OSK日本歌劇団
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OSK日本歌劇団(オーエスケーにっぽんかげきだん)は、日本の劇団。宝塚歌劇団・松竹歌劇団(SKD)と並ぶ三大少女歌劇のひとつ。1922年(大正11年)4月、松竹楽劇部として創設され、2003年(平成15年)に一度解散した後、その伝統を引き継いで劇団員有志により再結成された。
OSKとは、以前の劇団名であった「大阪松竹歌劇団」(Osaka Shochiku Kagekidan) の略称。
目次 |
概要
未婚の女性により構成されるレビュー劇団・女性歌劇団。男役・娘役が存在するが、男役→娘役だけでなく娘役→男役の転向も容認されている。生年・本名は非公表だが、芸名に本名を用いることが可能。
かつて、宝塚とは同じ関西でしのぎを削り、「歌の宝塚、ダンスのOSK」と並び称された。また同じ松竹が経営していたSKDは、OSKの後に東京を本拠とする劇団としてつくられ、大阪本拠のOSKとの棲み分けを図った。しかし、SKDが発足したことなどでOSKは東京での公演が長らく不可能となり(再開はOSK創立70周年を迎えた1992年。SKDは1990年にレビュー最終公演を行い、1992年よりミュージカル劇団となった)、その間、宝塚は東京に東京宝塚劇場を設置して常時公演できる体制を整え、関東圏・全国レベルでの人気・知名度で大きく差を付けられることになった。
現在では、大阪松竹座や京都南座での公演、福井県越前市のたけふ菊人形会場での公演を中心に、小中劇場公演・イベント出演・ディナーショー等で活動している。松竹座・南座公演は、二部構成のレビューとなっており、第一部が日本物、第二部が洋物で構成されている。上演時間が約1時間で、休憩を挟まないたけふ菊人形公演も、日本物と洋物の二部構成のレビューである。
旧来より「ダンスのOSK」として知られ、特に、速いスピードで高く足を上げるラインダンスは、劇団のアイデンティティの一つともなっている。
レビューの最後に、ピンクの傘(桜パラソル)を回しながら、テーマソング「桜咲く国」を歌うのが定番。これは1929年(昭和4年)に、紙吹雪を吸い込んで声が出なくなった出演者がいたため、防止のために傘をさすようになったのが起源である。
団員の正装は桜色の着物に緑の袴。テーマソングは「桜咲く国」。公式ファンクラブは「桜の会」、会報は「Sakura Times」、ファンとの交流イベントは「桜祭り」など、桜の花がシンボルとして使われている。
ベテラン脇役を除いた、序列最上位の男役がトップスターと呼ばれ、松竹座・南座等のメイン公演で主演を務める。ただし近鉄傘下時代に一度だけ、トップスターを二人置いた時期もあった。女役(娘役)の場合は、序列上位の女役数名が複数または交代でヒロインを務める。このため演目によって柔軟な配役が可能になっている。
歴史
松竹時代
1922年(大正11年)4月、松竹楽劇部として創設される。1928年(昭和3年)、東京公演を実施。これをきっかけに東京松竹楽劇部(後の松竹歌劇団)が誕生した。1934年(昭和9年)、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)に改称。千日前の東洋劇場を本拠地とする。1943年(昭和18年)、大阪松竹歌劇団(OSK)に改称。1950年代までは、OSK・SKDの合同公演も行われていた。
1957年(昭和32年)に松竹から独立し、「株式会社 大阪松竹歌劇団」となる。1963年(昭和38年)3月3日午前2時頃、大阪劇場で釣り舞台が落下する事故が発生、団員・スタッフ44名が重軽傷を負った。公演直前[1]ながら、深夜練習が行われていたことが労働基準法で禁じられた女子の深夜労働[2]に当たる可能性が明るみに出て、芸能界における深夜稽古の常態化が問題視されるようになった。労働省は翌3月4日に主要劇場での抜き打ち査察を行い、全国に波紋が広がった。
同年、日本歌劇団(NKD)に改称するが、愛称のOSKが定着していたため1970年(昭和45年)にOSK日本歌劇団と改称する。
近鉄時代
1971年(昭和46年)以降は近畿日本鉄道(近鉄)グループの子会社となり宝塚同様に、鉄道会社の支援のもと遊園地を本拠地とする[3]。OSKの本拠地は奈良市の近鉄あやめ池遊園地の円型大劇場となった。
女性歌劇の人気が低迷していく中、宝塚が「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」等ミュージカル作品の大ヒットで今日までの人気を築くのとは対照的に、OSKは低迷の一途をたどる。特に1970年代後半には劇団員の数・新規入団者の数も激減する[4]。
さらにOSKはダンスのレベルの高さを大きな特徴としていたことが、皮肉にも1980年代のミュージカルブームにも乗り遅れる結果となった[5]。1982年(昭和57年)には創立60周年記念公演「楊貴妃」がヒットし観客も6割増加。あやめ池撤退と新劇場(後の近鉄劇場)での常打ち公演の計画も持ち上がった[6]。この後、劇団創立65周年を機に、1987年(昭和62年)より近鉄劇場でのミュージカル公演を定例化。大阪中心部での公演がようやく再開するが、当初の発表と異なり常打ちではなく年1回の公演に留まった。
また1990年代には、あやめ池遊園地で童話を題材にしたファミリーミュージカル路線を打ち出す。2000年代に入り北林佐和子らによる和物ミュージカル「闇の貴公子」等が近鉄時代末期のヒット作となった。
この時期、1998年(平成10年)頃より、親会社近鉄の業績悪化に伴い、歌劇団にも経営自立が求められるようになった[5]。しかし本来レビュー劇団であるにもかかわらず、劇場での公演回数は減少。ホテルや志摩スペイン村(テーマパーク)等のショー、プロ野球球団の大阪近鉄バファローズの応援パフォーマンス出演等が収入源となっていた[5]が、これらの出演も激減し業績が悪化。
2002年(平成14年)6月27日、近鉄からの支援打ち切りに伴う解散が発表され、翌日に劇団員にも正式に通達された[7]。通告を受けた翌日から最上級生(当時)の吉津たかしと男役スターの一人大貴誠を中心に劇団の存続活動が開始され、同年8月には当時の団員71名全員によりOSK存続の会(代表:吉津たかし)が結成された。OSK存続の会は翌年5月までに約20万人分のOSK日本歌劇団存続の嘆願署名を集めたが、近鉄側の決定を覆すことは結局できず、2003年(平成15年)5月近鉄劇場公演「Endless Dream~終わりなき夢~」を最後に解散し、81年の歴史に一旦幕を下ろした。解散公演時の団員数は69名。
近鉄グループのリストラ策の一環であった。なお解散時の出資比率は近鉄が15%、子会社の近鉄興業=解散が85%。翌年にはバファローズも同様に解散し、あやめ池遊園地も2004年に閉園した。
新OSK時代
しかし団員はその後も存続運動を続け、2003年(平成15年)8月にはOSK存続の会による立上げ公演「熱烈歌劇 re-Birth~OSK復活のススメ~」が近鉄劇場でおこなわれた。同年9月にはOSK存続の会を支援していた経営コンサルタントを社長とし、残存の団員全員を株主とする「株式会社 OSK存続の会」が設立される。
近畿日本鉄道側との話し合いにおいて「"OSK存続の会"が"OSK日本歌劇団"の正当な後継者であること」が確認され[8]、同月12日に商標権問題に決着がついたことが公表された。これに伴い衣装等の資材も引き継いだ。また劇団付属の研修所が開設され、歌劇学校閉鎖以来途絶えていた新人の育成も再開される。
2004年(平成16年)4月、大阪松竹座での「春のおどり」復活を機にNewOSK日本歌劇団として旗揚げ。この時点で、近鉄時代から残留した団員は23名(+研修生9名)。同年10月1日付けで会社名も「NewOSK日本歌劇団」に変更した。
松竹座公演および小劇場:世界館での定期公演をメインに活動していたが、赤字経営が続き、法人としてのNewOSK日本歌劇団は、2006年12月期決算で約8400万円の営業赤字となった。その後も経営状態の悪化、劇団員への給料の遅配が続いたため、自主再建を断念。大阪地方裁判所に民事再生法による再生手続き開始申請を行い、2007年(平成19年)9月17日付けで再生手続き開始の決定が出た。再生手続き開始後も公演活動は予定通り行われた。
その後、吹田市のイベント企画会社「ワンズ・カンパニー」に事業譲渡され、名称は再びOSK日本歌劇団となった。2009年(平成21年)2月に、株式会社として独立した。
年表
- 1922年4月 「松竹楽劇部」として創設。
- 1928年 浅草松竹座で初の東京公演(のちに東京からは撤退)。
- 1933年 大阪劇場(大劇)が開業、本拠地に。
- 1934年 「大阪松竹少女歌劇団(OSSK)」に改称。
- 1943年 「大阪松竹歌劇団(OSK)」に改称。
- 1950年 近鉄あやめ池遊園地で初興行。
- 1956年3月 あやめ池遊園地内に円形大劇場と養成所が完成、定期公演を開始。
- 1957年 松竹本体から「株式会社大阪松竹歌劇団」として分離。千土地興行と近畿日本鉄道が経営に参加
- この年封切りのハリウッド映画アカデミー賞作品「サヨナラ」に劇団が出演。
- 1963年 「日本歌劇団(NKD)」に改称。同年3月に大劇にて舞台稽古中に事故が発生し40余名が重軽傷。
- 1967年 大阪劇場が閉鎖、あやめ池に本拠地を移転。
- 1971年 近畿日本鉄道が子会社化して「OSK日本歌劇団」(株式会社日本歌劇団)となる。
- 1988年 東大阪市に本社事務所を移転、稽古場を併設。
- 1992年 創立70周年を記念し、東京公演を再開。
- 1995年 千土地興業の後身日本ドリーム観光を吸収して以来株主だったダイエーが撤退。
- 1997年 近鉄バファローズの大阪ドーム移転に伴い、若手20名を起用して「OSKチアリーディングチーム」結成。
- 2001年 日本歌劇学校の新規募集を停止。
- 2002年6月 近鉄から支援打ち切りと翌年解散の通告。団員有志により「OSK存続の会」が結成。
- 2003年5月 最終公演「Endless Dream」をもって解散。
- 同年 "存続の会"が近鉄劇場にて「熱烈歌劇 re-BIRTH」上演、たけふ菊人形公演等、活動を継続
- 同年10月1日 「存続の会」が正式に名称を「NewOSK日本歌劇団」に改称。
- 2007年 民事再生手続きを開始し、劇団は譲渡されワンズカンパニーの傘下になる。名称は再び「OSK日本歌劇団」に改称。
- 同年11月 52年ぶりに京都南座で公演を実施。
- 2009年 株式会社OSK日本歌劇団として独立。
公演システム
松竹時代
近鉄時代
- あやめ池公演 - 春・夏・秋に実施(夏季は実施されない年度もあり)
- 近鉄劇場公演 - 春に特別公演を実施。劇団員の初舞台公演
現在
- 春のおどり - 大阪松竹座にてレビュー上演
- 秋のおどり - 大阪松竹座にてレビュー上演(2004年,2006年)
- レビュー in KYOTO - 京都南座にてレビュー上演。2007年は秋、それ以降は夏。
- たけふ菊人形 - 秋(10-11月)に1ヶ月程度レビュー上演。
主なスター
男役
娘役
- チェリー・ガールズ
- 2007年南座公演より、娘役スター5名によるユニットが結成され、舞台やイベントで活躍している。退団や昇格に伴い、メンバーが入れ替わる。
- 第1期、春咲巴香・牧名ことり・珂逢こころ・恋羽みう・瀬乃明日華
- 第2期、珂逢こころ・恋羽みう・白藤麗華・瀬乃明日華・和紗くるみ
OSK日本歌劇団研修所
日本歌劇学校の募集停止(事実上の廃校)以後、新規の入団が途絶えていた。未婚女性からなるレビュー劇団において、新規の団員獲得は死活問題であった。
現在は大阪市西区に所在。本科・研究科の2年制で毎年1月ごろに試験を行っている。定員20名。受験資格は中卒以上23歳未満で身長158cm以上の未婚の女性。卒業後に入団試験があり、その成績により入団が決まる。
授業時間は1科目が1時間50分で1日3科目。バレエ・日舞・声楽などに研鑽を重ねる。講師は辻野満理(声楽)、黒瀬美紀(バレエ)、藤間豊宏(日舞)、鈴木健之亮(演劇)、中野栄里子(ジャズダンス)ら。所長は奥山賀津子。
主な楽曲
- 「桜咲く国」
- 「虹色のかなたへ」
- 1992年(平成4年)に創立70周年記念に作られたイメージソングである。歌詞又は曲を一般公募し、作詞:549点、作曲:161点の合計710作品の中から、大阪府の岩野恵造の詞が最優秀賞に選ばれた[10]。これを原案に作詞・海野洋司、作曲・宮川泰がそれぞれ担当し、同年の記念公演「ARABESUQUE」にて発表された。
主な作品
- 「シンデレラ・パリ」(1977年,1990年)
- 「果てしなき流れの果てに」(1988年)原作:小松左京
- 「アップフェルラント物語」(1992年)原作:田中芳樹
- 「天上の虹~星になった万葉人~」(1995年)原作:里中満智子
- 「青春革命~スローバラードは歌えない~」(1995年)
- 「レディ・アンをさがして~Looking for Lady Anne~」(1996年)原作:氷室冴子
- 「セロ弾きのゴーシュ」(1996年)原作:宮沢賢治
- 「上海夜想曲」(1997年)
- 「アラビアン・ナイトロマン~アラジンとアリババの宝物~」(2000年)
- 「闇の貴公子~源博雅と安倍晴明~」(2001年)原作:夢枕獏「陰陽師」
- 「新・闇の貴公子」(2003年)
主な出身者
- 笠置シヅ子 - 歌手:旧芸名は三笠静子、笠置シズ子。
- 秋月恵美子 - 退団後、日本歌劇学校講師を務める。
- 芦原千津子
- メリー喜多川 - ジャニーズ事務所取締役。
- 京マチ子 - 女優。
- 中川きぬ子 - 退団後、桂米朝と結婚。在団中の芸名は駒ひかる。
- 安西郷子 - 女優:退団後、新東宝→東宝で活躍。三橋達也と結婚を機に引退。
- 石井トミコ - 女優。日本におけるグラビアアイドルのはしり。旧芸名は石井富子(本名)。
- 林美智子 - 女優。
- 近藤英子 - 実業家。
- 長谷川恵子 (OSK日本歌劇団) - 旧芸名は若月恵子。元娘役トップスター(後年は名脇役として活躍)。
- 千賀かほる- 歌手。
- 煌みちる -元トップスター、元研修所所長。
- 大貴誠 - 元トップスター。
- 若木志帆 - 女優、元娘役トップスター。
- 湖上芽映 - 女優、元娘役トップスター。
- 瀬戸カトリーヌ- 女優・タレント。阪神・淡路大震災に被災し、初舞台当日付で舞台を踏むことなく退団。
海外公演
()内は訪問国。地名・国名、国旗は当時。
- 画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦)
- 画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦)
- 1967年(昭和42年)8月 - 第1回ポーランド公演(
ポーランド) - 画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦)
- 1968年(昭和43年)9月 - 第2回ポーランド公演(
ポーランド) - 1969年(昭和44年)3〜6月 - 第1回アメリカ公演(
アメリカ合衆国)
- 演目:「春のおどり」「100万ドルの饗宴」
- 演目:「キング・オブ・レビュー」
- 演目:「春のおどり」
- 1972年(昭和47年)10〜12月 - 第2回香港公演(
香港) - 1973年(昭和48年)12〜翌年1月 - 第3回香港公演(
香港) - 画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦)
- 1974年(昭和49年)7〜8月 - 第3回ポーランド公演(
ポーランド) - 1977年(昭和52年)2月 - 第4回香港公演(
香港) - 1980年(昭和55年)6〜7月 - 第5回香港公演(
香港) - 1980年(昭和55年)12〜翌年1月 - 第2回台湾公演(
中華民国) - 1988年(昭和63年)9〜10月 - 第3回台湾公演(
中華民国)
- 演目:「夢の旅人 NAKAMARO」
- 上海万博出演のため
その他
- 日本歌劇学校(かつての養成機関。千日前にあったが、1956年にあやめ池に移転)
- 大正〜昭和初期には全国各地に少女歌劇団が存在するも1990年代までに激減し、宝塚が全国的に有名になったことで「もどき劇団」といわれの無い扱いを受けることがあった。
脚注
- ^ 3月3日より「世界に見せる 春のおどり」を上演予定だった
- ^ その後の法改正により、現在では女子保護規定は廃止されている
- ^ 。宝塚の親会社は阪急電鉄であり、本拠地は宝塚ファミリーランドと隣接していた。
- ^ 1997年9月2日朝日新聞夕刊「舞台去ってもコンビは続く:上 - 東雲さん・友美さん」
- ^ a b c 1998年3月11日 朝日新聞夕刊 「OSK正念場 親会社の近鉄、経営自立迫る」
- ^ 1983年3月10日読売新聞「OSK人気復活 押せ押せムード」
- ^ 解散通告に先立ち、劇団員の養成機関・日本歌劇学校も2000年(平成12年)より募集を停止し、翌年に最後の卒業生を出して休校している
- ^ サンケイスポーツ2003年9月13日 「OSK存続の会」が名称継承
- ^ 松竹座でのOSKの公演自体は、1946年の「ラ・ボンバ~踊る秋月恵美子~」以来58年ぶり。
- ^ 1992年5月2日 朝日新聞「OSKのイメージソング 最優秀賞に岩野恵造さん」
関連項目
外部リンク
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