孫文

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孫文 
孫文

任期:1912年1月1日 – 1912年4月1日

出生:1866年11月12日同治5年10月初6日)
清国 広東省香山県翠亨村(現・中山市
死去:1925年民国14年)3月12日
border‎ 中華民国 北京
政党:中国同盟会中国国民党
配偶:宋慶齢
孫 中山
職業:革命家政治家
各種表記
繁体字孫中山
簡体字孙中山
Sūn Zhōngshān
和名表記:そん ちゅうざん
発音転記:スン・ヂョンシャン
ラテン字Sun Chung-shan
英語名Sun Yat-sen
 Template‐ノート:中華圏の人物 

孫文(そんぶん、1866年11月12日 - 1925年3月12日)は、中国の清末民初期の政治家革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 中山 (Zhōngshān)、載之。(別名は德新帝象長野高雄載之日新中山樵) 。中国では前者で、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senで知られる。

中華民国では国父国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸の両国で尊敬される数少ない人物である。

中国では孫文よりも孫中山(スン・ヂョンシャン)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼ばれている。中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学および中華民国の国立中山大学は孫中山からの命名である。クリスチャンであった。

目次

生涯

生い立ち

清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の客家農家に生まれる[要出典]アメリカ新領のハワイにいた兄の孫眉を頼り、ハワイのキリスト教系学校に学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された。帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガル植民地マカオ医師として開業した。

革命家へ

清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年、ハワイで興中会を組織した。翌年、広州蜂起に失敗して日本とアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。1905年に欧州から帰国をする際にスエズ運河を通った際に現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。日本に学び東京にて興中会、光復会華興会を糾合して中国同盟会を結成する、孫文の革命思想の大きな根源は日露戦争による日本の勝利に帰している。

中華民国建国

1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国南京に成立した。しかし、孫文は革命政府を維持するため、宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る。袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命した。日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている[1]

この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年1916年とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった[2]

「革命未だならず」

孫文の晩年の写真(1924年)
孫文の晩年の写真(1924年)

詳細は「護法運動」を参照

袁の死後は、西南の軍閥の力を利用し、広州で政権を樹立して軍閥が割拠する中国の統一を図った。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明との路線対立により、広州を追われた。その後、軍閥に依拠せず、自力で軍隊を構築し、統一政権を樹立するために、ソ連の支援を仰いだ。さらに中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、さらに「聯蘇容共」を自ら唱えた。これは孫文自身が左派であることを示し、反共的な蒋介石らや財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、蒋介石を裏切り者と攻撃した。

1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。また、死の前年の神戸での「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義にたいし東洋の王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。

革命政治家として

孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。

連ソ容共政策

孫文は自らの軍事力を確保するため、ソビエト連邦からの支援を求めて連ソ容共政策を開始した。1923年1月26日、上海における孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約した。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧問となった。ボロディンの進言により1924年、中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、黄埔軍官学校も設立された。1925年にはソビエト連邦と中国共産党により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。

孫文の遺言のひとつ(要約)

「余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。

しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」

中山という号の由来

孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。「中山家」は公家華族)の家柄であり、明治天皇の生家にあたる。日本では「中山樵(なかやま しょう)」を名乗っていた。

現在中国台湾にある「中山大学」、「国立中山大学」、「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号に由来している。

中国人の多くは孫文を孫中山と呼んでいるが、中山という名前が日本に由来している事を教えられておらず、ほとんどの中国人はこの事実については知らない。

日本における評価

孫文の評価は一見わかりやすいようでいて、実のところほとんど一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価され、特に1924年の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。

とりわけ孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目標のためには手段を選ばない運動のスタイルである。彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、リベラル・デモクラシー、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。

孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものであると言える。孫文の活動した時代を扱った中国史の研究書の中でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前がそれほど登場しないというごく単純な理由にある。実証的な研究の進展に伴い、孫文の研究は中国近代史全体を理解するためのものというよりも、「孫文研究」という一つの専門領域となっている傾向があると言えるだろう。

人柄

生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。また非常に短気で激昂しやすい性格であったといわれる。

脚注

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関連文献

  • 日本孫文研究会『孫文と南方熊楠』汲古書院
  • 孫文研究会『辛亥革命の多元構造』汲古書院
  • 日本孫文研究会『孫文と華僑』汲古書院
  • 日本孫文研究会『孫文とアジア―1990年8月国際学術討論会報告集』汲古書院
  • 陳旭麓・郝盛潮主編『孫中山集外集』上海人民出版社、1990年7月
  • 秦孝儀主編『国父全集』台北近代中国出版社、1989年11月
  • 横山宏章『孫文と袁世凱-中華統合の夢』岩波書店、1996年
  • 読売新聞西部本社『梅屋庄吉と孫文-- 盟約ニテ成セル』海鳥社、2002年
  • 藤村久雄『革命家 孫文―革命いまだ成らず』中公新書、1994、ISBN 4121011848
  • 陳徳仁・安井三吉『孫文と神戸』神戸新聞出版センター、1985、ISBN 4875210523
  • 島田虔次・近藤秀樹『三十三年の夢』岩波文庫、1993、ISBN 400331221X
  • 「福田惠子孫文の人物像と日本人ネットワークの検討」[1]国際開発学研究(拓殖大学)
  • 竹之内安巳「孫文革命の展開と何香凝」[2][3][4]鹿児島経大論集(鹿児島大学)...孫文の盟友廖仲愷の妻であり革命運動を支えた何香凝による「我的回憶」の要約


孫文が登場する作品

映画
  • 孫文 (1986年の中国映画)(1986年、中華人民共和国、監督:丁蔭楠、孫文役:劉文治)
  • 孫文 (1986年の香港映画)(1986年、香港、監督:丁善璽、孫文役:リュー・チャーフィ)
  • ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱(1993年、香港、監督:ツイ・ハーク、孫文役:ジャン・ティエリン)
  • 宋家の三姉妹(1997年、香港、監督:メイベル・チャン、孫文役:ウィンストン・チャオ)
  • 孫文 -100年先を見た男-(2006年、中国、監督:デレク・チウ趙崇基、孫文役:ウィンストン・チャオ)
  • 十月囲城(2009年、香港・中国、監督テディ・チャン、孫文役:チャン・ハンユー)
漫画
同人誌

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
 border‎ 中華民国(南京臨時政府)
先代:
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初代:1912年1月 - 4月
次代:
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 中華民国軍政府
先代:
(創設)
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次代:
岑春煊(主席総裁)
先代:
岑春煊(主席総裁)
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次代:
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gan:孫中山hif:Sun Yat-Sen

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