舛添要一
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| 生年月日 | 1948年11月29日(61歳) |
|---|---|
| 出生地 | 福岡県北九州市八幡東区 |
| 出身校 | 東京大学 |
| 学位・資格 | 学士 |
| 前職 | 政策研究所代表 |
| 所属委員会 | 前厚生労働大臣 |
| 世襲 | 無 |
| 選出選挙区 | 比例区 |
| 当選回数 | 2回 |
| 所属党派 | 自由民主党(無派閥) |
| 会館部屋番号 | 参・議員会館219号室 |
| ウェブサイト | ますぞえ要一公式サイト |
舛添 要一(ますぞえ よういち、1948年11月29日 ‐ )は、日本の政治家、政治学者、タレント。福岡県出身。参議院議員(2期)。自由民主党参議院政策審議会長、前厚生労働大臣。株式会社舛添政治経済研究所所長、地域経済総合研究所評議員。身長169cm、体重72kg、血液型O型。
目次 |
来歴
福岡県八幡市(現・北九州市八幡東区)に父・弥次郎、母・ユキノの長男として生まれた。4人の姉がいる。
父は戦前鞍手で炭鉱を経営するなど様々な事業を手がけ、昭和5年の若松市議会選挙に立憲民政党陣営から立候補したこともあったという[1]。戦争で零落したものの、要一の幼少時は青果店を経営し、比較的裕福な家庭に育ったが、小学2年の時の火災をきっかけに父が病臥(要一が中2の時に死去)、家業も傾き、以後は貧困の中で苦学した。
八幡市立(現北九州市立)祝町小学校、同大蔵中学校、福岡県立八幡高等学校を経て、東京大学入学。1971年、東京大学法学部政治学科を卒業後、ヨーロッパ政治史を専攻。助手として研究室に入り、篠原一、岡義達らの指導を受けたが、間もなくヨーロッパに留学し、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ高等国際政治研究所客員研究員などを経て1979年に東京大学教養学部助教授(政治学)。フランスの政治・外交を専門とし、国際関係論などを講じていた。
1980年代末から『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』などの討論番組に頻繁に出演し、テレビ映えする討論スタイルで脚光を浴びた。1989年6月に東京大学の体質を批判して退官、フリーとなってからはバラエティ番組などにも活動の場を広げ、引っ張りだこの人気者となった。当時は冷戦終結や湾岸戦争などで流動化する国際情勢が注目され、また国内ではリクルート事件、消費税導入などを経て55年体制が揺らぎ、やがて政界再編に突入、オウム真理教事件など社会を揺るがす事件も増える中で、内外の政治経済から始まって広く文化・社会問題に至るまで縦横に論じる知的タレントの代表格として、お茶の間の人気を博した。
1991年3月の北海道知事選挙における自由民主党からの立候補が盛んに報じられ、本人も別荘を所有する白老町に住民票を移すなど出馬準備を進めたが、事前調査で革新系現職横路孝弘との圧倒的な差を見て、出馬を辞退した(佐藤静雄が自民党推薦で出馬し横路に惨敗)。
以後も度々政界進出が噂されたが、後述の介護体験も一つのきっかけとなり、1999年東京都知事選挙に無所属で出馬。石原慎太郎の圧勝の前に3位で落選したが84万票を獲得した(同次点は東大法学部同級生の鳩山邦夫)。2001年7月、第19回参院選に比例代表区から自民党候補として立候補し、1,588,862票を獲得しトップ当選。
参議院議員としてはタレントとしての知名度に甘んずることなく、政策部会に多く出席し、委員会でも多く質問に立った。2005年、自民党が結党50年に発表した憲法草案においては、党新憲法起草委員会の事務局次長として草案作成の取りまとめに大きな役割を果たした。こうしたことが青木幹雄、片山虎之助といった参院自民党幹部に評価され、2006年10月、安倍政権発足に伴い当選1回ながら参院自民党の政策責任者である政策審議会長に就任した。議員の立場から垣間見た自民党の政策立案の現場、政と官の関わりなどを記した著書『永田町vs霞が関』を2007年に出版している。
2007年7月29日の第21回参院選では、再選を目指し自民党公認で比例代表区より立候補、与党への逆風の中で票を減らしたが、467,735票を獲得して自民党トップで当選した。選挙前後を通じて安倍内閣の政権運営を厳しく批判してきたが、2007年8月27日の安倍改造内閣において年金問題を始めとする多くの問題を抱える厚生労働大臣に任命され、安倍首相の辞任をうけて2007年9月26日に発足した福田康夫内閣、さらに2008年9月24日に発足した麻生内閣においても続投した。
高い知名度から議員となってからもマスコミに登場する機会は多く、政府や党のスポークスマン的な役割も果たしている。
政治活動
郵政造反組復党問題においては、無所属議員の復党を強く支持したが、落選していた衛藤晟一の復党・参院選出馬が持ち上がった際は参院選の責任者の立場から「百害あって一利なし」などと発言している。衛藤の復党に反対する理由として、舛添は「公明党との選挙協力に支障が出るため」と述べている。しかし過去において、自身が1999年東京都知事選挙に完全無所属で出馬した際、対立候補の一人である明石康(元国連事務次長)が公明党との選挙協力を円滑にする意図のあった自民党に擁立された候補であることに激しく反対していた。
尊敬する政治家は野中広務と青木幹雄である(舛添は当選以来無派閥)。先述のように党の政策部会への出席率は高く、野中からは「自民党議員は舛添さんを見習うべき」と評された。現実に野中らは03年自民党総裁選の際、反小泉の統一候補として舛添擁立を真剣に考えていたとされる。反小泉候補としては他に平沼赳夫擁立構想が一時取り沙汰されていたが、野中と平沼が政治的信念を180度異にすることや派閥の領袖だった亀井静香が難色を示したため、実現に至らず、舛添の名が浮上したとされる(後に亀井自身が立候補している)。野中は筑紫哲也NEWS23に出演した際、「秘策がある」と明言しているが、その秘策とは舛添擁立構想を指すものと思われる。野中は最終的には舛添擁立を断念し、藤井孝男を擁立した。
憲法改正に積極的な考えを持つが、自民党改憲案の取り纏めでは民主党や国民に受け入れられることを重視し、保守色を薄めるべく調整にあたった。中曽根康弘元首相が中心となって作成した自民党憲法草案の原案から、「日本の国柄」を明記した箇所を小泉純一郎首相(当時)の了承を得て削除させたのは舛添である。
厚生労働大臣時代、ネット販売規制を盛り込んだ改正省令を施行し、事実上インターネットで大部分の医薬品購入を禁止した。これについて、国民の生活を考えていない・又は無視していると強く批判された。またこの件について医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会の開催を指示したが、検討会は実質規制ありきの形式上のものだったため、批判をかわすポーズに過ぎないとの批判を受けた。
厚生労働大臣として
年金問題
2007年8月下旬に社会保険庁や社会保険事務所職員による年金保険料の着服問題が発覚した際、「盗人には牢屋に入ってもらう」とし、刑事告発を検討した[2]。また、社会保険庁職員よりも市区町村職員(以前は徴収業務が国から地方自治体に委任されていた)のほうが着服件数・着服総額が多かったこと(社保庁職員による保険料着服:52件、約1億6939万円、市区町村職員着服:101件、約2億4383万円)に鑑み、「銀行は信用できるが、社保庁は信用ならない。市町村は社会保険庁よりもっと信用ならない」と発言した。これに対し、年金保険料の横領が確認されていない自治体市長から抗議を受けたが、舛添は「小人(しょうじん)のざれ言に付き合っている暇はない」と発言した[3]。この発言を受け、各地の市長から反発を招いたが、舛添は「バカ市長って言ってほしいということなんですか。バカ市長、アホ市長って言うよりいいじゃないですか。含みがあって」「頭からバカ市長と言われるのは嫌でしょう。だから、小人(しょうじん)って言った。その温かみだけは感じて下さいよ。教養の問題、教養」と、更なる批判を展開した[4]が、2007年10月16日参院予算委員会において、これらの発言について「非常に不適切な言葉であった」と述べ、撤回した。
2007年ユーキャン新語・流行語大賞で「消えた年金」という言葉が受賞。その授賞式に、年金問題の当事者であり、行政の責任者である厚生労働大臣として授賞式に出席。笑顔で賞を受け取る。
2007年12月11日、上述の「消えた年金」に関係し、宙に浮いた年金記録約5000万件中、945万件の特定が困難との社会保険庁の調査結果を受け記者会見し、「他の方が大臣になっても結果は同じ。ないものはないんだから」、「(参院選で)年金は最大のテーマ。『できないかもしれないけどやってみます』なんて言いませんよ」と発言し、開き直りではないかと報道された[5]。
このように社会保険庁の台帳保全、情報管理の不備が明らかになるなかで、舛添は、年金記録問題の解決に向けてスピードアップを図るべく、2008年1月22日に大臣直属の「年金記録問題作業員会」を発足。委員会のメンバーには函館大学客員教授の磯村元史、ジャーナリストの岩瀬達哉ら政府への批判派を積極的に起用した。以後、舛添は同様の人材起用で諮問機関の開催を進めることになるが、この方法について舛添は次のように述べている。
あらゆる組織にいえることだが、イエスマンばかりで固めては、何も解決しない。批判をする人間は、それまでの組織の人間が持ち得なかった情報や、考え方を持っている。外から批判されるくらいなら、中でそのアイデアを活かし、問題を解決するエネルギーに転化してもらったほうが何倍もいい。 一方で、反対側の人間からばかり意見を聞いていては、従来のスタッフが納得しない、双方から情報と意見を出してもらい、判断は、責任者である組織のトップ―つまり大臣である私が下す。このバランスが肝要なのだ。[6]
なお、2008年11月5日、全国社会保険職員労働組合などのヤミ専従をしていた者と責任者の20名ほどを刑事告発する方針を明らかにした。大臣直属の「服務違反調査委員会」は告発については慎重な判断を求めていたが、給与をもらいながら組合活動をしていた行為は、公的年金制度の信頼を損ねるものだとし、厳しい対応を取った[7]。
医療改革
医師不足問題
詳細は「安心と希望の医療確保ビジョン」を参照
奈良県のいわゆる「妊婦たらい回し事件」(2007年8月)などを背景に、舛添は現場の医師から情報収集を行い、医師不足の問題への取り組みを始める。ただし、当時の厚労省は、現場の医師の声とは180度異なり、1997年の閣議決定に基づき「医師は余っている」との認識を変えていなかった。そこで、舛添は2008年1月、医政局に指示し「安心と希望の医療確保ビジョン検討委員会」を設置。人選が医政局によって進められたこともあり委員会の議論は医師過剰論に流れがちであったが、舛添は現場からの情報を提示しることで委員や職員を説得し、「従来の閣議決定に代えて、医師養成数を増加させる」などの文言を盛り込んだビジョンを策定した[8]。
なおこの間には、2008年1月19日、医師不足問題についての国民対話集会で、「医者は十年後にしか育たない。仮に、いま足りない医師をばーんと増やしたら、十年たったら余って医者のホームレスが生まれることになる」と発言し、厚生労働大臣としての配慮に欠けると批判されることもあった[9]。
2008年6月27日に上記のビジョンの主張を織り込んだ『骨太の方針』が閣議決定されると、舛添は政策の具体化を急ぐべく、半月後の7月、「『安心と希望の医療確保ビジョン』具体化に関する検討会」を設置。この検討会の委員は舛添自らが人選を行い、直接電話をかけて就任を要請。具体的には、山形大学の医学部改革を成し遂げた嘉山孝正、医療ADRによる医療コンフリクト・マネジメントを提唱する和田仁孝ら「日本の医療行政について積極的に発言し、厚労省に対しても歯に衣着せぬ苦言を呈することで知られた人物」を起用[10]。舛添は検討会の様子を次のように振り返っている。
人選から官僚の影響力を排除し、厚労行政の欠点を指摘し、批判すべきは批判するという立場の専門家を参加させることによって、「検討会」は活発な議論を展開していった。山形大学の嘉山氏は、それでも医師が置かれた現状について甘い認識しか占めそうとしない官僚を一喝し、現場のデータや実績を示した。また、早稲田大学の和田氏は、官僚主導で医療専門職に研修教育を行うという厚労省の考え方を批判し、「実践教育は現場主導で行うべきで、実際に行っている」と述べた。[11]
こうして検討会は16時間にわたる議論を積み重ね、2008年9月22日、「中間とりまとめ」を発表。「勤務医の待遇等の状況を改善するとともに、さらに医療の質を高めるため、医師養成数については増加させるべきである……将来的には50%程度医師数を増加させることを目指すべきである」などと宣言し、従来の医師数抑制政策からの大きな転換を実現させることになった。
労働問題
厚生労働大臣就任後、労働法制に詳しい識者にホワイトカラーエグゼンプション法を、「家庭だんらん法」に言い換えるよう指示。さらに法案成立に全力を尽くすとしている。
2008年4月23日、朝日新聞は、日本電産社長の永守重信が「社員全員が休日返上で働く企業だから成長できるし給料も上がる。たっぷり休んで、結果的に会社が傾いて人員整理するのでは意味がない」「休みたいならやめればいい」と述べたと報道した[12]。この報道に関して連合の高木剛会長は「まさに言語道断。労働基準法という法律があることを、また、労働基準法が雇用主に何を求めていると思っているのか、どのように認識されているのか。ぜひ問いただしてみないといけない、そんな怒りの思いを持って、この日本電産のニュースを聞いたところであります」と2008年4月26日のメーデー中央大会において発言した。同大会に出席していた舛添は、この高木会長の発言の直後に来賓挨拶を述べた。舛添は高木会長の発言を受けて「労働関係法令はきちんと遵守してもらわないといけない。きちんと調査し、指導すべきは指導し、法律にもとるものがあれば厳正に処分する」と明言した[13]。一方、日本電産は「休みたいならやめればいい」発言は事実ではないとする文書を同社の公式サイトに掲載している[14]。
2009年8月18日、横浜市内の演説で年末年始かけて東京・日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」に言及し、「(当時)4000人分の求人票を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を、働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」と述べた。これに対し、派遣村実行委員だった関根秀一郎・派遣ユニオン書記長は「求人として紹介されたのは確かだが、誰も応募しなかったというのは全くのでたらめ。たくさんの人が応募したが、断られたのがほとんどだ。舛添氏の発言は現場の実態が全く分かっておらず、あきれてものが言えない」と批判した[15]。誰も応募しないといのは明白に誇張表現であり、力のない人たちに対しては、立場を考慮することもなく厳しい発言が多いとの指摘がある。
主な所属議員連盟等
- 日韓議員連盟(幹事)
人物・エピソード
家族・親族
3度の結婚歴と2度の離婚歴がある[16]。最初の妻はフランス人、2度目の妻は官僚時代の片山さつき。1996年6月に元秘書の女性と3度目の結婚をしており、現在の妻との間に2児をもつ父親である。
文化人として
1989年6月30日放送の『朝まで生テレビ!』で「ぼくは社会党はなるべく早く新宣言(日本社会党の新宣言)を採択するように、相当協力してあげたわけですよ」と発言している(同席した当時の日本社会党政策審議会長であった伊藤茂は同宣言は党員自身の手で書いたと主張)。
政界入り以前は競走馬も保有していた。サプライズパワー(東京ダービー、かしわ記念、日本テレビ盃の勝馬)の馬主であり、サプライズパワーとアトミックサンダーで2年連続東京ダービーを制している。ファイティング・ナイフやハンティング・ナイフのコレクターで、東京でサミットが開かれて厳戒体制が敷かれているさなか、車(日産・テラノ)の荷台に何本かのナイフと1本の木刀を載せて都内を走っていて逮捕されそうになった。
英語とフランス語に堪能で訳書も多い。その他のドイツ語やスペイン語、イタリア語、ロシア語もある程度解せるそうで、1997年には『舛添要一の6カ国語勉強法』という本を出版した。留学先のフランスで始めた柔道は講道館二段である。
『朝まで生テレビ!』には草創期からの常連出演者で、番組20年目を迎えた2006年春までの229回の放送中95回に出演。これは大島渚(87回)、高野孟(66回)、西部邁(53回)などを凌いでトップである。1996年3月放送の『朝まで生テレビ!』(テーマ:ホンネ激論!日韓共生の道はあるか!?)において、2002年のワールドカップ誘致合戦に話題が及ぶと「私に言わせればサッカーなんてたかが球ケリですよ! たかが球ケリの為に日韓関係が壊れてはいけない。ぜひ次のワールドカップは韓国で開催して頂きたい。それで日韓関係が良くなるのならそのほうがいい。」と発言。韓国側のパネリストから拍手を受けた。
週刊文春の連載「デーブ・スペクターのTOKYO裁判」[17]で、中国天安門事件に関し舛添は「いや共産主義じゃなくとも、100万人ぐらい殺せる大政治家じゃないとどこの国でもダメだってこと」
2000年問題
2000年問題のとき、ホテルの缶詰などを用意していたが、結局何も起こらなかった。この事を『号外!!爆笑大問題』において「着々と準備中」とトーク。が、不用意に「自分は山かどこか安全な所にテントでもたてて、民間人は…(手助けしない)」と発言。渡辺正行から「それじゃあんた都知事選に落選するよ!」と突っ込まれた。
介護問題
2000年に実母が亡くなるまでの数年間は、介護のため週末は郷里の北九州市で過ごすことが多く、仕事の重点も関西にシフトさせていた。晩年認知症であったこの母の介護体験記『痴呆症の母を守って家庭崩壊』を『婦人公論』に連載[18]。母の介護を巡る困難や親族との軋轢など[19]を赤裸々に描き、大きな反響を呼んだ。この体験以来、福祉や介護問題を始めとした厚生行政への働きかけや問題提起を活発に行っている。介護体験は自ら政治の世界に足を踏み入れるきっかけの一つとなり、後の厚生労働大臣就任へとつながっていった[20]。
以上のような体験を持つため、麻生太郎外相(当時)の「アルツハイマー発言」には激怒。「バカと一緒になりたくない」と街頭演説の時間をずらすなど、党執行部にいながらも自由な発言をした。後に、「久間さんの失言問題と同じように辞めろと言うつもりだった。謝ったからいいけど」と、怒りが収まらないまでも、これ以上問題を引きずらないことを明らかにした[21]。
著書
単著
- 日本人とフランス人――「心は左、財布は右」の論理(光文社、1982年)
- 赤いバラは咲いたか――現代フランスの夢と現実(弘文堂、1983年)
- 1990年自民党が野党になる日 中道革新政権の科学的根拠(光文社カッパ・ホームス 1984年)
- 現代国際政治入門――世界力学地図の読み方(PHP研究所、1986年)
- 90年代の世界力学地図――「米ソの時代」から「日本の世紀」へ(PHP研究所、1988年)
- 日本人のための幸福論(講談社、1988年)
- 賤業としての政治家(飛鳥新社、1989年)
- 舛添要一の「日本を問う」(実業之日本社、1991年)
- 舛添要一のこれが世界の読み方だ――新しいナショナリズムの世紀が始まる(PHP研究所、1991年)
- 舛添要一の先見対談 時代を創る11人のキーパーソン テレビ東京編(フットワーク出版、1992年)
- 危ない日本を救う20の知的武装 この核心を知らずにことの真相は見えてこない(青春出版社、1993年)
- 政界大再編 鬼才・舛添要一が説く“政治-日本の道"(サンドケー出版局、1994年)
- 戦後日本の幻影<オウム真理教>(現代書林、1995年)
- 国連とはなんだ! あなたは国連のことをどれだけ知っていますか?(サンドケー出版局、1995年「世界を読む!」と改題、学研M文庫)
- 舛添要一の競馬改国論(サンドケー出版局、1995年)
- いま甦れ日本経済 税制・株・情報通信・エネルギー(財経詳報社、1995年)
- 舛添要一の6カ国語勉強法――体験に裏づけられた上達への近道(講談社、1997年)
- 学校で教えない時事・タブー この一冊で、現代が見える、明日が読める(ベストセラーズ、1997年)
- 日本再生への道 直言・行財政改革 舛添要一対論集(税務経理協会、1997年)
- 母を思い国を想う(読売新聞社、1998年)
- 母に襁褓をあてるとき――介護闘いの日々(中央公論社、1998年/中公文庫、2000年)
- 20世紀エネルギー革命の時代(中央公論社、1998年)
- 介護で後悔しないための、お金と心得がわかる本(PHP研究所、1999年)
- 少子高齢化ニッポン 大胆予測!これからどうなる(PHP研究所、1999年)
- 完全図解日本のエネルギー危機――データで読む「国民の常識」(東洋経済新報社、1999年)
- 変える! 東京大改造計画と問題解決の具体策(中経出版、1999年)
- 実践!介護サービス 快適な高齢社会を創る(PHP研究所、2000年)
- 舛添要一の40代は老後の分かれ道 いまから年金・介護・お金・健康を考える(フットワーク出版、2000年)
- 学び心 時代を勝ち抜く言葉を持とう(ブレインキャスト、2000年)
- 舛添要一の税金のことが面白いほどわかる本 ここがヘンだよ日本の税金(中経出版、2000年)
- 映画で学ぶアメリカ大統領 舛添要一のおもしろ国際政治学講座(スクリーンプレイ出版、2000年)
- 新聞・テレビの政治ニュースがわかる本(池田書店、2001年)
- 定年後実は第二の人生が楽しい事典(講談社、2001年)
- 舛添のどうなる日本?どうする日本!――国民で考えるエネルギー問題(東京書籍、2001年)
- 痴呆の母を看取って(佼成出版社、2001年)
- ビジネスマンのための実践男の介護(ブレインキャスト、2001年)
- 構造改革で得する人、損する人(幻冬舎、2001年)
- チェンジ!――日本が変わるべき50のこと(ダイヤモンド社、2002年)
- 「新しい戦争」と日本の貢献(小学館文庫、2002年)
- 日本脳内開国――直面している問題がおもしろいほどわかる(リヨン社、2002年)
- 内閣総理大臣――その力量と資質の見極め方(角川書店[角川oneテーマ21]、2002年)
- 今どこにある危機(スクリーンプレイ、2004年)
- マスゾエ式定年後極楽生活入門――50代からの「生活設計を楽しむ法」(小学館、2005年)
- 永田町vs.霞が関 最高権力を奪取する者は誰か(講談社、2007年)
- 舛添メモ――厚労官僚との闘い752日(小学館、2009年)
共著
- 1995年・日本と世界はこう変わる プロジェクト3D(PHP研究所、1986年)
- (プロジェクト3D)日本と世界これからどうなる――90年代への8つの視点(PHP研究所、1988年)
- 世界のことは、マスゾエに聞け 舛添要一先生(特)講義 幸田シャーミン 協和発酵広報部編 協和発酵工業 1991年)
- 十年後の衝撃 2001年・日本と世界に何が始まる プロジェクト3D(PHP研究所 1992年)
- <闘論>政治はこう動く 栗本慎一郎(講談社、1994年)
- (森永卓郎)日本経済復活へのファイナルアンサー(広済堂出版、2002年)
訳書
- エズラ・ヴォーゲル、クライド・プレストウィッツ他『危険な依存』(監訳、騎虎書房、1990年)
- ジュディス・ミラー、ローリー・ミロイエ『サダム・フセイン』(飛鳥新社、1990年)
- ゲイル・シーヒー、『フセインとゴルビー 王の明暗』(飛鳥新社、1991年)
- ケン・グロス『ロス・ペロー 合衆国大統領に挑んだ男』(飛鳥新社、1992年)
- シモン・ペレス『和解――中東和平の舞台裏』(飛鳥新社、1993年)
- ジャンマリ・ゲーノ『民主主義の終わり』(講談社、1994年)
論文
- 「変革への模索――1974年フランス大統領選挙」『比較文化研究』15号(1976年)
- 「安全と強制――フランスの安全とブリアン(1921年1月-1922年1月)」『社會科學紀要』26号(1977年)
- 「現代フランス社会論序説――暴力をめぐって」『社會科學紀要』28号(1978年)
- 「フランス第五共和政における政権交代」『国際問題』235号(1979年)
- 「フランス第五共和制の政治過程」日本政治学会編『年報政治学』(岩波書店、1983年)
- 「東西交渉と欧州の立場」『国際問題』313号(1986年)
作詞提供
- TOUGH BANANA(織田哲郎、江川ほーじんなど)『TOUGH BANANA(一部を除く)』
- 栗林誠一郎「Girls and Boys」 - アルバム「Good-bye to you」収録曲。栗林作詞の「Girl 今でも」を舛添自らが英語詞でリメイクした作品である。
テレビ出演
- CX 『FNN DATE LINE』(産経新聞早番コラムコーナー)
- EX 『朝まで生テレビ!』
- TBS 『オールスター激突クイズ 当たってくだけろ!』
- CX 『たけし・逸見の平成教育委員会』セミレギュラー(生徒役、「第一期」卒業生)
- EX 『ビートたけしのTVタックル』
- ytv 『たかじんのそこまで言って委員会』
- STV 『号外!!爆笑大問題』ゲスト
- NTV・ytv 『EXテレビ』
- TNC 『土曜NEWSファイル CUBE』(現時点で、厚生労働大臣就任後は電話出演)
- 政治学原論(CS局朝日ニュースターのトーク番組。厚生労働大臣就任後は出演休止中)
- NTV 『おしゃれイズム』2007年12月2日ゲスト
- 大暴れ仕事人!横浜異人屋敷の決闘・・・勝麟太郎役(賛助出演) 1990年
- 外国人が見たNIPPON
その他
脚注
関連項目
外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 柳澤伯夫 | 第8・9・10代:2007年 - 2009年 | 次代: 長妻昭 |
