太平洋戦争

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太平洋戦争

真珠湾攻撃で炎上中の米戦艦ウェストバージニア
戦争第二次世界大戦/大東亜戦争
年月日1941年12月7日ハワイ時間) – 1945年9月2日(または8月14日[1]
場所太平洋東北アジア東南アジアインドシナインド洋オセアニア
結果:連合国の勝利。日本のポツダム宣言受諾
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国
タイ王国(1942)
満州国
Flag of the Republic of China 中華民国南京政府
蒙古自治邦政府
自由インド仮政府(1943)


ヴィシーフランス
(フランス領防衛)

アメリカ合衆国
大英帝国
オランダ王国
Flag of the Republic of China 中華民国重慶政府
オーストラリア連邦

画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦(1945)


南アフリカ連邦
(フランス領侵攻)

指揮官
日本の旗昭和天皇

タイ王国の旗 ピブン
張景恵
Flag of the Republic of China 汪兆銘
デムチュクドンロブ
スバス・チャンドラ・ボース

アメリカ合衆国の旗 フランクリン・ルーズベルト(41-45)
アメリカ合衆国の旗 ハリー・トルーマン(45-)
ウィンストン・チャーチル
クレメント・アトリー(45-)
Flag of the Republic of China 蒋介石
ジョン・カーティン
ヨシフ・スターリン
損害
軍人1,740,955

民間人 393,000

アメリカ合衆国 354,523

イギリス 86,838 その他 300,000

太平洋戦争(たいへいようせんそう、: Pacific War)は、第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国日本)など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国イギリス帝国フランス共和国オーストラリア連邦など)との戦争である。

太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、開戦を機に蒋介石中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた紛争(日中戦争支那事変)も包括する戦争となった。

目次

名称と期間

太平洋戦争」という名称は、連合国占領期連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で当時の日本側の正式な呼称であった「大東亜戦争」を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせる検閲によって定着した名称である。名称は、主戦場が太平洋地域であったことにちなむ。

戦争の期間は、1941年12月7日(ハワイ現地時間。日本時間では12月8日)から、大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日とされるのが一般的である。

現在の日本においては、戦争の経緯や目的の違いから「日中戦争」と「太平洋戦争」とが別個の戦争として認識されることも多いが、当時使用された「大東亜戦争」は日中戦争(当時の呼称は「支那事変」)もその範疇に含む概念であった。現在においても対中戦争と対米英戦争を区別しない概念として、「15年戦争」(満州事変~太平洋戦争まで)、「昭和戦争」、「アジア・太平洋戦争」などの用語が使用されている。

イギリスでは「War with Japan(対日戦争)」と呼ばれ、アメリカでは「Pacific Theater(太平洋戦域)」という術語が広く使用された[2]ヨーロッパでは、日中戦争は第二次世界大戦とは区別されず、日中戦争が発生した1937年7月7日からを太平洋戦争の始期とみなすことがある。

中華民国中華人民共和国(1949年以後の中国)では「中日戦争」として認識され、8年間としている。

関与した国家・勢力

※は途中で陣営替えを行った国・勢力

枢軸国

  • 戦闘参加国
日本の旗 大日本帝国(1941-45)
タイ王国(1942-45)
満州国(1941-45)
中華民国南京政府(1941-45)
蒙古自治邦政府(1941-45)
自由インド仮政府(1943-45)
画像:Burma flag(1943).gif ビルマ独立義勇軍(1941-42のビルマ進攻作戦のみ)
  • 協力・支援国
仏印政府(1941-1945・ ヴィシー政権下のフランス)
画像:Flag of Germany 1933.svg ドイツ(1941-1945、遣日潜水艦作戦や柳船など)
イタリア王国 イタリア王国(1941-1943、遣日潜水艦作戦など※)
  • 連合国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国
画像:Burma flag(1943).gif ビルマ国(1943-1945)
フィリピン第二共和国(1943-45)
ベトナム帝国(1945-)
ラオス王国<noinclude>(1945-)
カンボジア王国(1945-)
ギリシャ(1941-1945)
クロアチア独立国(1941-1945)
画像:Flag of Bulgaria (1878-1944).svg ブルガリア(1941-1944※)
独立スロバキア(1941-1945)
ハンガリー王国(1941-1944※)
ルーマニア王国(1941-1944※)
セルビア救国政府(1941-1944※)
ピンドス公国・マケドニア公国(1941-1944)
フィンランド共和国(1941-1944※)
ロシア諸民族解放委員会(1944-1945)

連合国

  • 戦闘参加国
アメリカ合衆国(1941-1945)
イギリス(1941-1945)
オーストラリア ニュージーランド連合軍(1941-1945)
カナダ(1941-1945)
オランダ(1941-1945)
中華民国重慶政府(1941-1945)
画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦(1945)
蒙古人民共和国(1945)
八路軍(1941-1945)
自由フランス(1945)
  • 参戦兵力の多かった統治領
インドイギリス領インド
イギリス領マラヤ
アメリカ領フィリピン

  • 枢軸国側に宣戦布告をしたが太平洋戦争には参加していない国
南アフリカ連邦(1941-45)
レバノン(1943-45)
エルサルバドル(1941-45)
コスタリカ(1941-45)
ドミニカの旗 ドミニカ国(イギリス委任統治領)(1941-45)
ニカラグア(1941-45)
ハイチ(1941-45)
グアテマラ(1941-45)
ホンジュラス(1941-45)
パナマ(1941-45)
キューバ(1941-45)
ノルウェー(1941-45)
リベリア(1941-45)
エジプト王国(1941-45)
シリア(フランス統治委任領)(1941-45)
サウジアラビア(1941-45)
イラク(1941-45)
イラン(1941-45)
メキシコ(1942-45)
ブラジル(1942-45)
コロンビア(1943-45)
ボリビア(1943-45)
イタリア王国(※1943-45)
フィンランド フィンランド(※1944-45)
ルーマニア(※1944-45)
画像:Flag of Bulgaria (1878-1944).svg ブルガリア(※1944-45)
ペルー(1945)
ベネズエラ(1945)
ウルグアイ(1945)
パラグアイ(1945)
エクアドル(1945)
トルコ(1945)
アルゼンチン(1945)
チリの旗 チリ(1945)
ベルギー(1945)

他の勢力

日本軍の支援でつくられた郷土義勇軍
インド国民軍
ビルマ防衛軍(ミャンマー
郷土防衛義勇軍インドネシア
スマトラ義勇軍(インドネシア)
ボルネオ義勇軍(インドネシア)
ジャワ防衛義勇軍(インドネシア)
マレー義勇軍(マレーシア
マレー義勇隊(マレーシア)
越南青年先鋒隊(ベトナム
フィリピン人義勇軍〈マカピリ〉(フィリピン
比島ラウエル大統領付親衛隊(フィリピン)
石家荘白系ロシア人義勇軍(中国
皇協維新軍(中国)
中華民国臨時政府軍(中国)
皇協新中華救国民軍(中国)
満洲イスラム教徒騎兵団(満洲
その他
大韓民国臨時政府
マカピリ(フィリピンの親日武装組織)
フクバラハップ(フィリピン共産党の抗日武装組織)
抗日マラヤ人民軍(マレーシア華僑抗日武装組織)
フォース136(英軍によって訓練されたゲリラ部隊)
東南アジアボランティア軍(華僑武装組織)
ニューギニア族民兵(両陣営の原住民兵として参加[3])

参戦国の戦争目的と関与動機(要因)

枢軸国

日本の旗 大日本帝国
アメリカとの外交摩擦(人種差別撤廃案阻止排日移民法などの人種差別
日本政府の対外政策の失敗(支那事変の長期化と国際問題化)と外交政策(日米交渉)の不成立により起こった安全保障問題解決の戦争
タイ王国
日本が唱えた『大東亜共栄圏』構想への同調とアジアの植民地解放のための戦争(日泰攻守同盟条約
連合軍の攻撃による安全保障戦争
満州国
日本への同調と満洲国の自存存立のための戦争
中華民国南京国民政府
中国共産党軍とのイデオロギー戦争
中国共産党と同調する蒋介石との対立、中国軍閥の統一戦争
蒋介石の長沙の焦土戦術共産督戦隊制度など中国民衆を巻き込んだ戦いや戦法に対する反発。
蒙古自治邦政府
モンゴル外モンゴル内モンゴル)のソ連・中華民国からの解放と独立のための戦争
共産圏(蒙古人民共和国)とのイデオロギー戦争
自由インド仮政府
インドの英国領からの解放と独立のための戦争
日本が唱えた『大東亜共栄圏』構想への同調とアジアの植民地解放ための戦争
画像:Burma flag(1943).gif ビルマ独立義勇軍
ビルマの英国領からの解放と独立のための戦争

連合国

アメリカ合衆国
ナチス・ドイツとのイデオロギー戦争
自国の安全保障上の戦争
太平洋フィリピンでの自国権益保護のための戦争
イギリス
中国大陸マレー、インド、太平洋での自国権益保護のための戦争
オランダ
東インド諸島での自国権益保護のための戦争
(終戦時にインドネシア独立戦争へ移行)
中華民国
西安事件によるスターリンとの約束による対日戦争[4]日中戦争を参照)
中華民国南京国民政府などの地方軍閥の統一戦争
オーストラリア ニュージーランド連合軍
宗主国である英国への同調と安全保障上の戦争
画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦 蒙古人民共和国 連合軍
極東における権益と共産主義勢力の拡大を狙った戦争
自由フランス
インドシナ半島での自国権益保護のための戦争
(後にベトナム独立戦争が勃発する)

開戦前史

中国戦線の泥沼化と三国同盟の締結
中国大陸の勢力図(1940年)
中国大陸の勢力図(1940年)
国際世論を動かした有名な一枚
国際世論を動かした有名な一枚
ドイツのフランス占領(1940年)
ドイツのフランス占領(1940年)

1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争支那事変)において、大日本帝国政府は現地解決・不拡大方針など事態を最小限で収拾しようと試みたが、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、二・二六事件以後から行われるようになった軍隊による政治干渉などの内政的な不安に加え、大紅門事件、蘆溝橋城中国軍発砲事件、郎坊事件広安門事件、大山中尉殺害事件、第二次上海事変など度重なる中華民国軍側による挑発・攻撃行動が発生、通州事件などが発生し在中邦人への危険性が迫ったことなどから軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展してしまった。日本軍は、北京上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。日華事変の戦線は伸び未曽有の長期戦に陥っていた。

劣勢にあった中華民国の指導者の蒋介石は、国際世論(欧米世論)を友につけるために、国民党中央宣伝部国際宣伝処[5]を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。これに対しニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し日華事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになった。また中国大陸に大きな権益を持っていたイギリス、満洲(石井・ランシング協定)以来大陸進出の機会を窺っていたアメリカは日本による中国大陸の平定とそれに伴う中国の覚醒(日本式精神・教育)が欧米諸国が支配していたインドアジアアフリカなどの植民地世界に影響を及ぼすことを恐れ、[要出典]撤兵を求めた。一方、大日本帝国政府は1940年(昭和15年)9月27日ナチス・ドイツ政府や、イタリア王国政府と日独伊三国軍事同盟を締結して国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、日米関係を一層改悪する結果となった。

第二次欧州戦線の勃発と欧米の情勢

1939年ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻したことによって欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国が連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定[6]を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にも関わらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった[7]。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。そんな中、ドイツと同盟関係にあり、仏印進駐を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めてきた。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となると共に、第一撃を日本に加えさせる[8]ことで、国内の孤立主義派を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えられた[9]

タイ王国による南部仏印侵攻

1940年11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。

日米交渉の決裂と南進論の活発化

米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省海軍)が使用していた暗号解読機九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。

一方日本は、1940年、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナ北部に進駐し、援蒋仏印ルートを遮断したが、新たにビルマを経由する援蒋ビルマルートが作られた。

第32代アメリカ大統領 フランクリン・ルーズベルト
第32代アメリカ大統領
フランクリン・ルーズベルト
米国立暗号博物館九七式欧文印刷機部品
米国立暗号博物館
九七式欧文印刷機部品

1941年4月から日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を開始したが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」[10](対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月28日南部仏印へも進駐した。

これに対しアメリカ[11]7月25日に在米日本資産を凍結[12]8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した(ABCD包囲陣)。この制裁は石油や鉄類、工作機械などの70%以上をアメリカから輸入していた日本にとって致命的なものであった。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなかく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。一方、8月25日にイギリスやソビエトと共同してイラン進駐を行っているがこれに対しては欧米列強の非難はなかった。

9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

1941年10月18日に発足した東條挙国一致内閣
1941年10月18日に発足した東條挙国一致内閣

戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月18日に近衞内閣は総辞職する。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。

11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。

11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使野村吉三郎大使コーデル・ハル国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた[13]こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。またアメリカ海軍は同26日にアジアの潜水艦部隊に対し無制限潜水艦作戦[14]を発令した。

宣戦布告と開戦

日本陸軍が日本時間12月8日午前1時30分に、イギリス領マレー半島に上陸(マレー作戦)し、宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。

なお、日本のアメリカに対する最後通牒は、日本時間12月8日月曜日午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交する予定であった。12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。しかし、書記官室の寺崎英成一等書記官転勤の送別会が終了した後、タイプ役の奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをしており、井口貞夫参事官の指示で当直もなかったため、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成された[15]

日本海軍航空隊による真珠湾攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。

日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使が米国務省コーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。

日本が真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したことは「日本によるだまし討ち」として喧伝され、アメリカ国民に広範な憤激を引き起こし、アメリカにおいて「卑劣な国家」としての日本のイメージを定着させる原因となった。しかし、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略である」とする真珠湾攻撃陰謀説の根拠となっている。

また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。

日本首脳部の戦略と見通し

日本政府内閣陸軍省海軍省等)

  • 1941年9月6日の御前会議前日、昭和天皇が陸軍の杉山元参謀総長に「(太平洋戦争は)絶対に勝てるか!?」と一喝された際、「絶対とは申し兼ねます」と答えている。また11月4日の天皇臨席の軍事参議官会議でも同様の質問がなげかけられたが海軍の永野修身軍令部総長は「予見を得ず」と答え、首相兼陸軍相の東條英機は「戦争の短期終結は希望するところにして種々考慮するところあるも名案なし」と曖昧な返事で逃れるなど、裏付された勝算はなく開戦に突入した。

大本営陸海軍部

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陸軍

参謀本部
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関東軍首脳部
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海軍

軍令部
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連合艦隊司令部
  • 当時連合艦隊司令長官だった山本五十六は日米開戦についてアメリカとの国力の違いも認識しており、昭和15年(1940年)、当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」(原文のまま)[16][17]と発言している。
  • 戦後の海軍反省会において、開戦時に軍令部参謀だった佐薙毅らは軍令部総長の永野修身が「日本中が開戦ムードの中、海軍だけが反対できるような雰囲気でない」と語っていたという証言を残している、

開戦時までの日本国内の風潮

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戦争の経過

年代順の経過については太平洋戦争の年表を参照

日本軍の攻勢

占領地域を広げる日本(1937年から1942年)
占領地域を広げる日本(1937年から1942年)

1940年9月以降日本軍は仏印進駐を行なっており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。12月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島コタバルと、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラの陸軍部隊の上陸(マレー作戦の開始)と、同日行なわれた日本海軍によるハワイ真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃フィリピンへの空爆、香港への攻撃開始、12月10日イギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったたタイにまで日本軍が軍事侵攻したことは、最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りも買うことになった。

マレー半島に上陸した日本陸軍
マレー半島に上陸した日本陸軍

なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし、イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告は、駐アメリカ大使館による暗号文の書き起こしとタイプ遅延などのために外務省の指令時間より1時間近く遅れたため、英米への攻撃が「宣戦布告なしのだまし討ちである」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなった。なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったにも関わらず、このように喧伝されることはなかった。

日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。

また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。

日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)
日本海軍による真珠湾攻撃で雷撃を受けるアメリカ海軍戦艦(1941年)

しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。

日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス
日本海軍の攻撃を受けるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルス

一方、真珠湾攻撃の2日後に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍は、日本海軍航空機(九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に失った。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。

この後日本軍は、連合軍の拠点(植民地)であるマレー半島[18]フィリピン[19]ボルネオ島(カリマンタン島)[20]ジャワ島スマトラ島[21]などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった[22]

真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。

ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵
ビルマ国境付近で日本軍と戦う中国兵
降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将
降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将

前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。

1942年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。

イギリス海軍のドーセットシャー
イギリス海軍のドーセットシャー

日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。

日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士
日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士

同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[23]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。

この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランスが統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。

サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令
サンフランシスコ市内に張り出された日本軍機による空襲時のシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令

第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦いニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本は戦争資源を消耗してゆくことになる。

珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン
珊瑚海海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍の空母レキシントン

1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は空母レキシントンを失ったが、日本軍も空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失 敗する。

戦局の転換期

ミッドウェー海戦で急降下爆撃機と戦闘を繰り広げる日本海軍の空母飛龍
ミッドウェー海戦急降下爆撃機と戦闘を繰り広げる日本海軍の空母飛龍

4月、空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受けた海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定する。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母ですぐ戦場に移動できるのは瑞鶴翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画され大鳳雲龍天城葛城を筆頭に信濃伊吹などの建造を行なうが、艦載機・搭乗員・燃料の不足により開戦時に匹敵するような能力の機動部隊運用は終戦時まで困難なままであった。対するアメリカは、終戦までにエセックス級空母を14隻建造している。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する。

ミッドウェー海戦において戦闘力が下がったものの、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機や大型機などによりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、工場地帯の壊滅や森林火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。なお、アメリカ政府は、ミッドウェー海戦において勝利を収めたものの、国民感情に悪影響を及ぼさないために、この初の本土空襲の事実を公開しなかった。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。

ミッドウェー海戦により、日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。(ただしミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達している)8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、日本軍が建設し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかった。

伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプ
伊19潜水艦の放った魚雷が命中、炎上するアメリカ海軍の空母ワスプ

その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が無いという危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。

太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)
太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)

1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となっていた。2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘はまだ続いたものの、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。

1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将[24]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。

1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島アッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での趨勢は最早決していたため、戦況には大きな影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。

連合軍の反攻

開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半からいよいよ反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。

大東亜会議に参加した各国首脳
大東亜会議に参加した各国首脳

同月に日本の東條英機首相は、満州国タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。

ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。1944年3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を軽視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。

5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。

連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。

東條首相と閣僚
東條首相と閣僚

しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍機動部隊はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こす。日本機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃したものの、圧倒的な工業力を基に空母を多数竣工させていたアメリカ側は15隻もの空母を基幹とし、更に日本の倍近い艦船を護衛につけるという磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫することとなる。旗艦であった大鳳以下空母3隻、その他多くの艦載機と熟練搭乗員を失った日本機動部隊は文字どおり壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。

サイパンに上陸するアメリカ兵
サイパンに上陸するアメリカ兵

陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島テニアン島グアム島に次々に上陸。7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島グアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃圏内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。太平洋上の最重要地点であるサイパン島を失った打撃は大きく、攻勢のための布石は完全に無力と化した。

これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発には時間がかかった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。

レイテ沖海戦から始まった特攻。写真は護衛空母ホワイト・プレインズに突入する零戦52型
レイテ沖海戦から始まった特攻。写真は護衛空母ホワイト・プレインズに突入する零戦52型

各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衞文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。

レイテ沖海戦で日本機の攻撃を受け沈没するアメリカ空母プリンストン
レイテ沖海戦で日本機の攻撃を受け沈没するアメリカ空母プリンストン
アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母瑞鶴(10月25日14時14分沈没)
アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母瑞鶴(10月25日14時14分沈没)

この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。

10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。

レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。

戦争末期

前年のフィリピンレイテ島やミンドロ島における戦いに勝利を収め、1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要衝であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった[25]

焼夷弾を投下するアメリカ軍のボーイングB-29戦略爆撃機
焼夷弾を投下するアメリカ軍のボーイングB-29戦略爆撃機

前年末から、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。日本軍はB-29を撃墜するための新型戦闘機「震電」などの迎撃機の開発を進めることになるが実用化には至らず、既存の戦闘機で体当たり戦法などを用い必死に抵抗したが、高高度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。

3月10日には大規模な無差別爆撃である東京大空襲が行われ、一夜にして10万人もの命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が在マリアナ空軍総司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪名古屋神戸静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。

硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT
硫黄島で日本軍の攻撃により擱座したアメリカ軍のLVT
硫黄島で戦死した栗林忠道中将
硫黄島で戦死した栗林忠道中将

また、この一連の爆撃に先立ち、2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した(大戦中期以降、米軍の死傷者が日本軍のそれを上回った数少ない地上戦の1つ)。最終的に日本は硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。

迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策法を編み出していた米軍に対し、やや勢いが劣りがちであった。

この頃満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。

沖縄沖で日本海軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母「HMSヴィクトリアス」
沖縄沖で日本海軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍空母「HMSヴィクトリアス
沖縄の宜野湾付近に展開するアメリカ兵
沖縄の宜野湾付近に展開するアメリカ兵

その後、5月7日には同盟国の中で最後まで抵抗していたドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙していくことになる。(とはいえ、元々ドイツとは距離的に離れていたこともあって、当初から実質的に一国で戦っていたようなものだったが)このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったものの、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介に最後の期待を賭してポツダム宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。

米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和(1945年4月7日)

その頃、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は次に沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃にも拘らず、連合軍側は6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である戦艦大和も4月7日に撃沈され(一応、大和を沈めるべく投入されたアメリカ軍の主要兵器も大半が被弾しており翼や武器がもげたものもあった。)、残されたのは長門榛名を筆頭とする戦艦部隊と雪風を筆頭とする「駆逐艦」の艦隊や特攻兵器の「震洋」の部隊・葛城ら少数の艦隊のみであった。

この頃には、日本軍の制空権や制海権はほぼ消失し、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与えるなど、日本陸海軍も必死の反撃を行うものの、戦争経済に関する大局観を当初から欠いている上、日本の降伏はもはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの日本の戦争終結により実行されなかった。1945年7月26日に連合国によりポツダム宣言が宣言される。

広島に投下された原子爆弾のきのこ雲
広島に投下された原子爆弾のきのこ雲
原子爆弾で破壊された長崎の浦上天主堂
原子爆弾で破壊された長崎浦上天主堂

アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという名目と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどから開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。

その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。

6月22日の御前会議に置いて昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、多面、戦争の集結についても、この際従来の観念にとらわれる事無く、速やかに具体的研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結の事を口にされた。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍とちがって陸軍は、降伏を回避しようとしたので御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8月14日ポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。

降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官
降伏文書に調印する日本全権。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣。その左後方に侍しているのは加瀬俊一大臣秘書官

翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太千島・満州国への攻撃を継続した。8月14日には葛根廟事件が起きた。そのような中で8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した(三船殉難事件)。

また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。

9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席[26]の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。しかし、南樺太千島列島では、9月4日までソ連軍との間で大規模な戦闘が行われた。また、沖縄南洋諸島においては、兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者がでた。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争ベトナム独立戦争国共内戦などに多数の元日本軍将兵が参加することとなった。

海外在住の日系人

詳細は「日系人の強制収容」を参照

フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊第442連隊戦闘団
フランス領内を進軍するアメリカ軍日系人部隊第442連隊戦闘団

戦前から安い賃金でよく働くという日本人移民が生粋の自国民の職を奪うとしてアメリカオーストラリアカナダペルーブラジルなどをはじめに日移民法が行われていた。このことは、欧米と日本の信頼関係を低下させることにつながると共に移民者は差別や偏見を受けていた(注意:当時は白人至上主義絶世期だったため、日本人のみに限らず、有色人種に対する差別や偏見も激しかった)。太平洋戦争がはじまるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも、「敵性市民」として財産を没収されてアメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた(この際同じように敵国だったドイツ系の住民やイタリア系の住民は収容所に送られることが無かったことから人種差別だとする意見も存在する)。アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日の丸を掲げるなど遺憾の意を示した。その一方でアメリカ育ちの移民日本人2世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線(米軍は日系日本人が離反し日本側に付くことを恐れたため、太平洋戦線ではなく欧州戦線へ投入された)の最前線に送られた。戦線での日系部隊の活躍はすさまじく、半数以上の犠牲をはらいつつも任務を遂行し、活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊となった。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。しかし、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別と偏見は長い間変わることはなかった。

資料

写真資料

開戦・終戦を告げるラジオ放送

当時のNHKの放送である。開戦の詔書、終戦の詔書も参照。

  • 画像:News of the outbreak of the Pacific War(Empire of Japan).ogg
    画像:News of the outbreak of the Pacific War(Empire of Japan).ogg
    太平洋戦争開戦の臨時ニュース。大本営陸海軍部の昭和16年(1941年)12月8日午前6時発表。
  • うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。
  • 画像:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg
    画像:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg
    玉音放送。昭和天皇が大東亜戦争終結ノ詔書を読み上げるラジオ放送。昭和20年(1945年)8月15日正午放送。
  • うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。

太平洋戦争による被害

経済損失

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人的被害

戦闘参加国

出典:本庄豊『新・ぼくらの太平洋戦争(2002)』ISBN 978-4-87699-688-9
国名参戦期間主戦場犠牲者数(戦闘員)犠牲者数(民間)備考
日本の旗 大日本帝国1941-1945太平洋オセアニア東アジア東南アジア
インド洋インド
1,740,955人393,000人
タイ王国1942-1945インドシナ推計?推計?
満州国1941-1945モンゴル、満洲推計?推計?
中華民国南京政府1941-1945中国大陸推計?-
蒙古自治邦政府1941-1945モンゴル、華北、満洲推計?推計?
自由インド仮政府1943-1945ビルマ、インド、インドシナ推計?-
画像:Burma flag(1943).gif ビルマ独立義勇軍1941-1942ビルマ、インド、インドシナ推計?-
画像:Flag of Germany 1933.svg ドイツ1941-1945太平洋、東南アジア、インド洋推計?推計?
国名参戦期間主戦場犠牲者数(戦闘員)犠牲者数(民間)備考
アメリカ合衆国1941-1945太平洋354,523(太平洋のみ)推計?
イギリス大英帝国1941-1945東南アジア、インド、インドシナ86,838推計?
オランダ1941-1942インドネシア推計?-
中華民国(重慶政府)1941-1945中国大陸、ビルマ150万人-
オーストラリア1941-1942ビルマ、インド、インドシナ推計?-
ニュージーランド1941-1942ビルマ、インド、インドシナ推計?-
自由フランス1945-インドシナ推計?-
画像:Flag of the Soviet Union 1923.svg ソビエト連邦1945-モンゴル、満洲、樺太、千島列島推計?なし
蒙古人民共和国1945-モンゴル、満洲推計?なし

他の戦闘加担勢力

出典:?
加担勢力名所属地域犠牲者数備考
ニューギニア族民兵両陣営ニューギニア推計?民兵
マカリピ日本フィリピン推計?
比島ラウエル大統領付親衛隊日本フィリピン推計?
フクバラハップ米英フィリピン推計?フィリピン共産党系抗日ゲリラ
郷土防衛義勇軍日本インドネシア推計?
インド国民軍日本インド推計?
マレー義勇隊日本マレー半島推計?
マレー義勇軍日本マレー半島推計?
越南青年先鋒隊日本ベトナム推計?
ビルマ国民軍日本→英米インドシナ推計?
抗日マラヤ人民軍英米マレー半島推計?ゲリラ
フォース136英米マレー半島等推計?華僑ゲリラ
東南アジアボランティア軍英米中国大陸・東南アジア推計?華僑ゲリラ
石家荘白系ロシア人義勇軍中国大陸日本推計?
皇協維新軍日本中国大陸推計?
中華民国臨時政府軍日本中国大陸推計?
皇協新中華救国民軍日本中国大陸推計?
満洲イスラム教徒騎兵団日本満洲推計?
紅軍米英満洲・中国大陸等推計?中国共産党系抗日ゲリラ
大韓民国臨時政府米英満洲・中国大陸等推計?朝鮮人ゲリラ

その他

出典:本庄豊『新・ぼくらの太平洋戦争(2002)』ISBN 978-4-87699-688-9
戦災国名(地域)戦時中の人口犠牲者数備考
中国大陸(民衆)4億人推定約500万人はっきりとした裏づけなし。内戦の死者が多数含まれる。
朝鮮半島2550万人推定約20万人従軍(志願及び徴兵),徴用中の戦病死
ベトナム1400万人推定約200万人強制供出による飢餓
インドネシア6150万人推定約200万人労務者としての徴発
フィリピン1630万人推定約105万人両軍の戦闘の巻き添え
シンガポール561万人推計約5000人
マレーシア
ビルマ1500万人約5万人泰緬鉄道の労務者・戦闘の巻き添え

戦後処理と問題

戦争裁判

昭和天皇との会見(1945年9月27日フェレイス撮影3枚のうち29日新聞掲載された写真
昭和天皇との会見(1945年9月27日フェレイス撮影3枚のうち29日新聞掲載された写真
詳細は極東軍事裁判を参照

まず初めにダグラス・マッカーサーの名の下に戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、元総理の東條英機陸軍大将、外交官で元総理の広田弘毅らが連合国により戦犯として裁かれ、7名がA級戦犯として死刑(絞首)に処されたほか、元内大臣の木戸幸一、元陸軍大臣の荒木貞夫らが終身刑、元外相の東郷茂徳は禁固20年、元外相の重光葵は禁固7年となった。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、岸信介児玉誉士夫笹川良一正力松太郎らは不起訴となった。また、フィリピンや中華民国など各地で同じように戦争裁判(B、C級戦犯)が行われた。多くの人々は、これらの裁判に対して、裁判の体を成しておらず、多くの無実の人も罪に問われ処刑されたと、批判している。その理由は全てが事後法による裁きのためである。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の国際法違反行為に対する裁きを受けておらず、勝者による一方的な裁判であった。

占領政策と戦後処理問題

詳細は連合国軍占領下の日本戦後改革を参照

GHQは民主化政策を進めると共に、国力を削ぎ、日本が二度と脅威となる存在にならないよう、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」[27]に沿って、大規模な国家改造を実施した。大日本帝国の国家体制(国体)を解体した上で、新たに連合国(特に、アメリカ合衆国)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行った。また、内務省の廃止や財閥解体農地改革など矢継ぎ早に民主化政策を実施した。並行して日本人の意識改革のため、言論が厳しく統制プレスコードなど)されるとともに、教科書やラジオ(ラジオ放送「眞相はかうだ」等)などのメディアを通じ、情報誘導による民主化政策が実施された。しかしながら、民主化政策はその後の冷戦体制構築のため路線変更され、警察予備隊の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)につながった。

1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、GHQは廃止され、戦後処理は終了した。ただし、この戦後処理はあくまで条約に参加した連合国側の戦後処理であって、日本国日本人としての戦後処理は未だに決着していないとする主張がある。また、占領政策と戦後処理の結果、歴史認識問題や日の丸問題、自衛隊と自衛権の行使問題、日本国憲法改正論議など国内問題や靖国神社問題日本の歴史教科書問題などへの諸外国の干渉や東アジア各国に対する弱腰外交など様々な歪みが生み出されたとする主張がある。

詳細は連合軍軍政期 (朝鮮史)を参照

ソビエト軍アメリカ軍朝鮮半島を分割占領し、朝鮮人の手による朝鮮人民共和国‎の建国を認めず、解体を命じて弾圧を行った。1948年8月13日の韓国独立、1949年9月9日の北朝鮮独立をもって朝鮮民族は独立したが南北分離独立を認めない勢力もあり、済州島四・三事件などの鎮圧事件が起き、まもなく朝鮮戦争が勃発して南北分断が確定することになった。

日本人の引揚げと復員

連合国に降伏を予告した1945年8月14日当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていた。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ロシア国立軍事公文書館の資料によると、ソ連は満州樺太などから日本軍将兵や民間人約76万人をソ連各地に強制連行し、約2000ヶ所の収容所などで強制労働を課した[28]。(シベリア抑留[29]

軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省第二復員省が設置された。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管した[30]

政府は1945年9月28日にまず、舞鶴[31]横浜、浦賀港、仙崎下関門司博多佐世保鹿児島を引揚げ港として指定した。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館名古屋唐津、大竹港、田辺港などでも、引揚げ者の受け入れが行われた。

引揚げと復員者数[32]
【注意】以下の数値は上陸地の港において引揚げ手続きを行った人のみを計上したもの
旧ソ連領(シベリアなど)
(軍人45万3787/民間人1万9165)
満州
(軍人4万1916/民間人100万3609)
北朝鮮(ソ連占領地)
(軍人2万5391/民間人29万7194)
韓国(アメリカ占領地)
(軍人18万1209/民間人41万6110)
琉球諸島(沖縄など)
(軍人5万7364/民間人1万2052)
本土近隣諸島(硫黄島など)
(軍人6万7000/民間人2382)
中国(香港を含む)
(軍人106万9662/民間人71万7009)
台湾
(軍人15万7388/民間人32万2156)
フランス領インドネシア
(軍人2万8710/民間人3593)
東南アジア
(軍人65万5330/民間人5万6177)
オランダ領東インド
(軍人1万4129/民間人1464)
オーストラリア
(軍人13万398/民間人8445)
ニュージーランド
(軍人391/民間人406)
太平洋諸島
(軍人10万3462/民間人2万7506)
ハワイ諸島
(軍人3349/民間人310)

勝戦国に対する賠償と戦後関係

アメリカ合衆国

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大英帝国

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中華民国(中華人民共和国含む)

本大戦とそれに先んじて起きていた日中戦争では、中国大陸において中華民国軍と日本軍の間で激しい攻防戦が行われ、数百万余の犠牲者を出すと共に、日本軍が多数の民間人に対して虐殺・略奪をおこなったとされるが、日中間では地域や規模などについて研究の相違が存在している[33]

太平洋戦争が終わると、中華民国を率いていた中国国民党と、太平洋戦争前から対立していた中国共産党の間で国共内戦が勃発した。そして、1949年には中国共産党が勝利して中華人民共和国を中国大陸に樹立し、敗北した国民党は台湾に逃れた。その後の1952年に、主権を回復した日本国政府は、中華民国を「中国を代表する政府」として承認し、直ちに賠償問題の討議を行ったが、中華民国政府は賠償を放棄した。

その後1972年に中華人民共和国の周恩来首相と日本国の田中角栄首相が会談し、日本は中華人民共和国を「中国を代表する政府」として承認し、併せて中華民国と断交することとなった。なお、この会談において賠償問題についても話し合われたが、中華人民共和国側は中華民国と同様に賠償問題を全面的に棚上げし、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)によって賠償放棄が宣言された。代わりに「隣国として助け合うこと」、「過去の過ちと反省」などの理由から、日本が中華人民共和国の発展のため、政府開発援助(ODA)を実施することが約束された。

日本国は1979年から中華人民共和国に対し行ってきたODA総額は、現在までに3兆円を超え[34]、現在も年間1000億円の資金が中華人民共和国に援助されている。

また一方で、中華人民共和国が実施した政策によって起きた大躍進政策(大量餓死:推計2000万-5000万人)、文化大革命(大虐殺:推計3000万-7000万人)などへの国内批判の払拭と、中華人民共和国の国益のため、反日教育を実施している。日中戦争での犠牲者数はGHQ・中華民国政府が調査発表した130万人(中華民国軍人のみ)が、抗日勝利60周年にあたる2005年には5000万人まで膨れ上がった。

オランダ

オランダは、1942年の日本軍によるオランダ領東インド(蘭印)攻略によって、同地を長く植民地として支配し続けた蘭印軍66,219名(連合軍82,618名)が捕虜とされたほか、民間人9万人余が捕らえられ、彼らが東インド住民を懲罰するために設けた監獄に収容されるという屈辱を味わった。なおオランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所に収容され、そこで被爆した。また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした白馬事件が起こった。

蘭印軍を放逐した日本は、かねてからオランダの圧政下で独立運動を行っていた蘭印の住民に独立を約束し、1945年9月に独立する運びとなっていた。しかし、1945年8月14日ポツダム宣言の調印が各国に予告されると、その3日後の1945年8月17日に、スカルノはインドネシア独立宣言。しかし、オランダ軍はこれを認めず、スカルノら独立運動家とオランダ軍の間でインドネシア独立戦争が勃発した。その後オランダ軍は敗北し、オランダ領東インドは1949年にインドネシアとして独立を果たした。

国家補償・元捕虜や民間人への見舞金の支払い・36億円/昭和31年(1956年・日蘭議定書)
個人補償・2億5500万円/平成13年(2001年・償い事業1)

終戦後オランダは、捕虜虐待などの真偽が不明瞭な容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。戦後間もなくのオランダは、ナチス・ドイツ軍の侵略によって社会が疲弊していた。そんな最中、最大の植民地だった東インドを失い、経済は大打撃を受けた。このことから、独立戦争の要因を作った大日本帝国軍と、独立戦争の指導にあたった日本兵の行為に対する評価も加わり、反日感情が長らく残った。

1971年に、太平洋戦争当時の日本軍大元帥であった昭和天皇がオランダを訪問した際には卵が投げつけられ、1986年にはベアトリクス女王の訪日計画がオランダ国内世論の反発を受けて中止された。その後1991年に来日した女王は、サンフランシスコ平和条約と日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」として賠償を要求した。それに対して日本国政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した。

また2007年にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したフェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」[35]と述べた。

なお、サンフランシスコ平和条約の締結時に、オランダの植民地であった東インドに対する日本の侵攻に対して「被害者」の立場をとり、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したオランダに対して、インドネシア政府は、「インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」と強く批判している。また、インドネシア大統領のオランダ訪問時にも、植民地支配に関しての謝罪を求めているが、オランダからはインドネシアへの謝罪が出たことは無い。

オーストラリア

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ソビエト連邦

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戦災国に対する補償と戦後関係

詳細は日本の戦争賠償と戦後補償を参照

日本は1952年4月28日サンフランシスコ平和条約により、日本は太平洋戦争に与えた被害について、日本経済が存立可能な範囲で国ごとに賠償をする責任を負った。この賠償(無償援助)は、各国の協力に基づく日本の復興なくしては実現しなかった。またこのことは同時に東南アジアへの経済進出への糸口となり、日本の成長を助長する転機となると共に殖民地支配をした国の中で唯一、植民地化された国に対し謝罪の意を示すこととなり、結果的にアジア諸国とのその後の外交関係に寄与することになった。

サンフランシスコ平和条約14条に基づき、賠償を求める国が日本へ賠償希望の意思を示し、交渉後に長期分割で賠償金を支給したり、無償(日本製品の提供や、技術・労働力などの経済協力)支援を行った。他にも貸付方式による有償援助もあった。

補償を求めた国家と補償額
カッコ年は国交回復に至った条約の発行年
モンゴル人民共和国
無償・50億円/昭和47年(1972)
大韓民国
無償・1080億円/昭和40年(1965)
フィリピン
賠償・1980億円/昭和31年(1956)
ベトナム
賠償・140億円/昭和34年(1959)
ラオス
無償・10億円/昭和34年(1959)
タイ
無償・96億円/昭和37年(1962)
カンボジア
無償・15億円/昭和34年(1959)
ビルマ(ミャンマー)
賠償・720億円/昭和30年(1955)
マレーシア
無償・29億円/昭和43年(1968)
シンガポール
無償・29億円/昭和43年(1968)
インドネシア
無償・803億円/昭和33年(1958)
ミクロネシア
無償・18億円/昭和44年(1969)

領土返還と領土問題

詳細は領土問題#東アジアを参照

戦後、東京にアメリカ陸軍の元帥であるダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が置かれた。沖縄奄美諸島小笠原諸島トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。太平洋戦争中に占領された小笠原諸島や南西諸島、北方領土の返還問題はサンフランシスコ平和条約後も続き、小笠原諸島が1968年にアメリカ施設下から日本に復帰。1972年には、沖縄本土復帰佐藤栄作政権のもと実現した。 しかし、ソ連に占領された千島樺太歯舞、色丹このうち北方領土は、ロシア連邦と日本国が意見でくいちがい、政治問題として棚上げされ、未だに解決を見ず北方領土問題と言われ、未だに日本固有の領土であることが両国で確認されていない。

また、第二次世界大戦の終結を引き金に成立した中華人民共和国台湾(1945年以後の中華民国)、大韓民国などの近隣諸国との領有権を巡り対立が起きている。ここ数年では中国の油田開発を通じて尖閣諸島領有権問題が、竹島の日日本海呼称問題などを通じ、韓国との竹島問題がそれぞれ注目を集めている。また、ごく最近では対馬問題もマスコミに大きく取り上げられ、韓国の「対馬の日」の制定や韓国資本が急激に対馬に多く流れ込み、土地買収やリゾート施設開発が行われるなど、実効的に韓国に支配されるのではと対馬市長や島民から危ぶむ声が出るなど問題化している。

戦後への影響

国際社会

  • 太平洋と欧州において繰り広げられた全世界規模の消耗戦は世界経済に大きな打撃を与えた。国際機構として国際連合が組織された。

日本

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アメリカ

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ソ連

ヨーロッパ・東南アジア

  • 大戦によるヨーロッパ諸国や日本の国力の低下や、太平洋戦争による経験を通じ、東南アジアでは独立運動が高まり、太平洋戦争が終わった途端に各地で独立戦争が勃発した。そして、大航海時代以来の欧米日による植民地支配(帝国主義)が崩壊する転機となった。

ベトナム

インドネシア

台湾

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朝鮮半島

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中国大陸

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インド

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戦争の評価

日本における評価

太平洋戦争(大東亜戦争)の評価については、歴史家だけでなく知識人、作家、一般国民を巻き込んだ議論の的となっている。(1)ABCD包囲網ハル・ノートなどによって日本が追いつめられた結果の自衛戦争であったという見方、(2)アジアを欧米の植民地から解放したとする見方、(3)欧米の帝国主義者と同じく世界征服を企んだとする見方、(4)自衛戦争と侵略戦争の両面を持つとする見方、など様々である。

アジアにおける評価

中華人民共和国(1949年以後の中国)や朝鮮半島(現韓国北朝鮮)では、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強い。しかし、これら「特定アジア」といわれる国以外からは、日本を加害者とする評価だけではなく、それ以外の評価がなされることも多い。

太平洋戦争で大日本帝国に解放又は占領されたベトナムフィリピンマレーシアインドネシアタイビルマミャンマー)など東南アジア各地において、反日感情は少なく親日国家である。アジアの歴史学者の多くは、太平洋戦争(大東亜戦争)とそれに続くアジア各地の独立戦争を一連の流れとして考えており、欧米の勝戦国が日本の戦争責任を非難することについて、「欧米によるアジア植民地の歴史を歪曲することだ」と断じている。

これは、当時のアジアにおいて大日本帝国とタイ王国の2ヶ国以外の総てのアジア地域はヨーロッパやアメリカの植民地若しくは隷属地であったため、太平洋戦争を肯定的に見る勢力は:(1)植民地支配からの解放に大きく寄与したとして肯定的に評価しているケース、(2)欧米に奴隷扱いされていたアジアの人々に、教育や政府機関、軍事力を整えたことを肯定しているケース、(3)戦後、再びアジアを植民地化しようと再上陸してきたヨーロッパ宗主国(特にイギリスフランスオランダ)に対して、旧日本軍の残党と共に戦ったことを好意的に評価しているケース、(4)日本軍の後盾で政権についた政治家(例:ベトナムのバオ・ダイ)の都合で親日的姿勢をとったケースなど;様々である。

台湾における評価

当時は日本による統治下であった台湾では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。

第二次世界大戦後に中国大陸から入ってきて強権政治を行った中国国民党に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいる(「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」と言われている)。

戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然のことではあるが、極一部において、不当な強制連行であったと批判する反日活動家もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している反日活動家もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と(講和条約により日本政府が台湾の統治権を放棄したために別の国家扱いになった為)区別して取り扱いがなされたことに対する批判もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっている。

台湾での戦争観を語る際に、本省人親日であり日本支配肯定論、外省人反日抗日的であるとの見方があるが、実際はそれほど単純ではない。省籍矛盾については特定の政治家選挙運動で煽ることによって起こる面も否定できず、そうした背景を理解しないで台湾の戦争観を論じると誤解が生じるおそれがある。本省人には、福建系と客家系がいること、また台湾人を語る際には台湾先住民の問題が欠けている傾向が見られること、省籍については近年外省人、福建系をはじめとした本省人の垣根が解消される傾向にあること、外省人はエリートと低所得層との格差が激しく多様であること、低所得層の外省人と台湾先住民との婚姻のケースが多いなど単純ではない、という意見もある。

日本の支配に対する評価については「日本統治時代 (台湾)#歴史的評価」を参照

マレーシアにおける評価

現在、マレーシア人はマレー系が約65%、華人系が約25%、インド系が約7%を占める。日本軍がマレー半島に侵入した時、マラヤはイギリスの殖民地下にあり、マラッカ王国以来のマレー人、外来の中国系住民・インド系住民、その他に日本人イギリス人などが居住していた。大戦中は、系統に問わず、日本軍に協力した者や抗日活動に身を投じたものもいた。このうち抗日運動に身を投じたのは華人系の住民が圧倒的に多く、これは日中戦争が影響している。マラヤの華僑は故国のため、国民党政府軍に物心両面の援助を惜しまなかった。中国大陸に渡り抗日軍に身を投じたり、中国国民党組織に向けて情報提供する者、抗日救国運動に力を注ぐ人々もいた。

当時、マレー人は英国人と比べて極めて低い権利しか与えられず、いわゆる奴隷であった。また当時、マレー系住民は自らを支配する存在(白人)が無敵だと信じていた英国東洋艦隊が同じ東洋人である日本人によって撃滅されたことや、イギリス帝国絶対不敗神話の象徴だったシンガポールが陥落したこと、イギリス軍が焦土作戦のため、徹底的に破壊された発電所工場などの都市設備を日本人がいとも簡単に短期間のうちに復旧させてみせたことなどを目の当たりにし、大きな衝撃を受けた。この出来事は長い間、支配に甘んじてきたマレー系住民の意識を変える転機となり、独立心を芽生えさせる糧となった。

マレーシアでは、太平洋戦争(大東亜戦争)についての回想や見解は多種多様であるが、典型的な意見としては、日本による統治が、イギリスフランスオランダなどのヨーロッパ諸国によるアジア植民地支配を駆逐し、アジア人自身を覚醒させる衝撃となった事実を評価する点である。

特にマレー人の間では、イギリスによる長い植民地統治による愚民化政策と西洋文明の浸透(文化侵略)などによって、独自のアイデンティティー経済社会・文化的価値観)を喪失してしまったという論調が強いとされるほか、植民地統治の過程で流入した華僑や印橋などの異民族との抗争を経験をしたことから、ヨーロッパ各国が行った行為に対する批判が強く、ヨーロッパ(特にイギリス・フランス・オランダ)のメディアが日本軍による戦争を批判するのはヨーロッパ各国が行った植民地支配の歴史を歪曲しようとしているとして批判的な立場をとっている。その具体例として、チャンドラ・ムザファー[36]マハティール・ビン・モハマド[37]などのスピーチルックイースト政策などでも伺える。

一方で、オン・カティン住宅・地方自治相は、小泉純一郎首相が2001年8月13日に靖国神社に参拝した時、「私は、この歴史教科書と首相の靖国神社参拝への抗議の意思を表明する先頭に立ちたい」「侵略戦争を正しい戦争と教えることは、次の世代を誤って導くことになる」[38]と述べており、日本による侵略の記憶は失われてはいない。

インドネシアにおける評価

太平洋戦争終戦後、直ぐにオランダとの独立戦争となったが、独立には残留日本人の力も少なくなく、独立の英雄として称えられている。

インドネシアでは、日本軍による強制労働により、多くの若者が犠牲になった。戦後の賠償交渉では、インドネシア政府は労務者の総動員数を400万人と主張している[39]

脚注

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参考文献

  • 日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』全8巻(朝日新聞社)
  • ジョン・V.A.マクマリー『平和はいかに失われたか』(原書房)
  • クリストファー・ソーン『太平洋戦争とは何だったのか』(草思社)
  • ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』(角川書店)
  • コーデル・ハル『ハル回顧録』(中公文庫)
  • 秦郁彦『なぜ日本は敗れたのか』(洋泉社新書)
  • 児島襄『太平洋戦争』上下(中公新書)
  • 佐治芳彦『太平洋戦争の謎 魔性の歴史=日米対決の真相に迫る』文芸社 ISBN 4-537-25080-1
  • 斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社 ISBN 4-106-10076-2
  • 佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』筑摩書房 ISBN 4-480-06244-0
  • 渡辺正俊『マレーシア人の太平洋戦争-この戦争は彼らにとって何であったか-』東京図書出版会、2003年

小説

  • 山岡荘八『小説 太平洋戦争』全9巻(講談社)

関連項目

外部リンク

太平洋戦争


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