内閣総理大臣
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内閣総理大臣 ないかくそうりだいじん | |
|---|---|
内閣総理大臣章 | |
| 担当官庁 | 内閣府 内閣官房 |
| 任命者 | 今上天皇 (天皇) |
| 職務代行者 | 仙谷由人 (内閣官房長官) |
| 初代 | 伊藤博文 |
| 創設 | Template:Safesubst:12月22日 |
| 公式サイト | 首相官邸ホームページ |
内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)は、日本の行政府である内閣の首長(憲法第66条1項)。国会議員の中から国会の議決で指名され(憲法第67条)、これに基いて、天皇によって任命される(憲法第6条)。現職者は、2010年6月8日より菅直人(第94代、61人目)が在任。
総理大臣または総理と略され、内閣の首長たる大臣(相)として首相とも通称される。
目次 |
地位・資格
地位
日本国憲法と現行の内閣法が規定する内閣総理大臣の地位は次の通り。
内閣総理大臣は「行政権の属する内閣(行政府)の首長」と位置付けられている。
資格
- 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない(憲法66条2項)。
- 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決(首班指名)でこれを指名する(憲法67条1項)。
- 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)。
内閣総理大臣の資格は上記のとおりであるが、実際には、衆議院において最大勢力を占める政党の党首、又は連立を組む複数の党のいずれかの党首がその責に任じる(参議院議員が内閣総理大臣に就任した例は現在まで存在しない。ただし、これを制限する規定もなく、衆議院における首班指名選挙で参議院議員が得票した例も過去に多数存在する)。
憲法上、内閣総理大臣の任期について直接的に規定した条文はない。ただ、憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているので、このことから内閣総理大臣の一回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われる時までとなり最長でも4年を超えないことになる(憲法70条)。もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではないので、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣の地位にとどまることができる。
ただし、実際には内閣総理大臣には自身が所属する政党の党首としての任期が存在するため、内閣総理大臣の任期の制限となっている。定年も存在しないが、この点でも党内部の国会議員の定年制が一つの歯止めとなると考えられる。
内閣総理大臣就任後に国会議員でなくなった場合[1]の内閣総理大臣の地位について法律では明記されていないが、内閣の見解として、内閣総理大臣が国会議員でなくなった場合は「内閣総理大臣の失格」として「内閣総理大臣が欠けたとき」に該当し、内閣総辞職しなければならないとしている[2]。
代理
- 内閣総理大臣が欠けたとき[3]、または衆議院総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職しなければならない(憲法70条)。
- 旧内閣は、次の内閣総理大臣が任命されるまでは引き続きその職務を行う(憲法71条)。
- 内閣総理大臣に事故のあるとき、または内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が臨時に内閣総理大臣の職務を行う(内閣法9条)。
内閣総理大臣が外遊など、一時的な理由で国内における職務を行えない場合にも、この内閣法第9条に基づいて国務大臣の1人が内閣総理大臣臨時代理としてその職務を行う。
2000年(平成12年)4月に小渕恵三が脳梗塞で昏睡状態に陥った(最終的に小渕は、意識の戻らないまま1ヶ月半後に死去した)例を受けて、組閣時に内閣総理大臣臨時代理の就任予定者5名を指定して官報に掲載するよう方針が改められた。このとき、原則として内閣官房長官たる国務大臣が第1順位とされることとなった。この内閣総理大臣臨時代理の就任予定者について、副総理と呼称することがある。詳細は当該項目を参照。
主任の大臣
府省等
内閣総理大臣は以下の機関において内閣法にいう主任の大臣を務める。
- 内閣官房(内閣法23条)。- 内閣官房長官が事務を統括する(内閣法13条3項)。
- 内閣法制局(内閣法制局設置法7条)。- 内閣法制局長官が事務を統括する(内閣法制局設置法2条2項)。
- 安全保障会議(安全保障会議設置法11条)。- 内閣総理大臣が自ら議長を務める(安全保障会議設置法4条1項)。
- 内閣府(内閣府設置法6条2項)。- 自らを助けるものとして特命担当大臣を置くことができる(内閣府設置法9条1項)。
本部等
各府省等のほか、特定の法律に基づいて内閣に設置される「本部」等にも、「主任の大臣」が置かれることがあるが、この場合の「主任の大臣」には、いずれも内閣総理大臣があてられる。主任の大臣#本部等を参照。
職務・権限
日本国憲法及びその他の法令が規定する内閣総理大臣の権限は次の通り。
憲法
- 他の国務大臣を任命し、任意に罷免すること(憲法68条)。
- 在任中の国務大臣に対する訴追に同意すること(憲法75条)。
- 内閣を代表して議案を国会に提出すること(憲法72条)。
- 内閣を代表して一般国務及び外交関係について、国会に報告すること(憲法72条)。
- 内閣を代表して行政各部を指揮監督すること(憲法72条)。
- 法律及び政令への連署をすること(憲法74条、権限であると同時に義務でもある)。
内閣法等
- 閣議を主宰すること(内閣法4条2項)。
- 内閣総理大臣及び主任の国務大臣の代理を指定すること(内閣法9条、10条)。
- 行政各部の処分又は命令を中止せしめ、内閣の処置を待つことができる(内閣法7条、「中止権」)。
- 皇室会議の議長となること(皇室典範29条)。
- 裁判所による行政処分等の執行停止に対して異議を申し述べる(行政事件訴訟法27条)。
警察法・自衛隊法等
- 緊急事態の布告を発すること(警察法71条)。
- 布告時における警察の統制(警察法72条)。
- 自衛隊の最高指揮監督権を有する(自衛隊法7条)。
- 武力攻撃事態又はその発生が切迫していると認められるに至った事態に際して、自衛隊の全部又は一部に出動を命ずる(自衛隊法76条、「防衛出動」)。
- 間接侵略又はその他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部に出動を命ずる(自衛隊法78条、「命令による治安出動」)。
- 防衛出動又は治安出動による自衛隊の全部又は一部に対する出動命令があった場合において、特別の必要があると認めるときは、海上保安庁の全部又は一部をその統制下に入れること(自衛隊法80条)。
- 武力攻撃事態等に至り、対処基本方針が定められたときは、内閣に設置される「武力攻撃事態対策本部」の対策本部長(内閣総理大臣をもって充てる場合)として、所要の権限を行う(武力攻撃事態平和確保法14条)。
- 上記14条の総合調整に基づく所要の対処措置が実施されない場合、内閣総理大臣として地方公共団体の長等に対し、対処措置を実施すべきことを指示すること(武力攻撃事態平和確保法15条)。
- 防衛大臣に対する海賊対処行動の承認と国会への報告(海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律7条)。
- 気象庁長官から地震予知情報の報告を受けた場合において、地震防災応急対策を実施する緊急の必要があると認めるときは、閣議にかけて、地震災害に関する警戒宣言を発する(大規模地震対策特別措置法9条)。
その他の法律
- 中央労働委員会の公益委員の任命(労働組合法19条の3第2項)。
- 労働関係調整法上の公益事業の指定(労働関係調整法8条2項)。
- 労働関係調整法上の緊急調整権(労働関係調整法35条の2)。
- 統計法上の国民経済計算の作成(統計法6条1項)。
- 統計委員会委員・臨時委員の任命(統計法47条)。
- 中央選挙管理会委員の任命・罷免(公職選挙法5条の2)。
- 預金保険機構に対する出資に対する認可(株式会社企業再生支援機構法51条)
- 中央障害者施策推進協議会委員の任命(障害者基本法25条)
- 日本放送協会経営委員会の委員の任命(放送法16条1項)。
- 台風常襲地帯における災害の防除に関する特別措置法による災害防除事業等の指定(台風常襲地帯における災害の防除に関する特別措置法2条、3条)。
このほか、内閣府及びその外局(金融庁、消費者庁など)や内閣に置かれる本部等の主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局の一つである金融庁に関連する許認可権が多い(銀行法や貸金業法、金融商品取引法などが挙げられるが、具体的な法律名は多岐に渡るため割愛)。
1991年までは、機関委任事務に従わない都道府県知事について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた(地方自治法旧第146条)。2001年には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。
歴史
憲法制定前
明治維新以降、日本の政治は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針を実現するために設けられた太政官制度によって行われてきた。しかし、奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がない、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。
1880年(明治13年)頃から参議伊藤博文はこの太政官制の改革を試み始めたが、これに対して保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤には岩倉に対抗するだけの政治力がなかった(明治14年の政変による大隈重信追放が岩倉が宮中を動かして進められたために、伊藤も岩倉との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤は一旦この提案を引き下げて1882年(明治15年)3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査に当たったが、この時から「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉の死後に帰国した伊藤はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。
これに対して、岩倉と同じく保守派の太政大臣三條實美らは、右大臣に伊藤を充てるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤はこれを丁重に断り、代わって黒田清隆を推したが、今度は酒乱の気がある黒田に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。だが伊藤もこれに怯まずに提案したのが、内閣制度だった。「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ(立法議政府、行政宰相府)恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤の語録にあるように、憲法とセットして近代的内閣制度を突き付けられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤の作戦勝ちであった。
大日本帝国憲法下
1885年(明治18年)12月22日、太政官達第69号で (1) 太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣、並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと、(2) 内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く)をもって内閣を組織すること、が定められ、ここに内閣制度が始まった。このとき同時に定められた内閣職権によって、内閣総理大臣には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(2条)と、形の上では強力な権限を与えられていた。
しかし1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されると、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(55条1項)との定めから、行政権は形式上各国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされ、内閣は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置付けられた。これを受けて、同年12月24日に公布された、内閣官制により、「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められ、その結果「首班」とは「同輩中の首席」を意味するものと解釈されることになった。
日本国憲法下
1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」(66条1項)とあり、これに伴い、翌1947年(昭和22年)1月16日に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(6条)など、その権限は大幅に強化された。これらの改革は、旧憲法下における内閣総理大臣の権限が弱かったために軍部の独走を許したことを反省したものである。
旧憲法下の内閣総理大臣は、それぞれが天皇に対して輔弼の責任を負う各国務大臣の「首班」という位置付けでしかなかった。したがって、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣にできることといえば反対派を説得し、あるいは辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである(東條内閣ですら国務大臣の岸信介が辞表提出を拒否したのが直接の総辞職原因である)。これを利用したのが陸軍だった。「陸海大臣に任じられる者は現役の大将中将に限る」という軍部大臣現役武官制をテコに、内閣が陸軍の意に沿わない場合、陸軍大臣は単独で天皇に辞表を提出して辞めてしまい、かつ軍は後任を推薦しないのである。陸軍大臣を欠いては内閣は存続し得ない。これによって第2次西園寺内閣・米内内閣が崩壊し、宇垣一成が組閣を阻止された。
新憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、反対派に辞職を迫るか罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が衆議院解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが(7条3号)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということであり、「閣議決定なしには解散はできない」ということである。しかし一般には「解散権は内閣総理大臣の専権」だと解釈されている。これは解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免した上で、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果は極めて大きい。
呼称・表記
内閣制度発足当時から内閣総理大臣のことは一般に「首相」と呼ばれた。内閣制度創設を前に「プライムミニスター」の訳語をどうするかが問題となったが、伊藤や側近の伊東巳代治、金子堅太郎などは日記や備忘録などに「首相」「宰相」という語を用いていた。しかし保守派の太政大臣・三條實美を納得させるためには、日本の指導者の呼称は大化の改新から連綿と続く「○○大臣」である必要があった。
表記
「首相」と略式で表記されることが多いが、口頭では「総理」が用いられることも多い。ただし、「首相」は日本の法令上の語ではないため、公文書等では使用されない。
新聞においては、内閣総理大臣を「首相」と略して表記することが多い。全国紙5紙では読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞の5紙全てで「首相」との表記が日常的に使用されている。ブロック紙3紙も、北海道新聞、中日新聞(東京新聞、北陸中日新聞、日刊県民福井含む)、西日本新聞の3紙全てで、「首相」との表記が全国紙同様に使用されている。内閣総理大臣の6文字より首相の2文字を用いた方が、より伝えるべき多くの記事を載せるスペースが確保できるためである。
テレビのニュース番組のテロップは、各社ごとに表記が異なる。在京キー局においては、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビでは「首相」と表記し、テレビ朝日、テレビ東京では「総理」または「総理大臣」と表記している。新聞のラテ欄の表記もそのようになっている。
日本以外の首相
詳細は「首相」を参照
日本以外においても、議院内閣制や半大統領制の政治形態を採る国を中心に、首相の役職が置かれている。しかし、「内閣総理大臣」は日本の首相固有の名称であり、外国の首相に対しては原則として使用しない。漢字文化圏の国においては、首相の職名に「総理」の語を含む例もある。たとえば中国の国務院総理(国务院总理。英:Premier of the State Council)などが挙げられるが、その場合も一律に「首相」と呼んでいる。なお、かつて韓国と中国にも「内閣総理大臣」という名称の役職が存在した。
逸話など
- 三條實美の処遇
- 内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めたのは英語力だったのである。
- 伊藤の内閣総理大臣就任に伴い、三條は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになったが、そもそも内大臣府は三條処遇のために創られた名誉職で、その実は2階に上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は、三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、尾崎に対して軽挙を戒めている(『尾崎三良自叙略伝』)。また、さすがの明治天皇も気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職すると、天皇は黒田の辞表をのみ受理して他はすべて却下し、三條に内閣総理大臣を臨時兼任させた。臨時「代理」ではなく、「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2ヵ月も経ってからのことだったので、この2ヵ月間は一つの内閣が存在したものとして「三條暫定内閣」と呼ばれる。ただし、三條實美は歴代内閣総理大臣には数えないことが慣例となっている。
- 選挙
- 現職内閣総理大臣が選挙で落選した例はないが、内閣総理大臣経験者が選挙で落選した例として片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)と海部俊樹(2009年)の例がある。
- 学歴
- 歴代の内閣総理大臣には東京帝国大学及び後身の東京大学出身の者が多いが、1950年の新制大学移行後の東京大学出身者は、工学部計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。田中角栄は専門学校の中央工学校卒業である。
- 年齢
- 内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験等が重視されることが多く、1年生議員が就任する確率は極めて少ない(細川護煕が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・熊本県知事の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。
- 日本の歴代総理大臣の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は1945年の鈴木貫太郎(当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、2006年の安倍晋三(当時52歳)である。
- 栄典
- 内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位又は従二位、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章又は桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される。ただし、辞退・不祥事等による見送り事例は除かれる。
格言
- 内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる
- 佐藤栄作の言葉。内閣改造をしようとすると、他派閥の肘鉄や大臣病など多くの国会議員が総理に群がるために対応が難しくなって総理の権力が下がる。一方で衆議院解散をすると多くの衆議院議員が自分の党の公認を得ようと総理に求め地元選挙区に帰り衆院選で当選して政治生命を保とうし、衆院選で民意を得て首班指名で再選されれば政権基盤が増すため総理の権力が上がる。
- 歌手一年総理二年の使い捨て
- 竹下登の言葉。総理は就任時は最初の内は新しさからチヤホヤされるが、そのうちに賞味期限が切れると社会から批判されるようになり、任期2年くらいで総理を交代させられることを揶揄した言葉。なお、この言葉は三角大福時代に竹下が中堅代議士だった頃から使っている。
- 総理の敵は正面だけじゃなく後ろにもいれば横にもいるし上にもいるし斜めからも内部にもいる
- 小泉純一郎の言葉。総理は日本で最も注目される最高権力者といっても国会内で対決姿勢の原則を示す野党だけでなく、マスコミや外国や業界団体が自分に批判的になることもあり、本来同じ目的を持つはずの与党内にも他派や反執行部が批判的になるため、どこに敵がいてどこから狙われるか用心しなければならないことを指した言葉。
- 総理の権力の最大の源泉は解散権と人事権
- 小泉純一郎の言葉。閣僚や党幹部を含めた人事と衆議院解散権は総理の強大なる権力の源泉であることを指摘した言葉。
各種記録
在任
| 記録の名称 | 記録保持者氏名 | 記録の内容 |
|---|---|---|
| 最長在任数記録 | 桂太郎 | 2886日(約7年11ヶ月)
|
| 最長連続在任数記録 | 佐藤榮作 | 2798日(約7年8ヶ月)
|
| 最短在任数記録 | 東久邇宮稔彦王 | 54日(約2ヶ月)
|
| 最年長在任記録 | 大隈重信 | 78歳6ヶ月 (1916年(大正5年)10月9日の退任時) |
| 最年少在任記録 | 伊藤博文 | 44歳3ヶ月 (1885年(明治18年)12月22日の就任時) |
| 最年長就任記録 | 鈴木貫太郎 | 77歳 (1945年(昭和20年)4月7日の就任時) |
| 最多回数任命(指名)記録 | 吉田茂 | 5回
|
病気
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| 病気により在任中死去した内閣総理大臣 | 加藤友三郎 | 加藤友三郎は大腸癌を患っていた。青山の自邸で家族に看取られ静かに死去。 |
| 加藤高明 | 加藤高明は心臓麻痺による急性心不全。かねてより慢性腎臓炎と心臓疾患があったが、議会で突然病状が悪化し約6時間後に死亡。 | |
| 大平正芳 | 大平は心筋梗塞による急性心不全。選挙運動中に過労と不整脈で倒れ虎の門病院に入院。12日後心筋梗塞を起こし死亡。 | |
| 病気により執務不能となり退任、ほどなく死去した内閣総理大臣 | 小渕恵三 | 脳梗塞。首相官邸で発症、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院するが昏睡状態となり退任。意識が戻らないまま約1ヵ月半後に死亡。 |
| 病気により退陣した内閣総理大臣 | 石橋湛山 | 石橋は脳梗塞。ただし当時の公式発表は「風邪をこじらせ肺炎を起こした上、脳梗塞の兆候がある事も判明」だった。「1ヵ月静養が必要」との診断を受けて即日退陣を表明。その後病状は回復し余生を全うした。 |
| 池田勇人 | 池田は喉頭癌。治療のため国立がんセンターに入院したが、約1ヵ月半後に退陣を表明。9ヵ月後東京大学医学部附属病院で病部摘出手術を受けたが、術後まもなく肺炎により死亡。 | |
| 安倍晋三 | 安倍は胃腸機能の低下による衰弱。元から胃腸に持病を抱えていたとされるが、参議院選挙の惨敗や、相次ぐ閣僚の不祥事への批判による重圧、首相としての過労が祟った。辞意表明の後、慶應義塾大学病院に緊急入院したが、首相臨時代理は置かなかった。自民党の後継総裁が選出された後、辞任に至る経緯について記者会見を行い退陣。 |
テロ
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| テロにより在任中に暗殺された内閣総理大臣 | 原敬 | 原は東京駅の構内で大塚駅職員中岡艮一に胸を刺される。刃渡り五寸の短刀が肺と心臓を貫通し即死(原敬暗殺事件)。 |
| 犬養毅 | 犬養は首相官邸に乱入した武装青年将校に銃撃される。左頬と右こめかみに銃弾2発を被弾、出血多量で約5時間後に絶命(五・一五事件) | |
| テロにより暗殺された元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤は満州ハルビン駅の構内で韓国の民族主義運動家安重根に狙撃される。銃弾3発を被弾し約30分後に絶命。当時伊藤は枢密院議長。 |
| 濱口雄幸 | 濱口は東京駅のホームで右翼団体に所属する佐郷屋留雄に狙撃される。銃弾1発が骨盤まで達する重傷だったが、4ヵ月後に病躯を押して登院、しかしこれで症状が悪化し、1ヵ月後に内閣総辞職、その4ヵ月後に死去。 | |
| 高橋是清 | 高橋は赤坂の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。銃弾3発を被弾した上、軍刀で刺し抜かれ即死。当時高橋は大蔵大臣(二・二六事件) | |
| 齋藤實 | 斎藤は四谷の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。機関銃弾を40数発浴び即死。当時齋藤は内大臣(二・二六事件) | |
| 存命にもかかわらず新聞に死亡記事が出た内閣総理大臣 | 岡田啓介 | 首相官邸に乱入した武装青年将校により岡田と容貌がよく似ていた義弟で秘書の松尾伝蔵が銃撃される。松尾を岡田と誤認した青年将校が総理死亡を発表(二・二六事件) |
戦争責任
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| 自殺した元内閣総理大臣 | 近衛文麿 | 極東国際軍事裁判で起訴され、収監を前に自邸で青酸カリを飲んで自殺。 |
| 自殺未遂した元内閣総理大臣 | 東條英機 | 極東国際軍事裁判で起訴され、収監を前に自邸で拳銃で自らの心臓を撃つが失敗。 |
| 死刑に処された元内閣総理大臣 | 東條英機 | 極東国際軍事裁判で絞首刑判決。 |
| 廣田弘毅 | ||
| 獄死した元内閣総理大臣 | 小磯國昭 | 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち獄中で病死。 |
| 終身刑となった元内閣総理大臣 | 平沼騏一郎 | 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち仮釈放後に病死。 |
疑獄
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| 逮捕収監され起訴された元内閣総理大臣 | 芦田均 | 芦田は昭電疑獄で逮捕収監され起訴された。公判で無罪が確定。 |
| 田中角榮 | 田中はロッキード事件で逮捕収監され起訴された。公判では一審と二審で有罪判決、上告審の審理途中で被告死去により公訴棄却。 | |
| 公判で有罪判決を受けた元内閣総理大臣 | 田中角榮 | |
| かつて逮捕収監され起訴されたことがある内閣総理大臣 | 田中角榮 | 田中は法務政務次官時代に炭鉱国管疑獄で逮捕収監され起訴された。公判で無罪が確定。 |
| 福田赳夫 | 福田は大蔵省主計局長時代に昭電疑獄で逮捕収監され起訴された。公判で無罪が確定。 | |
| かつて逮捕許諾請求が出されたことがある内閣総理大臣 | 佐藤榮作 | 自由党幹事長時代に造船疑獄で東京地検が逮捕許諾請求を出したが、法相が指揮権を発動して逮捕を見送らせた。 |
職歴
立法
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| かつて貴族院議長だった内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日 |
| 近衛文麿 | 1933年(昭和8年)6月9日 - 1937年(昭和12年)6月7日 | |
| 後に貴族院議長になった元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日 一期目の内閣総理大臣を辞した後に貴族院議長となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。 |
| 後に衆議院議長になった元内閣総理大臣 | 幣原喜重郎 | 1949年(昭和24年)2月11日 - 1951年(昭和26年)3月10日 |
司法
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| かつて大審院長だった内閣総理大臣 | 平沼騏一郎 | 1921年(大正10年)10月5日 - 1923年(大正12年)9月6日 |
行政
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| 就任時に国務大臣経験が全くなかった内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤は勤皇の志士であり、兵庫県知事(当時は官選)、工部卿、内務卿などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 |
| 近衛文麿 | 近衛は公爵であり、貴族院議長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
| 阿部信行 | 阿部は陸軍軍人であり、台湾軍司令官、軍事参議官などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。なお、陸軍次官当時、陸軍大臣宇垣一成の病気療養に伴い陸軍大臣代行を務めた。 | |
| 鈴木貫太郎 | 鈴木は海軍軍人であり、連合艦隊司令長官、軍令部部長を経て枢密院議長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
| 東久邇宮稔彦王 | 稔彦王は皇族にして陸軍軍人であり、第二軍司令官、防衛総司令部総司令官などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
| 片山哲 | 片山は弁護士を経て衆議院議員となり、日本社会党書記長、日本社会党委員長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
| 細川護熙 | 細川は参議院議員、大蔵政務次官、熊本県知事を経て衆議院議員となり、日本新党代表などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
| 村山富市 | 村山は大分県議会議員を経て衆議院議員となり、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本社会党国会対策委員会委員長、日本社会党委員長などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
| 鳩山由紀夫 | 鳩山は専修大学経営学部助教授を経て衆議院議員となり、内閣官房副長官、民主党幹事長、民主党代表などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 |
陸海軍
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| 陸軍の軍人の経歴を持つ内閣総理大臣 | 黑田清隆 | |
| 山縣有朋 | 就任時は陸軍大将。最終階級は元帥陸軍大将。 | |
| 桂太郎 | 就任時は陸軍大将。 | |
| 寺内正毅 | 就任時は元帥陸軍大将。 | |
| 田中義一 | 就任時は陸軍大将。 | |
| 林銑十郎 | 就任時は陸軍大将。 | |
| 阿部信行 | 就任時は陸軍大将。 | |
| 東條英機 | 就任と同時に陸軍大将。 | |
| 小磯國昭 | 就任時は陸軍大将。 | |
| 東久邇宮稔彦王 | 就任時は陸軍大将。 | |
| 田中角栄 | ||
| 海軍の軍人の経歴を持つ内閣総理大臣 | 山本権兵衛 | 就任時は海軍大将。 |
| 加藤友三郎 | 就任時は海軍大将。内閣総理大臣の退任と同時に元帥海軍大将。 | |
| 斎藤実 | 就任時は海軍大将。 | |
| 岡田啓介 | 就任時は海軍大将。 | |
| 米内光政 | 就任時は海軍大将。 | |
| 鈴木貫太郎 | 就任時は海軍大将。 | |
| 中曽根康弘 | 内務省の官僚から、短期現役士官として、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで海軍に所属。最終階級は主計少佐。 | |
| 学徒出陣した内閣総理大臣 | 竹下登 | 早稲田大学商学部在学中に陸軍の特別操縦見習士官に志願し第4期生として入校。卒業後は陸軍航空部隊などに所属。終戦後は大学に戻り卒業した。 |
| 宇野宗佑 | 神戸商業大学在学中に召集。陸軍に所属して朝鮮に渡る。終戦後はシベリア抑留を経て帰国。大学には戻らず政治家への道を志した。 | |
| 村山富市 | 明治大学専門部政治経済学科在学中に召集。陸軍に所属。終戦後に大学に戻り卒業した。 |
宮中
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| かつて内大臣だった内閣総理大臣 | 桂太郎 | 1912年(大正元年)8月21日 - 同年12月21日 二期目の内閣総理大臣を辞した後に内大臣となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。 |
| かつて侍従長だった内閣総理大臣 | 桂太郎 | 1912年(大正元年)8月13日 - 同年12月21日 桂は内大臣と侍従長を兼務していた。 |
| 鈴木貫太郎 | 1929年(昭和4年)1月22日 - 1936年(昭和11年)11月20日 |
学歴
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| 初の学士号を持つ内閣総理大臣 | 加藤高明 | 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士号を取得。加藤が卒業した東京大学は、現在の東京大学の前身に当たる大学である。加藤の卒業した(旧)東京大学は、その後、帝国大学、東京帝国大学を経て、現在の(新制)東京大学となった。なお、学士号を持つ内閣総理大臣は、加藤以外にも多数いる。 |
| 初の修士号を持つ内閣総理大臣 | 小渕恵三 | 小渕は早稲田大学大学院政治学研究科を修了し政治学修士号を取得。なお、修士号を持つ内閣総理大臣は小渕以外には誰もおらず、現在でも唯一の例である。 |
| 初の博士号を持つ内閣総理大臣 | 平沼騏一郎 | 平沼は文部大臣より法学博士号を取得。1887年に公布された学位令に基づき、法学博士号は文部大臣から授与されていた。その後、1920年の改正学位令の施行により、法学博士号は大学から授与されることになった。現在では、1991年の改正学校教育法の施行により、法学博士の後継である博士(法学)が大学から授与されている。なお、博士号を持つ内閣総理大臣は、平沼以外にも、東京帝国大学より法学博士号を取得した芦田均と、スタンフォード大学よりDoctor of Philosophy号を取得した鳩山由紀夫の2名がいる。 |
| 初の学位を持つ内閣総理大臣 | 加藤高明 | 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士の学位を取得。1887年に学位令が公布される前は、法学士も学位の一つとされていた。学位令の施行により、法学士は学位ではなくなったため、それ以降は称号として授与された。1991年の改正学校教育法の施行により、法学士の後継である学士(法学)が学位の一つとなった。なお、学位を持つ内閣総理大臣は、上記の加藤、平沼騏一郎、芦田均、小渕恵三、鳩山由紀夫の5名である。 |
出自
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| 皇族の内閣総理大臣 | 東久邇宮稔彦王 | 後に皇籍を離脱した。 |
| 子孫が皇族になった内閣総理大臣 | 吉田茂 | 寛仁親王妃信子は孫。 |
| 兄弟姉妹が皇族になった内閣総理大臣 | 麻生太郎 | 寛仁親王妃信子は妹。 |
| 旧公家の内閣総理大臣 | 西園寺公望 | 西園寺は藤原北家閑院流で清華家の西園寺家当主。 |
| 近衛文麿 | 近衛は五摂家筆頭の近衛家当主。 | |
| 旧大名家の内閣総理大臣 | 細川護熙 | 肥後熊本藩五十四万石細川家当主。 |
| 初の平民内閣総理大臣 | 原敬 | ただし、これは本人がかたくなに受爵を断り続けたため。原の祖父は陸奥盛岡藩20万石南部家の家老職にあった上級士族。 |
親族
| 記録 | 続柄 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|---|
| 一親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣 | 父と子 | 福田赳夫と福田康夫 | 康夫は赳夫の長男。 |
| 岳父と娘婿 | 鈴木善幸と麻生太郎 | 麻生の妻は鈴木の三女。 | |
| 二親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣 | 兄と弟 | 岸信介と佐藤榮作 | 岸は兄、佐藤は弟。 |
| 義兄と義弟 | 加藤高明と幣原喜重郎 | 加藤の妻は三菱商会創業者の岩崎弥太郎の長女。幣原の妻は岩崎の四女。 | |
| 祖父と孫 | 近衛文麿と細川護熙 | 細川の母は近衛の二女。 | |
| 岸信介と安倍晋三 | 安倍の母は岸の長女。 | ||
| 吉田茂と麻生太郎 | 麻生の母は吉田の三女。 | ||
| 鳩山一郎と鳩山由紀夫 | 由紀夫の父は一郎の長男。由紀夫の場合、男系の孫が内閣総理大臣になった初のケースである。 |
その他
| 記録 | 氏名 | 事柄 |
|---|---|---|
| ノーベル賞を受賞した内閣総理大臣経験者 | 佐藤榮作 | 非核三原則の提唱が評価され1974年(昭和49年)のノーベル平和賞を受賞。 |
| オリンピックに選手として出場経験のある内閣総理大臣経験者 | 麻生太郎 | モントリオールオリンピック(1976年(昭和51年))にクレー射撃の代表として出場(結果は41位)。 |
| 日本銀行券の肖像画に用いられた元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤はC千円券(1963年(昭和38年) - 1984年(昭和59年)発行)の肖像。 |
| 高橋是清 | 高橋はB五拾円券(1951年(昭和26年) - 1958年(昭和33年)発行)の肖像。 |
党派別輩出人数
| 順位 | 政党 | 人数 | 最初の内閣総理大臣 | 直近の内閣総理大臣 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 自由民主党 | 22 | 鳩山一郎・1955年(昭和30年) | 麻生太郎・2009年(平成21年) |
| 2 | 立憲政友会 | 6 | 伊藤博文・1900年(明治33年) | 犬養毅・1932年(昭和7年) |
| 3 | 日本社会党 | 2 | 片山哲・1947年(昭和22年) | 村山富市・1995年(平成7年) |
| 立憲民政党 | 2 | 濱口雄幸・1929年(昭和4年) | 若槻禮次郎・1931年(昭和6年) | |
| 憲政会 | 2 | 加藤高明・1924年(大正13年) | 若槻禮次郎・1931年(昭和6年) | |
| 民主党 (1998年(平成10年) - ) | 2 | 鳩山由紀夫・2009年(平成21年) | 菅直人・2010年(平成22年) | |
| 7 | 新生党 | 1 | 羽田孜・1994年(平成6年) | |
| 日本新党 | 1 | 細川護熙・1994年(平成6年) | ||
| 日本民主党 | 1 | 鳩山一郎・1955年(昭和30年) | ||
| 自由党 | 1 | 吉田茂・1954年(昭和29年) | ||
| 民主自由党 | 1 | 吉田茂・1950年(昭和25年) | ||
| 民主党 (1947年(昭和22年) - 1950年(昭和25年)) | 1 | 芦田均・1948年(昭和23年) | ||
| 日本自由党 | 1 | 吉田茂・1947年(昭和22年) | ||
辞令の書式
- 辞令は縦書きで、発令年月日は和暦、数字は漢数字での記載となる。漢数字には壱・拾などの大字は用いられず、また、十の位は簡略化せずに記載される(例:「一七年」でなく「十七年」、「二一日」でなく「二十一日」)。
- 国会の指名奏上
国会は衆議院議員○○君を内閣総理大臣に指名いたしました。よってここに奏上いたします。平成○年○月○日衆議院議長(自署)衆議院事務総長(自署)
- 内閣総理大臣任命の助言と認証
日本国憲法第六条第一項に依り○○を内閣総理大臣に任命するについて右謹んで裁可を仰ぎます。平成○年○月○日内閣総理大臣 氏 名
裁可を表すため、この書面に天皇は自ら「可」の文字の印章を押印する。
- 任命の辞令(官記)(※「任命する」の後に「。」は付されない)
氏 名(新内閣総理大臣)内閣総理大臣に任命する御名御璽平成○年○月○日内閣総理大臣(自署)(前内閣総理大臣)
注釈
- ^ 議員辞職をした場合、議員除名された場合、議員失職した場合となった場合、国政選挙に落選した場合、参議院議員の首相が参議院の改選選挙において立候補しない場合
- ^ 首相官邸ホームページ
- ^ 「内閣総理大臣が欠けたとき」とは、「内閣総理大臣が死亡又は失格などの理由によって欠けたとき」と内閣では解釈している。
関連項目
- 内閣総理大臣の一覧
- 日本国歴代内閣
- 政府四演説、施政方針演説
- 内閣総理大臣指名選挙
- 内閣総理大臣臨時代理
- 衆議院解散
- 総理大臣官邸
- 総理大臣公邸
- 内閣総理大臣補佐官
- 内閣総理大臣秘書官
- 日本国政府専用機
- 内閣総理大臣専用車
- 国民栄誉賞、内閣総理大臣顕彰
- 内閣総理大臣杯、内閣総理大臣賞
- 番記者
外部リンク
| ※ 名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 |
| 幹部 | 内閣総理大臣 - 内閣官房長官 - 内閣府特命担当大臣 - 内閣官房副長官 - 内閣府副大臣 - 内閣府大臣政務官 - 内閣府事務次官 - 内閣府審議官 |
|---|---|
| 内部部局等 | 内閣府大臣官房 - 政策統括官 - 賞勲局 - 男女共同参画局 - 沖縄振興局 |
| 重要政策に関する会議 | 経済財政諮問会議 - 総合科学技術会議 - 中央防災会議 - 男女共同参画会議 - 行政刷新会議 |
| 審議会等 | 消費者委員会 - 民間資金等活用事業推進委員会 - 官民競争入札等監理委員会 - 食品安全委員会 - 独立行政法人評価委員会 - 中央障害者施策推進協議会 - 原子力委員会 - 原子力安全委員会 - 地方制度調査会 - 選挙制度審議会 - 衆議院議員選挙区画定審議会 - 国会等移転審議会 - 情報公開・個人情報保護審査会 - 公益認定等委員会 - 沖縄振興審議会 - 地方分権改革推進委員会 - 政府税制調査会 |
| 施設等機関 | 経済社会総合研究所 - 迎賓館 |
| 特別の機関 | 北方対策本部 - 金融危機対応会議 - 食育推進会議 - 少子化社会対策会議 - 高齢社会対策会議 - 中央交通安全対策会議 - 犯罪被害者等施策推進会議 - 自殺総合対策会議 - 消費者政策会議 - 国際平和協力本部 - 日本学術会議 - 原子力立地会議 |
| 地方支分部局 | 沖縄総合事務局 |
| 外局等 | 宮内庁 - 公正取引委員会 - 国家公安委員会・警察庁 - 金融庁 - 消費者庁 |
| 独立行政法人 | 国立公文書館 - 国民生活センター - 北方領土問題対策協会 - 沖縄科学技術研究基盤整備機構 |
| 特殊法人 | 沖縄振興開発金融公庫 |
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