ダッハウ強制収容所
ダッハウ強制収容所(Dachau)は、南西ドイツのミュンヘンの北西約16キロメートル(10マイル)にある中世都市のダッハウ近くの軍需工場跡地にあるナチス党率いるドイツ最初の強制収容所であった。ここは後に多く造られる強制収容所のモデルとなった。
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概要
1933年3月22日に開設され、ダッハウ強制収容所は国家社会主義ドイツ労働者党政権が開設した最初の常設強制収容所であった。ハインリヒ・ヒムラーはミュンヘンの警察長官としてこの収容所を公式に「政治犯を収容する最初の強制収容所」であると述べた[1]。
ダッハウはその後のナチスの強制収容所の原型と基準になった。建物の図面同様基本組織や配置は、テオドール・アイケにより行われ、その後の収容所に応用された。アイケは司令部に近い4分割した保安収容所、管理部、兵舎を置いた。アイケ自身は全国の強制収容所の監察長官になり、自分の案に従って作らせる責任を負った[2]。
国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが1941年1月2日に定めた政令によると、ダッハウは庭仕事など軽い仕事に従事することのできる者を収容する「第一カテゴリー」の収容所に属していた。したがってダッハウはナチ強制収容所の中では最も軽い収容所であった。1943年のヴァチカンとの合意の後には聖職者はこのカテゴリーの収容所に送られるようになった。[3]
全部で30以上の国々から20万人が送り込まれ、その内の3分の1近くがユダヤ人であった[4]。32099人が収容所内で死亡し、他に約1万人が主に疾病、栄養失調、自殺によりダッハウの支所で死亡した[5]。1945年初頭にナチスの撤退後にチフスが流行し、体の弱っていた囚人が多く死亡した。
ダッハウより大きいアウシュヴィッツ同様ダッハウは多くの人にとってナチス強制収容所の象徴になっている。ダッハウ強制収容所はイギリス軍やアメリカ合衆国軍に解放された2番目の収容所であったため、多くの人々にとって重要な場所となっている。従って、西側諸国がナチスの蛮行にじかに接した最初の場所のひとつであった[6]。
当初、解放したアメリカ軍はダッハウでガス室による大量虐殺が行なわれていた、と発表した。実際に1942年7月末にナチスはガス室を設置するようダッハウに命令を下しており、ダッハウに偽装シャワー室のガス室がつくられている。だがこの収容所でガス室が実際に稼働した事実を証明する資料はない。ダッハウでは絞首刑や銃殺による処刑も他のナチ強制収容所と比べるとかなり少なかった。[7]
組織
収容所は収容区域と火葬場の2区間に分かれていた。収容区域は32棟あり、ナチスの統治に反対して収監された聖職者用の棟が一棟と医学実験用に確保された一棟があった。収容施設と中央の調理場を結ぶ中庭は、囚人の略式処刑に利用された。高電圧の鉄格子、排水溝、七箇所の監視所のついた壁が、収容所の周囲を囲んでいた[8]。
1937年前半に、囚人を働かせていたSSは元々収容所があった場所に大きな複合建造物の建設を開始した。古い焼却場の解体を手始めに劣悪な環境で囚人はこの作業に駆り出された。この建設作業は公式には1938年8月半ばに完了し、収容所は実態は変わりはなく1945年まで運用された。従ってダッハウは第三帝国最長の強制収容所であった。ダッハウのこの区域は、強制収容所の傍に経済・民事幹部学校やSSの医学校などのSSの施設があった。この時期の強制収容所は、「保護拘禁所」と呼ばれ、全体の半分も占めていなかった。
ダッハウはキリスト教聖職者のための収容所という側面も持っていた。カトリック教会に残る記録によれば少なくとも3000人におよぶ修道者、助祭、司祭、司教が収容されていたとされる[9]。
1944年8月に、女性用の収容所がダッハウ強制収容所内に開設された。最初の一団は、アウシュヴィッツ・ビルケナウから来た。19人の女性監視員だけがダッハウで監視を行い、殆どは解放まで勤めていた[10][11]。
「制裁」
反抗したり失態をした囚人には親衛隊員の「制裁」が加えられた。「制裁」には食事抜き、長時間の直立不動、殴打、鞭打ち、手を後ろ手に縛りあげて木の柱に吊るしあげ、懲戒部隊への編入、強制労働分隊への編入、などが行われた。ダッハウで頻繁に行われた「制裁」が鞭打ちだった。打たれる回数は25回から30回ほどであることが多いが、打たれた数は囚人が大きな声で数えねばならず、数えるのを怠るとその鞭打ちは回数に含まれなかった。[12]
人体実験
ダッハウでは悪名高い「超高度実験」と「冷却実験」が行われた。ドイツ空軍のための実験であり、空軍軍医ジクムント・ラッシャー博士によって行われた。「超高度実験」は、高度の低気圧に人間がどこまで耐えられるかを調べるために行われた実験である。実験に使われた囚人はほとんどが死亡し、生き残った者も重大な後遺症を残した。「冷却実験」は冷たい海面に落ちたパイロットを救出できるかどうかを調べるための実験であり、冷たい水面につけるなどして囚人を凍死させた後、蘇生が可能かどうか様々に実験された。[13]
飢えとチフス
戦争終結が近付くにつれ、ダッハウの状況はだんだんと悪化していった。連合軍がドイツに迫ると、ドイツは囚人の解放を防ぐことを意図し、前線近くの強制収容所の囚人を内地の収容所に移した。移送元の収容所からの移送者が続々とダッハウに到着した。食事や水が殆どあるいは全くない状況で移送が終わると、囚人は消耗して衰弱し半死半生となる者も珍しくなかった。過重収容、貧弱な衛生状態、乏しい食料そして囚人の衰弱を原因とするチフスの蔓延が深刻な問題となった。
前線から続く新たな移送で、収容所はすぐに囚人で溢れかえり、衛生状態は人間の尊厳が守られる状況ではなくなっていた。1944年末から解放の日までに15,000人が死亡したが、その犠牲者の約半数がダッハウ強制収容所の囚人であった。ロシア人捕虜500人は銃撃隊により処刑された。
1945年4月27日に、国際赤十字委員会代表のヴィクター・モーラーは収容所内に立ち入ることが許され、食料を配布した。同じ日の夕方、囚人がブーヘンヴァルト強制収容所(強制収容所)から到着した。出発時は4,480人から4,800人いたものの移送中に多くが死亡し、到着まで生き延びることができたのは800人だけであった。2300体を越える遺体は列車内やその周囲にそのまま放置された。収容所の最後の所長エドゥアルト・ヴァイター親衛隊中佐(彼は1942年9月から1943年11月まで収容所所長だったマルティン・ヴァイス親衛隊中佐の後任と考えられている)は既に4月26日に逃亡していた[14]。
降伏の前日1945年4月28日には収容所長官マルティン・ヴァイスを始めとして収容所の守備隊や職員の多くがダッハウ強制収容所を離れていた。同日、赤十字の代表ヴィクター・モーラーは、収容者の集団脱走とチフスの流行が周辺地域に広まることを懸念し、収容所に残ったヴァイスの副官ヨハネス・オットー中尉に対して、収容所を放棄せずアメリカ軍が到着するまで囚人を外に出さないために守備隊を配置しておくように説得したが、オットーはそれに応じず逃亡した。
収容所解放
1945年4月29日、ダッハウ強制収容所の監視塔は連合軍に占領され、白旗が翻った。赤十字代表モーラーはハインリヒ・ヴィッカー収容所長を正式に強制収容所を降伏させようとダッハウ強制収容所の正門に呼び出そうとしていた。
1945年4月29日午後遅く、ダッハウ強制収容所はハインリヒ・ヴィッカーSS少尉によりアメリカ軍に降伏した[15]。降伏の際の情景が、ヘニング・リンデン准将の公式報告「ダッハウ強制収容所の降伏に関する報告」に鮮やかに描かれている。
収容所が連合軍に降伏すると、収容所守備部隊は米兵が行った即決裁判による銃殺刑(いわゆる「ダッハウの虐殺」)のために恐慌に陥った。殺された正確な人数は不明であるが、ある資料によるとこの方法で処刑されたのは35人に過ぎず、残りの515人は恐らく逮捕されたり逃亡したと考えられている。米兵に殺害された者の中には、ダッハウ収容所最後の所長だったヴィッカーSS少尉もおり、兵士らに私刑を受けた後に銃殺された。ヴィッカーの遺体は収容者の遺体と共にしばらく放置された。
アメリカ軍は32000人の囚人を見付けた。定員250人の収容棟20棟には囚人が1600人ずつ詰め込まれていた。アメリカ軍は39輌の列車に各々100体以上の遺体が詰め込まれているのも発見している。
収容所は1945年4月29日にアメリカ第7軍第42歩兵師団により解放されたということになっていたが、場所や存在は知られていなかった。この部隊は命令もなく他の部隊から准将として入隊することを拒否されたフェリックス・L・スパークス中佐が指揮していた。スパークスは告発され、逮捕されたが、告発はジョージ・パットン将軍が退けた(スパークスは本当に第42歩兵師団第157歩兵連隊に加わっていた。第42師団や第45師団という部隊は、実際にダッハウに一番乗りしたことについて不和の間柄であった)。パットンは吐き気をもよおすような収容所の状況に衝撃を受けたといわれる。
なお、実際には日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊が収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていたが、このことは戦後しばらく隠された。
アメリカ軍は婦女子を含む地域市民に収容所に来ることを命令し、収容所の中を見せ、施設の掃除を手伝わせた。地域住民はこのような扱いに憤り、収容所で何が起きていたか知らなかったと言ったがアメリカ軍は取り合わなかった。
ダッハウにおける解放後の復活祭
解放の数日後は、正教会の復活祭であった。カトリック司祭たちは通常の主日のミサを祝い、ギリシャ人やセルビア人、ロシア人などの司祭数名がSSのタオルから作った間に合わせの祭服を纏って復活大祭を祝った。ギリシャ人やセルビア人、ロシア人数百人の信徒たちも集まって式が行われた。ラールという名前の囚人は、この時の様子をこう述べている。
今日収容所にはロシア正教の礼拝堂があり、収容所の門を出る囚人を導いたキリストの優雅なイコンでよく知られている。 なお、ダッハウ解放の際のアメリカ合衆国第7軍については、『アメリカ合衆国第7軍作戦報告』第3巻382ページを参照のこと。
解放後
解放後、強制収容所はアメリカ軍の埋葬場に使用され、強制収容所のシンボルとしてヴァイスら同収容所関係者を裁いたダッハウ裁判の開催地ともなった。1948年、バイエルン州政府がこの場所に難民用の住居を建設し始め、長年使用された。[16]
収容所を記憶するために
時が過ぎ、かつて囚われていた人々は、こうした状況で収容所に生きる人々(難民)が依然としていることが信じられない思いで収容所の跡地に記念しようと結束した。
ディスプレイは2003年に再構築されたもので、収容所の見学順路に置かれている。著名な囚人が何名か紹介されている。記念碑建設の際には元の建屋の状況が酷かったために、建屋が二つ再建され、収容所の歴史が遍く見られるようになっている。残りの28棟は、コンクリートの土台で場所を示している。
跡地には囚人が信仰した様々な宗教のために礼拝堂が4つある。地元政府は跡地の完全利用に抵抗した。かつて収容所に隣接していたSSの建屋は、現在Bereitschaftspolizei(機動隊)が使用している。[17]
収容所所員
所長
- 1933年4月19日‐1933年6月25日、ヒルマール・ヴェカーレ親衛隊大佐(de:Hilmar Wäckerle)
- 1933年6月28日‐1934年12月10日、テオドール・アイケ親衛隊中将(Theodor Eicke)
- 1934年12月10日‐1936年4月1日、ハインリヒ・デューベル親衛隊上級大佐(de:Heinrich Deubel)
- 1936年4月1日‐1940年2月19日、ハンス・ローリッツ親衛隊上級大佐(de:Hans Loritz)
- 1940年2月19日‐1942年9月1日、アレクサンダー・ピオルコウスキー親衛隊大尉(de:Alexander Piorkowski)
- 1942年9月1日‐1943年10月31日、マルティン・ゴットフリート・ヴァイス親衛隊中佐(Martin Gottfried Weiss)
- 1943年10月1日‐1945年4月28日、エドゥアルト・ヴァイター親衛隊大尉(de:Eduard Weiter)
- 1945年4月28日、ヨハンネス・オットー親衛隊少尉(de:Johannes Otto)
- 1945年4月28日‐1945年4月29日、ハインリヒ・ヴィッカー親衛隊特務曹長(de:Heinrich Wicker)
看守
- ミヒャエル・リッペルト:1933年から1934年に勤務。アイケの副所長。
- ルドルフ・フェルディナント・ヘス:1934年から1938年に勤務。後アウシュヴィッツ強制収容所所長。
その他関係人物
- ジクムント・ラッシャー:ダッハウ内でデタラメな医学実験を実施した医師。
ダッハウに収監された著名人
ユダヤ人
- ブルーノ・ベッテルハイム 1938年に収監、1939年に釈放、ドイツを去る。
- ハンス・リッテン 反ナチスの弁護士。1933年に逮捕され、1938年に自殺。
- ヤーコプ・エールリッヒ ウィーン市議会議員(Rat der Stadt Wien)、1938年5月17日ダッハウにて死去
- ヴィクトール・フランクル オーストリアウィーン出身の精神科医で心理学者
- ヴラデク・シュピーゲルマン アート・スピーゲルマン著「マウス」に描かれた生還者
- アルフレッド・グルーネバウム アメリカ合衆国の有名な産婦人科医アモス・グルーネバウムの父
- ダヴィッド・ルートヴィヒ・ブロッホ 画家、水晶の夜に関係して1938年11月に逮捕される。
- レオン・ブルム フランスの元首相。1945年4月にブーヘンヴァルトから移され、まもなくチロルへ移される。翌5月に解放。
レジスタンス
- アルチュール・オロ
- フランク・カロ
- ゲオルク・エルザー 1939年にヒトラーを暗殺しようとし、1945年4月9日に殺された。
- ジョルジュ・シャルパク 1992年にノーベル物理学賞を受賞した。
- クルト・ネールリンク 1943年に死去。
- ヌーア・イナヤット・カーン パリのWAAFのために地下ラジオ放送を行ったインド出身のジョージ十字章受章者。1944年殺害。
聖職者
ダッハウには特別な「司祭区域」があった。ダッハウに捕らえられた2720人の司祭の内(そのうち2579人はカトリック)、1034人は生き残れなかった。大半がポーランド人(1780人)で、その内の868人が死亡した。
- Adam Kozłowiecki ポーランド人枢機卿。生還。
- Lawrence Wnuk ポーランド人司祭。
- Michał Kozal 福者
- Aloys Scholze 1942年9月1日死去
- Anton Fränznick 1942年からダッハウに収監され、1944年1月27日死去
- Stefan Grelewski 福者 カトリック司祭、囚人番号25281、1941年5月9日にダッハウで餓死。
- Stefan Wincenty Frelichowski 福者 カトリック司祭、1945年2月23日死去。
- Hermann Scheipers
- Hermanus Knoop カルヴァン派(Gereformeerd)牧師、「政治的な説教を行った」として1941年11月19日逮捕。
- Joseph Kentenich 信心活動であるシェーンシュタット運動(Schoenstatt Movement)創始者、3年半をダッハウで過ごした。
- Karl Leisner 1941年12月14日から収監され、1945年5月4日に解放されるが、収容所で罹患した結核により8月12日死去。
- マルティン・ニーメラー 1941年に収監され、1945年5月4日に解放される。
- Nanne Zwiep オランダカルヴァン派教会牧師、反ナチスとナチスのオランダ市民やユダヤ人に対する扱いに対する説教で1942年4月20日に逮捕され、ダッハウで1942年11月24日に疲労と栄養失調で死去する。
- Norbert Capek(1870年-1942年) チェコ共和国のユニテリアン派教会の創立者。1942年に殺害される。
- リヒャルト・シュナイダー 1940年11月22日からダッハウに収監され、1945年3月29日に解放される。
- ティトゥス・ブランマ(Titus Brandsma) 福者 オランダのカルメル会修道士で哲学教授、1942年7月26日死去。
- ジャン・ベルナール(1907年-1994年) 1941年5月から1942年8月まで収監されたルクセンブルグ出身のカトリック司祭。ベルナール神父はダッハウでの経験を著書『Pfarrerblock 25487』に書いた。フォルカー・シュレンドルフ監督のThe Ninth Dayは、ベルナールの日記を基にしている。
- Nikolai Velimirović(1880年-1956年) セルビア正教会の主教で神学者。1944年11月14日にダッハウにセルビア正教会の総主教Gavriloと共に送られた。
政治家
- アロイス・フンドハーメル 1933年6月21日に逮捕され、1933年7月6日に釈放される。
- ヒャルマル・シャハト 1944年に逮捕され、1945年4月に釈放される。
- ヤン・ブゼク 1940年11月に殺害される。
- クルト・シューマッハー 1935年7月からダッハウ強制収容所に収監され、1939年にフロッセンビュルク強制収容所に送られ、1940年に戻り、1943年3月16日に重病のために釈放される。
- レオポルト・フィグル 1938年に逮捕され、1943年5月8日に釈放される。戦後オーストリア首相。
- シュテファン・ストラジンスキー ワルシャワ市長で1939年に逮捕され、恐らく1943年にダッハウで殺害された。
共産党員
- アルフレッド・アンデルシュ 1933年に6ヶ月間収監される。
- ハンス・バイムラー 1933年に収監されるが脱走。スペイン内戦で死去。
- Emil Carlebach(ユダヤ人) 1937年からダッハウ、1938年にブーヘンヴァルト強制収容所に移る。
- アドルフ・マイスリンガー
- Nikolaos Zachariadis(ギリシャ人)ギリシャ共産党書記長。1941年11月から1945年5月まで
- オスカル・ミューラー 1939年からダッハウ、1945年解放。
- Nando Gherghetta(イタリアイストリア半島出身) 1943年から
著作者
- フリッツ・ゲルリヒ
- Gustaw Morcinek ポーランドシレジアの作家
- ハインリヒ・エドゥアルト・ヤコブ ドイツ人作家、ダッハウに6ヶ月間いて、ブッヘンヴァルトに移送される。
- ユーラ・ゾイファー 著作者、1938年にダッハウに6ヶ月間いて、ブッヘンヴァルトに移送され、1939年に殺害される。
- Raoul Auernheimer 著作者、ダッハウにて4ヶ月間収容される。1938年に釈放。
- Stanisław Grzesiuk ポーランド人著作者、詩人、歌手。1940年4月4日からダッハウにいて、後にマウトハウゼン強制収容所に移送される。生還。
- Stefan Kieniewicz ポーランド人歴史学者
- Stevo Žigon(囚人番号:61185) セルビア人俳優、劇場監督、著作者、1943年12月から1945年5月までダッハウに囚えられる。
- Tadeusz Borowski 著作者、生還するが、1951年に自殺する。
- フランツ・ロー ドイツ人芸術家、芸術史学者、1933年に数ヶ月間収監される。
- ロベール・アンテルム フランス人著作者
- Boris Pahor スロヴェニア人著作者
王室
- アルプレヒト・フォン・バイエルン
- アントニア・フォン・ルクセンブルク - ループレヒト (バイエルン王太子)妃
- ゲオルク・フォン・バイエルン
- マクシミリアン (ホーヘンベルク公)
- エルンスト ・フォン・ホーヘンベルク オーストリア大公子息
- ゾフィー・フォン・ホーヘンベルク オーストリア大公息女
バイエルンのヴィッテルスバッハ家の一族はナチスの支配を嫌いハンガリーに移住していたが、1944年のナチスのハンガリー占領時に捕えられ、ザクセンハウゼン強制収容所に収容され、その後1945年初旬にダッハウへと移された(王太子ループレヒトは1939年にイタリアに亡命していたため、難を逃れた)。
フランツ・フェルディナント大公の子女はウィーンのアーツテテン公邸に居住していたが、アンシュルス(大ドイツへのオーストリア併合)後に1944年-45年にダッハウに収監された。
その他
- フランツ・ハルダー 前参謀総長。
- ハンス・フォン・ザイサー ミュンヒェン一揆時のバイエルン州警察長官。生還。
- フリッツ・ティッセン 実業家で当初はヒトラーを支持したが後に反対派に回る。生還。
- ヨハン・ラング オーストリアの死刑執行人。収容された1938年に死去。
参考文献
- マルセル・リュビー著「ナチ強制・絶滅収容所」筑摩書房。ISBN 4480857508 ISBN 978-4480857507
参照
- Buechner, Howard A., Dachau—The Hour of the Avenger, Thunderbird Press, ©1986, paperback, 159 pages, ISBN 0-913159-04-2, first published in 1986. LC Control Number: 87181873.
- Kozal, Czesli W. Memoir of Fr. Czesli W. (Chester) Kozal, O.M.I. / translated from the Polish original by Paul Ischler. Private printing, Missionary Oblates of Mary Immaculate, 2004, 175 pp. LC Control Number: 2004400050
- Marcuse, Harold, Legacies of Dachau: The Uses and Abuses of a Concentration Camp, 1933-2001, 600 pages, Cambridge University Press, 2001. more information
- The Fighting Forty-Fifth: the Combat Report of an Infantry Division, compiled and edited by Lt. Col. Leo V. Bishop, Maj. Frank J. Glasgow, and Maj. George A. Fisher. Copyright 1946 by the 45th Infantry Division, printed by Army & Navy Publishing Co., Baton Rouge, LA. LC Control Number: 49051541.
外部リンク
- Biography of One Survivor of Dachau(個人サイト)
- "The Souls are All Aflame." An account of the Paschal services in Dachau in 1945
- Communists to be interned in Dachau, ガーディアン紙、1933年3月21日、収容所開設に関する同時代の報告
- Events of the Dachau Camp's liberation on April 29th, 1945
- Dachau Concentration Camp Memorial Site
- Interior and Exterior Images of the Dachau Camp
- Memorial to those who suffered at the eleven Kaufering subcamps of Dachau and the US. 12h Armored Division(個人サイト)
関連項目
座標: 北緯48度16分13秒 東経11度28分05秒 / 北緯48.27028度 東経11.46806度
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