ルドルフ・フェルディナント・ヘス
ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス(Rudolf Franz Ferdinand Höß, 1900年11月25日 - 1947年4月16日)は、アウシュヴィッツ強制収容所の所長。最終階級は親衛隊中佐。通常はルドルフ・ヘスと表記される。ナチ副総統(総統代理)のルドルフ・ヘスは別人(姓の綴りも異なる)であり、混同を避けるためにルドルフ・ヘースと表記されることもある。
概略
ヘスは1900年、南ドイツのバーデン・バーデンの厳格なカトリックの家庭に生まれた。いずれ聖職者にという父親の期待に応えることなく、1915年父親の死の直後15歳でバーデン第21竜騎兵連隊に志願し、トルコ軍と共にイラク戦線へ出征し、1917年に軍曹に昇進した。彼は一級および二級鉄十字章を受章。1922年にナチ党に入党、1924年、友人のマルティン・ボルマンと共に愛国者シュラゲーター (Schlageter) をフランス占領軍に売った密告者を殺害した罪に問われ、10年の懲役刑の判決を受けるが、1928年に恩赦で釈放される。
1934年親衛隊に入隊。ダッハウ強制収容所、ザクセンハウゼン強制収容所を経て、1940年5月にアウシュヴィッツ強制収容所の所長に任ぜられる。1958年に公表された彼の回顧録にある詳細なレポートによると、強制収容所のシステムはソ連の強制収容所をモデルに構築した。
ドイツの敗戦直前にハインリヒ・ヒムラーの命によりヘスは水兵に成りすまして逃亡。一度イギリス軍に捕まるも間もなく釈放され、偽名を使ってとある農家で働き始めた。妻から白状しなければ息子をシベリアへ送ると騙して居場所を聞き出したイギリス軍憲兵隊により、1946年3月11日にヘスは捕らえられた。逮捕後イギリス軍兵士によってリンチを受け、軍医の機転により救われた。ニュルンベルク裁判中において彼は、エルンスト・カルテンブルンナー、オズヴァルト・ポールとIG ファルベン裁判 (IG-Farben-Prozess) に証人として出廷した。1946年5月25日に彼はポーランドに引き渡され、1947年4月2日に絞首刑が宣告された。刑はかつて権力を振るったアウシュヴィッツ強制収容所の焼却炉の前で4月16日に執行された。現在もヘスの絞首台として残っており、見学する事ができる。死刑直前も彼はずっと落ち着いた様子だったらしい。
なお、回顧録の中で彼は自身を強い義務感を持って成長し、命令に従順で高徳を持つ追随者として描写し、自らの犯罪行為ではなく、家族に愛情を注いであげられなかったことを後悔していた。ヘスは妻との間に5人の子供を持っていた。
彼は、著書でシュトライヒャーが編集者である反ユダヤ主義新聞「シュトゥルマー」を「ユダヤ人が編集した俗悪極まりない新聞だ」と書き残している。
ヘスを演じた俳優
- コルム・フィオール 『ニュルンベルク軍事裁判(2000年)』DVD発売名「ヒトラー第三帝国最後の審判 ニュールンベルグ軍事裁判」
文献
- ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所:所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』片岡啓治(訳)、サイマル出版会、1972年
- ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所(文庫復刻版)』講談社学術文庫、2005年
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