて出席、講演している。すでに『砂の器』などがフランス語に翻訳され、「ル・モンド」「リベラシオン」などの各紙で紹介されていた。清張による『グルノーブルの吹奏』(小説現代1988年1月号、のちに同題のエッセイ集を新日本出版社より刊行)、『国際推理作家会議で考えたこと』(文藝春秋1988年1月号、『松本清張研究』第8号(北九州市立松本清張記念館 2008年)に収録)がある。
  • 清張原作の映画中、海外では特に『砂の器』の認知度が高く、監督の野村芳太郎と共に言及されることが多い。
  • 中国へは1983年に訪問したが、北京で周陽・中国文学芸術界連合主席、憑牧・作家協会副主席と会談した。清張は「文学は面白いことが第一。説教調のものでは読者に倦きられる」と主張したが、中国側は「文学作品としての水準が先決」とした。
  • 清張は通訳をあまり必要としない程度に英語を解した。海外取材等で通訳が同行した場合も、遮って直接英語で対応することがしばしばであった[9]

清張作品の翻訳

  • 英語に翻訳された作品には以下のものがある。
    • 『Points and Lines』(点と線、講談社インターナショナル)、『Inspector Imanishi Investigates』(砂の器、Soho Crimeなど)、『The Voice and Other Stories』(声、顔、捜査圏外の条件など6編、講談社インターナショナル)、『Pro Bono』(霧の旗、Vertical社)。
  • フランス語に翻訳された作品には以下のものがある。
    • 『Tōkyō express(Le rapide de Tokyo)』(点と線、Philippe Picquierなど)、『Le vase de sable』(砂の器、Philippe Picquierなど)、『La voix』(声、Philippe Picquierなど)、『La Femme qui lisait le journal local』(地方紙を買う女、Futuropolisなど)。
  • ドイツ語に翻訳された作品には以下のものがある。
    • 『Spiel mit dem Fahrplan』(点と線、Fischer-Taschenbuch-Verl)、『Mord am Amagi-Paß』(天城越え、Fischer-Taschenbuch-Verl)。
  • イタリア語に翻訳された作品には以下のものがある。
    • 『La morte è in orario』 (点と線)、『Come sabbia tra le dita』(砂の器)、『Il palazzo dei matrimoni』(黒い空)。3点ともIl Giallo Mondadori社からの刊行である。
  • 中国語への翻訳は近年特に増加している[10]。『点与銭』(点と線、南海出版公司など)、『零的焦点』(ゼロの焦点、Apex Pressなど)、『砂的』(砂の器、南海出版公司など)といった代表作は1980年代から繰り返し翻訳されているが、さらに『黑色笔記』(黒革の手帖、新世界出版社など) などの有名作品や、『彩色的河流』(彩り河、重疾出版社など)、『犯罪的回送』(犯罪の回送、北岳文芝出版社など)など晩年の長編まで翻訳されている。
  • この他、ロシア語韓国語台湾での翻訳もある。

他の小説家・著名人との関係

小説家一般

  • 司馬遼太郎・・・清張と同様に直木賞選考委員を務めた(第62回~第82回、清張は第45回~第82回)が、2人の推す作家が毎回のように異なり、度々選考に時間を要していた(文藝春秋の編集者の回顧によれば「黒カッパ(清張)と白カッパ(司馬)のおかげで帰れない」)。清張との対談も行っており(『文学と社会-松本清張対談集』、「司馬遼太郎の日本史探訪」(角川文庫)などに収録されている)、両者の人間観・歴史観の差異をうかがうことができる。司馬が日本の歴史上しばしばとりあげた時代は、戦国安土桃山時代幕末明治期であるが、清張が得意としたのは、江戸時代を思わせる時代小説を別にすれば、奈良時代以前の古代と昭和期であった(両者ともに例外は多数ある)。また、終生森鴎外に関心を持っていた清張に対し、晩年の司馬は夏目漱石を評価している。清張が直接司馬について言及したことは少ないが、「韃靼疾風録」以降、自分より年下の司馬が小説執筆から手を引いた状態になったことに対して、清張は「あの人は(小説を)書かなくなったが、私は書き続ける」と述べている[11]。なお、1994年文藝春秋の創刊1000号記念特集号にあたり、同誌への執筆回数を相撲の番付形式で紹介しているが、清張は東横綱、司馬は東大関とされており(なお西横綱は井上靖、司馬の死去は1996年)、昭和期の同誌における両者の存在感の大きさがわかる。
  • 三島由紀夫・・・1963年中央公論社が文学全集を刊行する際、編集委員の選考にあたって、清張は推理作家であるということで、編集委員への清張の参加を拒否した。他方、「江戸川乱歩全集」(講談社・全15巻・1969~70年)出版の際は、清張と共に編集委員を務めている。のちに三島の自決事件に関して、清張は「ニュードキュメンタリードラマ”昭和”-松本清張事件にせまる」(テレビ朝日・1984年)の中で取りあげている。
  • 平林たい子・・・韓国の雑誌「思想界」で「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく「タイプライター」です」と発言した。これに対し清張は「日本読書新聞」上で「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している。

推理小説家

  • 江戸川乱歩・・・推理小説の指南書『推理小説作法』(現在は光文社文庫など)を清張と共編しており、推理文壇の両巨人の方法論が併載された一級資料となっている。また、自身が編集長を務めた雑誌「宝石」に清張の『ゼロの焦点』(連載時は「零の焦点」)を連載させており(ちなみに横溝正史悪魔の手毬唄」や高木彬光成吉思汗の秘密」と同時期の連載)、その休載時には清張と対談も行っている(同誌第13巻No.146、「江戸川乱歩と13の宝石 第2集」(光文社文庫)などに収録)。社会派推理小説の隆盛に伴い本格推理小説は衰微したとしばしば言われるが、乱歩の側で社会派推理小説を否定しようとした形跡は見られない。社会派の隆盛以前にも、甲賀三郎木々高太郎による、推理小説の文学性をめぐる論争が行われたが、乱歩は極端な本格原理主義者と見られることも、あるいは極端な文学主義者と見られることにも不快感を示しており(乱歩の「探偵小説四十年」参照)、むしろ「(推理小説の)愛好者として白眼視することなくやっていきたい」という立場であった。もっとも清張も、乱歩個人の作品を全て否定したことはなく、特に「二銭銅貨」以降続々と発表された乱歩の初期短編は愛読し、「大変な天才が現われた」「日本にも本格的な探偵小説作家が出たと驚嘆した」と絶大な評価を与えている。のちの通俗長編に対しては「独自性や野心的なものは、残念ながら影を潜め」「作品価値的には遂に長い空白時代が続く」など厳しい感想が多いが、一方では「面白さにかけてはそれなりに独自のものを持っている。爾後の模倣者の及ぶところではなく、乱歩の才能の非凡さを示している」(「日本推理小説大系・江戸川乱歩集」東都書房)と一定の評価も述べている。1965年に乱歩は死去するが、その葬儀の際、清張は涙を流しながらその棺を担いだと言われる。その後も清張は、三島由紀夫中島河太郎と共に、「江戸川乱歩全集」(講談社・全15巻・1969~70年)の編集委員を務めている。詳細は清張による『随筆 黒い手帖』『江戸川乱歩論』(雑誌「幻影城」1975年7月増刊号、『グルノーブルの吹奏』に収録)、または小林信彦「回想の江戸川乱歩」(光文社文庫)など参照。
  • 木々高太郎・・・推理小説家として初めて直木賞を受賞しているが、清張の処女作『西郷札』を認め、編集委員を務めた雑誌「三田文学」に『記憶』『或る「小倉日記」伝』を発表する機会を与えるなど、清張を世に送り出す役割を果たしている。清張も「日本の探偵小説に知性を与えた最初の人」と木々の小説作品を高く評価し、「木々高太郎全集(朝日新聞社・全6巻)」の監修者を務めている。
  • 横溝正史・・・江戸川乱歩らとの座談会(「別冊宝石」第109号収録)では、社会派推理小説の流行に関して「作家は(時流に)受けるものを書くのではなく、好きなものを書く」として、距離を置く発言をしている。ただし、後年には社会派の影響を受けた作品も執筆しており、「本格推理小説が復興するにしても、松本清張氏が築き上げたリアリズムの洗礼を受けたものでなくてはならないでしょう」とトーンを変化させている[12]
  • 森村誠一・・・最初の著作の出版以降、清張と数回会っているが、のちに清張の印象を以下のように総括している。「乱歩さんや正史さんは、後進や新人に非常にあたたかい。松本清張さんは全く逆です。まず新人に対しては、疑惑と警戒の目を向ける。大切な自分の作品という卵を産む限界能力を犠牲にしてまで、どうして俺が新人の育成をしなきゃいけない、自分の作品を産むのに忙しい。いうなれば、自分の作品しか見つめていない方です。これは私自身も、清張さんの姿勢は作家として見習わなければいけないと思います」[13]
  • 山村美紗・・・江戸川乱歩賞落選作を清張が推薦したことにより、最初の著作「マラッカの海に消えた」を出版することができた。初版本の帯には「トリックの豊富さと物語性を評価」と清張の言葉が記され、「G・K・チェスタトンに迫るトリック」と高い評価を与えている。
  • 西村京太郎・・・山村美紗をモデルにした小説[14]を書いているが、作中清張を思わせる作家が登場している。作中では、清張が山村に好感を持っており、西村と付き合うのを止めるよう告げる旨のセリフを言わせている。また「作家になったのは、清張の作品を読んで、これなら自分でも書けると錯覚したのがきっかけ」と述べている。
  • 島田荘司・・・日本における本格推理復興の大きな契機を作った一人とされるが、清張に関しては「社会派の作家としては最もトリックが多い」「清張さんはトリック重視」として、一定の評価を与えている[15]。ただし、島田にとって最も印象深い清張作品は、トリッキーな推理作品ではなく、『半生の記』『火の記憶』であるという[16]
  • 宮部みゆき・・・初期短編から最晩年の作品まで清張作品を愛読しており、「松本清張傑作短編コレクション」(文春文庫・全3冊)の編者を務めた。また2009年の生誕100周年記念事業の際に大沢在昌京極夏彦と共に記念講演会を開催し、清張をめぐって奥泉光半藤一利と対談も行っている[17]

その他著名人

  • 美空ひばり・・・親しかった報知新聞社長からの勧誘を受け、コンサートを観ている。その後清張はひばりに歌を作詞する約束をし、「雑草の歌」というタイトルで資料集めを実施、内容を検討していたが、ひばりの死(1989年)により実現せずに終わった[18]
  • 新珠三千代・・・『黒い画集 寒流』『風の視線』『霧の旗』など清張原作の映画に出演しているが、清張は新珠が大のお気に入りであったと言われる。「婦人公論」1962年10月号紙面には清張と2人で登場し、演出家の和田勉によれば、1980年代になっても、良い「若手女優」を清張に尋ねると、清張はすでに50歳となっていた新珠を推してきたという[19]
  • 長谷川町子・・・漫画「いじわるばあさん」中、主人公が清張の執筆活動を妨害する描写がある(ただし、本来ここでのいじわるばあさんの標的は婦人参政権不要論を唱えた石川達三であり、この描写は長谷川の誤解と言える)。

その他逸話

  • 酒も食事もあまり興味はなく、唯一の趣味はパチンコであった。行きつけの店は西荻窪の駅前にあり、周囲に気づかれないよう変装してパチンコ店に入ったこともあったが、すぐに清張とわかってしまい困ったという。
  • 「ぼくのマドンナ」像を問う企画の際、以下のように述べている。「私のマドンナ像は、いくつかの条件がある。まず、その女性との交流はプラトニックなものでなくてはならない。肉欲を感じさせるものなどもってのほか、あくまでも清純で、処女性を備えている必要がある。次ぎに、その関係は私の側からの片思いでなくてはいけない。相思相愛では、神聖な域にまで高められたイメージも、たちまちにして卑近な現実の無禄と化す。この世では到底思いのかなわぬ高嶺の花-この隔たりこそ、切ないまでのあこがれをかきたてる要因である。私にとってのマドンナはまた、絶世の美女ではなくてはならない。いやしくもマドンナというからには、普遍化された理想像であって、個性などというものの入り込む余地はないはずだ。美人ではないが気立てのいい女、というのでは、話にならないのである」((1979年日本経済新聞」夕刊、『グルノーブルの吹奏』収録)。
  • 自らはアンチ巨人と語っていたが、「巨人はどうした」といつもその成績を気にしていた[20]
  • 本人が評価していた映画作品は『張込み』『黒い画集・あるサラリーマンの証言』『砂の器』だけであったという(三作とも脚本は橋本忍)。
  • ある種の苦労人に見られるように、時に傲岸不遜な態度で他者に当たる事もあった。西村京太郎森村誠一は清張邸訪問の際に門前払いの扱いを受けたりした。
  • 左目はほとんど見えず、眼鏡も左だけガラスであった。
  • 用意されていた遺書には「自分は努力だけはして来た」などと記されていた。[21]

脚注・出典

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参考文献

全般

  • 『松本清張研究』Vol.1-5(1996-1998年、砂書房、尾崎秀樹・藤井康栄編集協力)
    • 第1号「特集・松本清張と森鴎外」、第2号「特集・清張文学の<宗教>の意味」、第3号「特集・『日本の黒い霧』-戦後史の風景-」、第4号「特集・昭和30年代の清張文学」、第5号「特集・松本清張と九州」
  • 『松本清張研究』創刊準備号・創刊号-(1999年-、北九州市立松本清張記念館編集・発行)
    • 2010年1月現在、創刊準備号から第10号まで全11冊刊行。
    • 創刊号「特集・清張と鴎外」、第2号「特集・松本清張と菊池寛」、第3号「特集・清張文学と旅」、第4号「特集・清張ミステリーの<現在>」、第5号「特集・松本清張の敗戦前後」、第6号「特集・清張古代史の軌跡と現在」、第7号「特集・歴史・時代小説の醍醐味」、第8号「特集・清張とメディア-時代との遭遇」、第9号「特集・世界への視座-清張の海外取材」、第10号「特集・同年に生を享けて-一九〇九年生まれの作家たち」

事典類

  • 岩見幸恵、文献目録・諸資料等研究会 『松本清張書誌研究文献目録』(2004年、勉誠出版
  • 郷原宏 『松本清張事典決定版』(2005年、角川学芸出版
  • 歴史と文学の会編 『松本清張事典 増補版』(2008年、勉誠出版)

雑誌特集・ムック類

  • 宝石 「松本清張特集」』(1963年No.220、宝石社)
  • 文藝春秋臨時増刊 「松本清張の世界」』(1973年第51巻17号、文藝春秋
  • 國文學 松本清張と司馬遼太郎』(1973年第18巻7号、學燈社)
  • 別冊幻影城 「松本清張」』(1976年No.3、株式会社幻影城)
  • 『国文学 解釈と鑑賞 「松本清張<社会と文学との接点>」』(1978年6月号、至文堂
  • 『國文學 松本清張・脱領域の眼』(1983年第28巻12号、學燈社)
  • 『大衆文学研究 追悼 松本清張』(1993年12月号、大衆文学研究会)
  • 『国文学 解釈と鑑賞 「松本清張の世界」』(1995年2月号、至文堂)
  • 『小説TRIPPER 「特集 松本清張再発見」』(2000年秋季号、朝日新聞社
  • 『現代思想 「特集 松本清張の思想」』(2005年Vol33 3月号、青土社
  • 東京人 「特集 松本清張の東京」』(2006年5月号、都市出版
  • 『別冊太陽 日本のこころ No141 松本清張』(2006年、平凡社)
  • 『松本清張の世界-清張文学の真髄に迫る徹底考察(別冊宝島1638)』(2009年、宝島社
  • 『本の窓 「特集 やっぱり、松本清張」』(2009年11月号、小学館
  • 『週刊「松本清張」』全13冊(2009-2010年、デアゴスティーニ・ジャパン

関係者の回想・評論など

  • 田村栄 『松本清張 その人生と文学』(1976年、啓隆閣新社)
  • 田村栄 『松本清張 続・その人生と文学』(1977年、清山社)
  • 吉田満 『朝日新聞社時代の松本清張』(1977年、九州人文化の会)
  • 福岡隆 『人間松本清張 影武者が語る巨匠の内幕 新版』(1977年、本郷出版社)
  • 齋藤道一 『名探偵松本清張氏』(1981年、東京白川書院)
  • 安間隆次 『清張ミステリーの本質』(1984年、光文社、1990年、光文社文庫
  • 田村栄 『松本清張の世界』(1993年、光和堂)
  • 田村栄 『続・松本清張の世界』(1993年、光和堂)
  • 『松本清張(新潮日本文学アルバム)』(1994年、新潮社
  • 阿刀田高 『松本清張あらかると』(1997年、中央公論社
  • 藤井淑禎 『清張ミステリーと昭和三十年代』(1999年、文春新書
  • 佐藤友之 『松本清張 清張と戦後民主主義』(1999年、三一書房
  • 阿井景子『わが心の師清張、魯山人』(2001年、中公文庫
  • 半藤一利 『清張さんと司馬さん-昭和の巨人を語る』 (日本放送出版協会、2001年)
  • 林悦子 『松本清張映像の世界 霧にかけた夢』(2001年、ワイズ出版
  • 藤井康栄 『松本清張の残像』(2002年、文春新書
  • 文藝春秋編 『松本清張の世界』(2003年、文春文庫
  • 中島誠 『松本清張の時代小説』(2003年、現代書館
  • 平野謙 『松本清張探求 1960年代平野謙の松本清張論・推理小説評論』(2003年、同時代社)
  • 梓林太郎 『霧の中の巨人 回想・私の松本清張』(2003年、祥伝社
  • 渡部昇一 『昭和史 松本清張と私』(2005年、ビジネス社
  • 細谷正充 『松本清張を読む-「張込み」から「砂の器」まで』(2005年、ベストセラーズ
  • 仲正昌樹 『松本清張の現実と虚構 あなたは清張の意図にどこまで気づいているか』(2006年、ビジネス社
  • 佐藤一 『松本清張の陰謀 「日本の黒い霧」に仕組まれたもの』(2006年、草思社
  • 保阪正康 『松本清張と昭和史』(2006年、平凡社新書
  • 藤井忠俊 『「黒い霧」は晴れたか-松本清張の歴史眼』(2006年、窓社)
  • 藤井淑禎 『清張 闘う作家-「文学」を超えて』(2007年、ミネルヴァ書房
  • 森史朗 『松本清張への召集令状』(2008年、文春新書
  • 加納重文 『松本清張作品研究』(2008年、和泉書院)
  • 加納重文 『砂漠の海―清張文学の世界』(2008年、和泉書院)
  • 森本穫 『松本清張 歴史小説のたのしみ』(2008年、洋々社)
  • 阿刀田高 『松本清張を推理する』(2009年、朝日新書
  • 原武史 『松本清張の「遺言」-「神々の乱心」を読み解く』(2009年、文春新書
  • 梓林太郎 『回想・松本清張-私だけが知る巨人の素顔』(2009年、祥伝社文庫
  • 権田萬治 『松本清張 時代の闇を見つめた作家』(2009年、文藝春秋
  • 佐藤泰正編 『松本清張を読む(梅光学院大学公開講座論集)』(2009年、笠間書院)
  • 郷原宏 『清張とその時代』(2009年、双葉社
  • 岡村直樹 『「清張」を乗る-昭和30年代の鉄道シーンを探して』(2009年、交通新聞社新書

関連項目

外部リンク

松本清張


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