柱谷哲二

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柱谷 哲二
名前
愛称闘将、テツ
カタカナハシラタニ テツジ
ラテン文字HASHIRATANI Tetsuji
基本情報
国籍 日本
生年月日1964年7月15日(45歳)
出身地京都府京都市
身長182cm
体重70kg
血液型B型
選手情報
ポジションMF/DF
利き足右足
クラブチーム1
クラブApp (G) 
1987-1992
1992-1998
日産自動車
ヴェルディ川崎
97(2)
183(13)
代表歴
1998-1995 日本72 (6)
監督歴
2002
2008
コンサドーレ札幌
東京ヴェルディ
1. 国内リーグ戦に限る。2006年12月1日現在。
Template(Template‐ノート:サッカー選手ノート 解説)サッカー選手pj

柱谷 哲二(はしらたに てつじ、1964年7月15日 - )は、京都市出身の元サッカー選手、サッカー指導者・解説者。Jリーグ選手協会初代会長。現役時代のポジションはディフェンダー、守備的ミッドフィールダー。実兄の柱谷幸一も元サッカー選手、サッカー指導者。

目次

来歴

日産自動車サッカー部ヴェルディ川崎日本代表等でセンターバック、守備的MFを務め長年活躍した。出場時の多くはキャプテンとしての出場であり、チームを激しく鼓舞するその姿から「闘将」と呼ばれた。

「闘将」という愛称ながら、クレバーなプレーも得意。ヴェルディ黄金期ならびにオフトジャパン時代にはラモス瑠偉とともに指揮官に呼ばれ、先発メンバーについての相談も受けるなどした。

1998年のシーズン終了後、高年俸だったことと、チームの若返りを図る意図からヴェルディから「0円提示」。現役続行の意思を表明していたが、他チームからオファーがかからずそのまま現役を引退した。その後NHKなどで解説者を務めていたが、2002年岡田武史監督の後任として、プロチームの指導者としての現場経験のないままコンサドーレ札幌監督に就任。ところが、J1リーグ戦と Jリーグヤマザキナビスコカップを含めた公式戦13試合でわずか2勝と低迷し、2002年FIFAワールドカップ開催によるJリーグ中断期間中に解任された。柱谷の札幌就任が濃厚となった時点では、またJリーグの監督を務めるために必要なS級ライセンスを有しておらず(前年に講習を受けてはいた)、プロ監督としての能力や資質が不透明なまま、同ライセンスの判定を前倒しにしてもらった経緯があった(知名度最優先の契約)。就任後もチーム作りに未熟さを露呈し、「ロブソンには責任を取ってもらう」という責任転嫁とも受け止められかねないコメントを残した。解任直前まで若手の積極登用やユース選手を練習に参加させるなど、チーム建て直しへの意欲は見せていたが、結果として札幌はこの年の16チーム中最下位でJ2へ降格となり、札幌サポーターからは戦犯として挙げられた。

その後、国士舘大学サッカー部のコーチに就任したが、天皇杯国見高校に敗れる失態を見せる。

2003年浦和レッドダイヤモンズのコーチに就任し、主にサテライトを中心に指導。浦和が多数タイトルを獲得する上昇期に若手を指導した事で、コーチとしての能力が再評価された。2005年にJ2降格となった古巣・ヴェルディの窮地を救うべく、ヴェルディにコーチとして復帰。2006年から監督であるラモス瑠偉をサポートし2年がかりでのJ1復帰を果たした。ラモス監督退任にともない、2008年からは監督に就任。札幌時代以来、6年ぶりとなるJ1チームの指揮を執ることになった。フッキの途中加入、及び途中退団による連携面での混乱や、クラブの経営資金の枯渇といったフロントの問題にも直面。柱谷自身がヴェルディの費用負担は月給の20万円のみ、という条件で浦和から若手を無償レンタルする話を成立させても、フロントから却下されるなど、キャンプや、若手のレンタル補強費用にも事欠く有り様となる。クラブの厳しい環境に加え、柱谷の采配も後手に回り、守備シフトを敷いてから勝ち点を取りこぼす試合が続いた。最終節の敗戦を受けて、18チーム中17位と降格が決定。残留しても退任が決まっていたとされ、降格の責任を取った訳では無い。

2009年Jリーグ選手OB会初代会長に就任した。

エピソード

  • 来歴でもわかるとおり日産自動車から宿敵の読売(今のヴェルディ)に移籍したため、日産を母体とする横浜F・マリノスとの対戦時には今でも激しいブーイングに晒される。ただし本人も自分で「Jリーグで最初にブーイングを浴びた日本人選手である」と開き直っている様子であり、度々ネタにしている。2008年、ヴェルディの監督となって初めてF・マリノスに勝った際にはピッチに跪いてガッツポーズをし、喜びを全身で表した。
    • マリノスへのライバル心が非常に強く、試合後の会見で「1993年Jリーグ開幕節で負けたときのことを今でも覚えている。その時の悔しさが少しでも晴れたのかと[1]」とコメントを残した。
  • 盟友ラモス瑠偉と同じく闘志をむきだしにしてプレイする選手で、その姿勢は監督になっても変わらず、ヴェルディの監督時代、2008年のシーズン中は、テレビ中継中でも、柱谷の声がハッキリと聞こえるほどの、大声での指示(時には怒声)を出していた。失点時や、レフェリーの微妙な判定の時には足元のペットボトルを思い切り蹴り上げるシーンは有名。高木琢也コーチ(当時)にも抑えられるシーンもあった。
    • 東京ダービーでは集音マイクが柱谷の「何でファールないかねぇ!!?ちょっと待って!ファールじゃなかったの?今!」という怒号を拾っている[2]

*札幌時代は試合時ジャージで指揮していたが、東京V時代はスーツで指揮していた。

所属クラブ

個人成績

利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1987-88||日産||||JSL1部||12||0|||||||||||| |- |1988-89||日産||||JSL1部||22||0|||||||||||| |- |1989-90||日産||||JSL1部||21||2|||||||||||| |- |1990-91||日産||5||JSL1部||20||0||4||0|||||||| |- |1991-92||日産||5||JSL1部||22||0||3||0|||||||| |- |1992||V川崎||-||J||colspan="2"|-||11||0|||||||| |- |1993||V川崎||-||J||31||3||1||0||2||0||34||3 |- |1994||V川崎||-||J||40||2||3||0||2||0||45||2 |- |1995||V川崎||-||J||46||5||colspan="2"|-||2||0||48||5 |- |1996||V川崎||-||J||22||2||10||0||0||0||32||2 |- |1997||V川崎||5||J||16||0||3||0||2||0||21||0 |- |1998||V川崎||5||J||28||1||2||0||3||0||33||1 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始183||13||30||0|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行97||2|||||||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終186||0|||||||||||| |}

個人タイトル

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 72試合 6得点(1988-1995)


日本代表国際Aマッチ
出場得点
198851
1989100
199061
199121
1992110
1993142
199491
1995150
通算726

指導歴

監督成績

年度所属クラブリーグ戦カップ戦
順位試合勝点勝利引分敗戦ナビスコ杯天皇杯
2002J1札幌-73106予選リーグ-
2008J1東京V17位343710717予選リーグ4回戦
  • 2002年は途中解任。

イベント出演

宮澤ミシェルのJトークライブ 第1回メインゲスト


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